II 防災計画に基づく劇場作り
劇場が堂々と建っている理由には、もちろん国家や都市の文化的象徴という意味合いがある。しかし別な側面として、防災に対する意識が色濃く計画に反映されていることも事実である。それが本邦初という事業にもかかわらず、後々に影響を与える革新的劇場の基礎になった。情報量も少なく設計期間も決して十分とは言えない状況にあって、複雑な劇場設計・技術設備と従来にない公演形態・サービスの体系を短期間に摂取したのは、偶然ではなく周到な準備があってのことだ。
横河は一八九六年から翌年まで、三井本館(一九〇二年)設計に当たって指導を受けたカーネギー社を訪ね渡米している。その折に鉄骨構造技術だけでなく、オフィスと百貨店という二〇世紀資本経済の代表格ともいえる施設を経営面からも研究して帰ってきた。特に百貨店については、「呉服店及雑貨店建築取調報告書」において、新しい商形式の導入や顧客層の拡大・サービス意識の必要性を絵入りで説明している。それは三越本店(一九一四年)開設に役立てられたばかりでなく、彼自身にプラグマティックな精神と経営感覚を植えつけるきっかけとなった。また、三井本館の成果をもとに、東京帝大工科大学で一九〇三年から二年間鉄骨構造の講座を開講している。こうした一つ一つが、根本的に物事を捉え、基本から組み立てる彼の建築作りの原動力だった。
一九〇三年に設計・監理を行う横河工務所を開設しただけでなく、設計監理に当たっても、施工を直営方式で請け負うなど施工技術面でも大きな関心と自信を持っていた。建築業有志協会(現・建築業協会)設立(一九一一年)など建築業界の連携と信頼確保のために社会活動に尽力する一方、横河橋梁製作所(一九〇七年)・横河化学研究所(一九一四年)・横河電機研究所(一九一五年)等を創立し、実業家としてそれらの母胎を築き上げた。様式に則った美の追求者といった西欧型の建築家像から離れ、独自の領域を開拓していく建築家が誕生したことは、次第に成長する日本の姿を反映しているだけでなく、総合建設業といった産業の基礎作りを主導するものでもあった。
II-i ヨーロッパにおける劇場防災規制
一九世紀後半における欧米の劇場は、火災の歴史でもあった。劇場火災が急増した理由は、産業振興と共に都市に集中する人口を反映し劇場が飛躍的に増えたこと、照明にガスが使われるようになったことの二点が挙げられる。舞台照明にもガス照明が広く応用され、パイプに幾つも穴を空けて火を灯すという「ガスバトン」が、今日のボーダーライトのように使われていた。炎が幕や大道具等に直接触れる危険を防止するため、ガラス筒や金属製フレームで灯火を囲うという対策が施されていたが、そもそも動く要素が多い舞台で安全を確保することは不可能に近かった。しかも、何でもありの舞台では、演出と災害の区別もしにくいといった側面があり、避難が遅れる要因になった。公演中よりも終演後の火災発生が多く、楽屋での暖房や明かり、熱せられた大道具や小道具の収納場所など劇場内のあらゆる箇所が危険と背中合わせだった。電気が劇場において一般化される以前の様々な照明や暖房設備は、メンテナンスが難しく、安全性に大きな問題を抱えていたのである。
(11)ガス照明のガスバトン(ボーダーライト)
"FRENCH THEATRICAL IN THE NINETEENTH CENTURY" J.P. MOYNET L'ENVERS DU THÉATRE |
(12)フランスの劇場におけるガス照明用の一般的吊物
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舞台裏の様子。 張り物の裏に付けられたガス照明 |
こうした危険性を回避するため、西欧では一九世紀末、建築・設備など防災に関わる総合的な改良が行われた。防災が人の管理によってこそ達成されるという認識が確立されたのもこの時期である。また、非常時に防火戸を操作する係員やオーケストラ、プロンプター、照明係等避難しづらい場所で働く人たちに対する配慮も行き届いていた。多くのオペラ劇場が通りに囲まれ広い前庭を持って堂々と建っている理由がここにある。音楽の都ウィーンにおいても、「新しい劇場は周囲から一五メートル以上の距離を持って完全に独立して建っていなければならない」という規制が第一項目に掲げられていたのである。
II-ii 我が国の劇場防災意識
日本の実状は、それに比べようもない。一八八六年の演劇改良会の設立趣意書では、歌舞伎脚本の定本化、西洋演劇理念を取り入れることと並んで劇場構造を安全で完全なものにすることが謳われていた。その時出版された小冊子には、パリのオペラ座とテアトル・フランセーズの図が紹介されている。
しかし、歌舞伎小屋における桟敷席しかなかった我が国では、避難という概念が建築として現れていなかった。再建された新富座(一八七八年)では、表通りに面した部分や楽屋部分を瓦屋根とし、土間上部屋根は新材料のトタン葺きを用い、外部は漆喰壁となまこ壁とするといった程度だった。両側に庭園を配して出入口を設け、平土間・高土間の観客と桟敷客との避難経路を分ける注意は払われていた。しかし、それもたった四年で焼失している。歌舞伎座(一八八九年)以降の劇場火災だけでも、千歳座・春木座(一八九〇年)、鳥越座・市村座(一八九三年)、改良座(一九〇三年)などが続いている。
そもそも、一八八二年に発令された劇場に関する警視庁布達では、鑑札制度・興行届出制・定員・興行時間などが定められてはいたが、防災的な規定はなかった。今日の興行場法や安全条例の原点ともいえる「演劇取締規則」(一九〇〇年)でも、前面開口や空地・廊下・客席などについての数値的な規定はあるが、「適当なる○○を設くべし」「難しきものは斟酌することあるべし」などといった条文が散見されるといった按配だった。同規則一九一七年の改定でも、まだ椅子席に関する規定はなく、「桟敷及土間の枡席は、一人につき内法で一尺七寸m2以上とし、一枡は六人以下とする」という内容が幅を利かせている。劇場に限らず建築・都市全体があまりに欧米事情とかけ離れすぎていて、法令ですら手を付けられない状況だったといえる。
一八九一年の濃尾地震を契機として、丈夫で安全な建築構造に関心を持つようになった横河であったが、我が国に参考になるようなものは何一つなかった。頼りを欧米に求めるのは当然のことだった。そんな有り様だったが、西欧の劇場火災に関する情報は建築界にも紹介されていた。一八八六年に創設された造家学会(現・日本建築学会)の建築雑誌(第二〇六号)をみると、ブルックリン劇場(アメリカ、一八七六年三〇〇人死亡)、リング劇場(オーストリア、一八八一年三八六人死亡)、オペラコミック(フランス、一八八七年七〇人死亡)、エクスター劇場(イギリス、一八八七年一六六人死亡)などの劇場火災が掲載されている。一九〇五年にアメリカで発行されたジョン・R・フリーマン著の“On the Safeguarding of Life in Theaters”の要旨も直ちに紹介された(建築雑誌二四六号)。
こうした背景の中、横河が欧米の劇場計画・法令を見逃すはずはなかっただろう。彼は一九〇七年、設計から着工にかけての約半年を欧米に出掛け、つぶさに劇場を調査している。詳細な図面と劇場火災・劇場規則を網羅した「Modern Opera Houses and Theatres」(Edwin O. Sachs 一八九六年)やヨーロッパ各地の劇場・技術を紹介した「Handbuch der Architekutur」の劇場編(M.Semper 一九〇四年)を日本に持ち帰って研究したことは容易に想像できる。長い旅程では、実際に劇場を隈無く観察し、現場技術者の話に耳を傾けたことだろう。吊り物や照明など劇場技術の製造会社を訪ね、商談の足掛かりも取り付けてきたに違いない。
株式会社創立総会(一九〇七年二月)から建築許可申請(八月末)、同認可(同年一〇月)といったスケジュールは、設計期間などないに等しい無茶苦茶なスケジュールである。第一、認可を待たずに地下掘削工事(同年八月)を開始するなど、今ではもちろん考えられないことだ。つまり、工事しながら考えるといった融通性を持った計画の中で進められたと考えるしかない。そうした過程で最良の解決を判断していったのだろう。
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