スタートした帝劇は、開場直後から順調な経営をおこなった。劇場運営が落ち着きをみせた一九一二年前半の演目をみると、歌舞伎上演を中心に新劇、オペラやオーケストラの上演など多目的に使用していることがわかる。料金は、高い出し物のときで五十銭から五円、マチネなどの低料金のときで十五銭から一円くらいであった。もうひとつ注目すべき点は、付属の技芸学校を設置して俳優やスタッフの養成システムを持ち、専属俳優制をとったことであろう。とくに女優の養成システムは日本初のことであり、松竹など先行する興行会社にも影響を与えた。また、帝劇では、一九一一年八月に帝劇オペラ部を設置し、早くも一二月には日本人によるオペラ上演も試みている。その指導をおこなったのが先にも述べたローシーであった。しかし、帝劇の理想は長く続かなかった。例えば、オペラ部にしても、財政難から一九一四年五月には洋劇部に改称されて管弦楽のあまりともなわない劇の上演に切り替えたが成功せず、二年後の一九一六年五月に洋劇部は解散されてしまった。また、帝劇は低料金の理想をかかげてスタートしたが、席料の値上がりが続き、他の劇場と変わりなくなった、との批判もささやかれるようになった。
帝国劇場二階大食堂
帝国劇場喫煙室
帝国劇場貴賓休憩室
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