近代劇場の計画理念を主導した帝国劇場・・・本杉省三
I 劇場は威風堂々建っている
I-i 赤い街、白い劇場
一八七二年銀座・築地一体を焼き尽くした大火事は、江戸から東京への変換点、帝都に相応しい不燃都市建設の出発点となった。銀座煉瓦街に続いて、霞ヶ関・日比谷では官庁集中計画(一八八六年、H・エンデ、W・ベックマン)によって司法省(一八九五年)、裁判所(一八九六年)など煉瓦造りが誕生する。壮大な計画は財政難などで大幅縮小されるが、一方国の払い下げによって始まった丸の内では、三菱一号館(一八九四年、J・コンドル)後も矢継ぎ早にオフィスセンター建設が始まっていた。さらに東京商業会議所(一八九九年、妻木頼黄)も姿を並べ、帝国劇場開場のころには一三棟が街区を形成するまで発展してきた。
こうした赤煉瓦の街にあって、真っ白な化粧タイルをまとった帝国劇場は、どんなに美しく輝いて見えたことだろう。城壕に面してコリント式の列柱を配したファサードは、堂々とした安定感のある姿だ。煉瓦造でさえ物珍しい都市に出現したその壮麗さと威厳に明治の人々が目を奪われたことは容易に想像がつく。奥にフライタワー、手前側に小さなリブ付きドームと二段構えに大小の塔を配置することで、奥に重心が偏りがちな劇場のプロポーショシをバランスさせている。都市の核となる場所に一際目立った劇場を建設するという計画は、欧米でもしばしば見られるものだが、石造の街並に建てられたそれと違って、見慣れない風景に建つ帝国劇場の白さは、新時代の夢と魅力を伝えるに十分だったろう。
ただ、正面の列柱もそびえ立つような大袈裟なスタイルでなく、半分は壁と一体化されたものだし、塔といっても舞台部のそれは、あくまで機能上要求されるもので象徴的に扱われてはない。フライタワーから後ろに当たる側面の扱いが、高さでも窓のデザインにおいても客席側とは全く異なっているのも妙だが、舞台側には裏機能が別棟で建っており、表側とは区画されていたと知れば納得がいく。つまり、白亜の堂々とした姿を見せながらも、機能に正直な極めて合理的な設計であることが理解できる。
当時の写真を見ていると、木も僅かしかない殺風景な風景である。道行く人々はまばらで背広姿が多いが、中には着物を着た婦人もいる。路面電車も走っているが、人力車も見える。電信柱が傾いているのも気になる。全国的には、八千代座(一九一〇年、熊本県山鹿市)、内子座(一九一五年、愛媛県内子町)など木造の芝居小屋建設でさえ大変な思いをしていた時代だった。そんな時代にもかかわらず、人々は熱い思いを込めて劇場と向き合っていた。
(1)司法省
(2)東京裁判所
(3)八重洲町通り(1911年頃)
(4)丸ノ内馬場先門外。
(5)開場したばかりの帝国劇場
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