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 その過程で歌舞伎の国劇としての社会的認知をねらって「天覧」を画策するが(能はすでに一八七六年に天覧を果たしていた)、一八八〇年に岩倉具視の反対で失敗し、政界・産業界を巻き込んだ演劇改良運動がのぞまれた。官民が一体となって新しい劇場の建設をすすめようという声は、演劇改良運動の提唱とともに大きくなった。それがはっきりと形をあらわしたのは、一八八六年八月の、イギリスより帰国した末松謙澄を中心とした、すでに触れた演劇改良会の結成であった。演劇改良会は「第一 従来ノ演劇ノ随習ヲ改良シ、好演劇ヲ実際ニ出サシムコト、第二 演劇脚本ノ著作ヲシテ栄誉アル業タラシムコト、第三 構造完全ニシテ演劇其他音楽会・歌唱会等ノ用ニ供スヘキ一演技場ヲ構造スルコト」を目的としていた。とくに「第三」の「演技場」すなわち劇場の建設資金をつくるために、資本金二五万円で株式会社東京演劇会社が設立された。肝腎の劇場は、「劇場建築の製図を英人コンドル氏に委託し、是も最早平絵図丈は調製したるが其大略は間口百八フート(凡十六間半)・奥行二百五十フート(凡四十二間)の三階家煉瓦造りにして、西洋各国の劇場を模したるものゝ由」とのことであった。演劇改良運動の趣旨にそって、興行の短時間化や男女混合劇の実現なども合わせて提唱された。演劇改良会の運動もあって、一八八七年に歌舞伎の「天覧」は実現し、歌舞伎が国劇としての正統性を明治政府によって認定されることとなった。
 演劇改良会のメンバーの多くが、演劇の「改良」とそれにともなう国劇としての歌舞伎の完成を最優先とし、ともすれば演劇の形式整備と近代的大劇場の完成を目的としがちななかで、演劇理念の問い直しに関心をもった知識人もいた。坪内逍遥、高田早苗、森鴎外らである。なかでも鴎外は、ヨーロッパ留学中にパリの壮麗な劇場に驚嘆し、国家がその維持に一役買っていることを「航西日記」(一八八四年)「欧州の劇場」(一八九一〜九二年)に記しているが、彼の関心は、その建物の豪壮さよりも、演劇そのものの有様に向かう。すでに鴎外は一八八九年に「中村座新狂言 仇名草由縁八房之評」といった劇評に手を染め、また、盛んになった演劇改良運動には、「演劇改良論者の偏見に驚く」演劇においては戯曲の主にして演劇の客なることを明に」したうえで、「戯曲と演劇と劇場とは、固より当に相輔けて能く其芸術の美を致すべき」であるが「演劇にして果たして戯曲を以て主となさば演劇の処たる劇場は抑も末の又末なり」と述べ、演劇改良運動が劇場の改良を急ぐことを難詰した。それでも、現在の日本において「無形」の戯曲よりも「有形の劇場より着手」することには「公衆の注意を喚起すに便なる利益」があるとして劇場の有り様を議論することに意味を見いだした。しかし改良論者たちの手本とした劇場が、「西洋大都」の「整巧完美」なる舞台であることに疑念を呈し、西洋の正劇と歌劇のうちで正劇の舞台にふさわしい「簡古素僕」な劇場を構想すべきだとした。鴎外は、演劇の精神面を重視し、演劇改良運動が外面的な形式を重視したものとなりつつあることを危惧したのであった。また、「再び劇を論じて世の評家に答ふ」「演劇場裏の詩人(日本演芸協会にての演説)」を発表して、重ねて演劇における脚本の重要性と「簡樸なる」劇場の必要性を説いた。翻訳以外の劇作があるわけでもない鴎外の演劇の有り様に対する発言は、この時期の日本において例外的なものであったといえよう。
 
帝国劇場貴賓席破風上の彫刻
[高畠華宵大正ロマン館提供]
 
 結局、新劇場の建設や観劇慣習の変更は、ただちに実現するまでにはいたらなかった。しかし、一八八七年の歌舞伎天覧の実現や、東京府における一八九〇年の男女混合劇の解禁など、演劇改良運動は次第に演劇界の動向を左右するようになっていった。その一端は、一八八九年の歌舞伎座の開場にも現れていた。歌舞伎座は、劇場経営を俳優から切り離し、独自の運営を試みた。これは、のちに松竹などによって通例となる経営形態の雛形となった。
 この時期の国立劇場構想は、既存の劇場を前提とすることなく、もっぱら国家の近代化と歩調を一にすることに意が用いられていたと考えられる。それは貴族社会の宮廷劇場が市民社会の成立にともなって国立劇場となったヨーロッパの多くの例と異なっていた。
 
帝国劇場二階大広間
[高畠華宵大正ロマン館提供]
 
■欧化と日本的伝統のせめぎ合い
 国立劇場に類する劇場を望む声は、日清日露両戦争を経て大国日本との国家意識の高まりとともに、実業界でも大きくなった。一九〇六年には伊藤博文を中心に財界の有力メンバーによって国立劇場設立発起人会が開催されたが一回のみの会合で終わった。
 この間、他のナショナリズム装置も生まれた。東京・京都・奈良の帝室博物館がその代表的なものであった。ここで注目しておきたいのは、これらの施設=装置が、鹿鳴館文化と称される欧化と、儒教的倫理観の強化と連環した「日本的伝統」の強化の狭間にあった点である。鹿鳴館を設計したコンドルが、日本の伝統美を収蔵展示することを目的とした上野の帝室博物館を設計したのは、象徴的であった。日清戦争後の一八九六年まで東京美術学校に西洋画科が設置されなかったことなどもこうした事例として挙げられよう。日露戦後は、反戦論や社会主義的思想が台頭し、政府が「思想悪化」と呼ぶ状況となったが、これに対する教育や言論に対する種々の施策に比して、ナショナリズム装置として、劇場はもちろんのこと、博物館やその他の文化施設は、むしろ目立たないといってもよいのではないか。この背景には、明治政府の舞台芸能を代表とした芸術全般の軽視と、欧化と「日本的伝統」の強調のせめぎあいとがあったからだといえよう。
 帝国劇場はこうした状況を反映して生まれた洋風劇場であった。その背景には、日本文化、とくに歌舞伎の鑑賞を希望する外国人に対して適切な劇場がないこと、また、従来の劇場がお茶屋制度などの古い因習により新しい観客にとって足を運びにくい場所となっていたことが、『帝劇十年史』に記されている。帝国劇場設立を提唱したのは、伊藤博文・西園寺公望ら政府中枢を担う政治家と渋沢栄一・大倉喜八郎ら政商たちであった。外国人に国劇を観せる西洋劇場が「帝国劇場」、すなわち英訳すればインペリアルシアターという名で私設されたのは、先に述べたせめぎあいを端的にあらわしていた。そのインペリアルシアターを、ヨーロッパの宮廷劇場に類するものと勘違いして、音楽監督に招聘されたイタリア人のバレエ教師ローシーが喜び勇んで日本にやってきて、大きな失望を味わったのも有名な話である。ヨーロッパの宮廷劇場こそは、かつての王侯貴族の劇場が一九世紀の市民社会の台頭のなかで新たな公共性を獲得し、この時期、すなわち二〇世紀初頭には公立劇場化しつつあった。







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