日本財団 図書館


―子ども家庭支援(11)―
親と保育者がともに成長を見守る
〜親教育の場にもなる「親の保育参加」〜
こどもの城 保育研究開発部 山田 道子
 
 児童福祉施設が地域の子育て支援の砦として、あるいは開かれた施設としてさまざまなプログラムを行うようになりました。とりわけ保育施設においては電話相談をはじめ、園庭開放や一時保育などを行うことは珍しいことではなくなりました。また、これまでは保育所にきている親子や家族のみを対象に行っていた七夕会や餅つき大会等の行事も、地域の人たちに誘いかけて一緒に楽しもうという方向に変わってきています。
 保育施設は子どもの保育が中心であることには変わりはありませんが、地域の人たちと親交を深める「コミュニケーションの場」にもなっていくようです。保育施設が地域に理解され根ざしていくことは、社会の中で子育てをする基盤が広がることでもあり、保育施設の果たす役割は大きくなると思われます。
 
親の保育参観と保育参加
 保育施設には以前から親の保育参観というものがあります。集団の中の子どもの様子を親にみてもらい、親の不安や心配を取り除いたり、子どもが育つことへの理解を深めてもらったりするものです。いわば、保育と家庭との連携プログラムといってもいいかもしれません。
 最近の保育現場では単に親が子どもを観るだけではなく、親も一緒に保育を体験する「保育参加」の形態が増えています。実施する理由は保育施設によって多少異なるようですが、共通しているのは、親に子どもをよく知ってもらうために、通常の保育活動のなかで子どもの生活や遊びを実体験してもらうというものです。
 今、地域社会の崩壊や少子化がすすむなかで、親は具体的な子育てを学べるところを求めています。〔こどもの城〕の保育を利用している親たちは、次のようなことを保育者に問いかけてきます。
 食の細い子どもへの対応のしかた/三歳の子どもに、はさみを持たせて大丈夫だろうか/近所の子どもと遊ぶとけんかになり、親同士も気まずくなるので遊ばせたくないのだが/あいさつやしつけが身につかなくて親は怒ってばかり/〔こどもの城〕で他の子どもと仲良くやってるかしら/自分の子育てはこれでいいのだろうか―などなどです。
 保育参加は、このような心配・悩みをもつ親たちが、子どもの様子を観るだけではなく、保育の集団に入ることで体験的に子どもをとらえる場(機会)になります。そこで体験したことが、子育てのヒントにつながることを期待して行っています。
 
「保育参加」で子どもたちと一緒になってリトミックを楽しむ親
 
親が「保育」を体験する保育参加
 〔こどもの城〕の幼児グループ(二年間定期的継続的に保育に参加する四・五歳児。定員二十二人。曜日別に主に三歳児が十人ほど加わり異年齢保育の形態で保育)でも、子どもへの理解を深めること、子どもと遊びを楽しんでほしいことを目的に、数年前から親の保育参加を積極的に行っています。保育参加は年度始めに次のような形で知らせておきます。
 
□幼児グループの保護者の方へ「保育参加について」□
 保育参加とは、お子さんとともに一日保育活動に参加していただき、子どもの視点で御一緒に遊んでいただくことをいいます。同じ空間で、子どもたちの姿から新たにいろいろなことが感じ取れると保育参加をすでに経験した保護者の方から喜ばれています。保育参加は、一日一人としていますが、何度でも参加できます。お母様だけではなく、お父様の参加もぜひお待ちしております。保育参加の際、給食の試食ができます。ただしこれは、申し訳ありませんが、年間一家族一食とさせていただきます(お弁当可)。なお、幼児グループの保護者の方は、一度はご参加してくださるようにお誘いとお願いをいたします。
 保育参加を決めた親には、事前に担当の保育者から簡単なオリエンテーションをします。
 保育時間中(十時〜午後午後二時)は、基本的には子どもたちとすべて行動をともにする。子どもが全員集まる全体会では親の名前もフルネームで呼ぶ、自由遊びでは自分の子どもが遊んでいるところで一緒に遊ぶ、その日のメインの活動(造形、表現、運動遊びなど)にも参加する、給食は自分の子どもと同じテーブルで試食する―ことなどをていねいに伝えます。
 さらに、参加についての保育者側から次のようなお願いと協力も加えておきます。
 参加の服装は動きやすいもの、靴は運動靴/給食の試食は子どもの食事の量となるので補食(おにぎりなど)を持参してもよい/保育者への話しかけは保育中は最小限に留める/保育中の子どもの気になる様子、耳にしたことなど安易に外部に伝えない(いろいろな子どもの家庭の事情など)/保育参加終了後は感想を聞かせてほしい―などなど。
 
保育参加した親の感想
 保育参加を体験した親は、次のような感想を述べています。
【四歳児の二人姉妹の母親】
 保育参加が終わった時はそれほどでもなかったのに家に帰りついてからどっと疲れが出ました。久しぶりの三輸車(乗った)とボールでの遊びはかなりこたえました。先生方の大変さがよくわかりました。本人の様子につきましては大体想像されたことですが、まだ、ルールを理解して集団で遊ぶことはあまり上手ではないように思いました。言葉によって物事を理解したり、伝えたりすることが十分でないために仲間に入りきれなかったり、誤解が生じたり、パニックに陥ってしまったりということが、相変わらず多く、時間がかかることと思いつつ心配なところです。よろしくお願いします。最後になりましたが、給食とてもおいしかったです。
【四歳児の一人っ子の父親A】
 日常の保育の一端に触れて、我が子の成長に驚くとともにうれしく思いました。私が子どもと接するのは、自宅で家族と一緒の時間がほとんどです。今回、我が子が同い年の子ども、年上の子どもたちと遊ぶ姿をみて、私が考えていた以上に我が子が他の子どもたちとコミニュケーションがとれるように成長していたことに目をみはりました。短い時間でしたが、このような機会を与えてくださったことに感謝いたします。
【四歳児の一人っ子の父親B】
 初めて参加して、日ごろ自分の子どもしか見ていないので他の子どもたちに交じって遊ぶのを見て、家にいる時とは違い他の人のことを考えながら遊ぶところもあるんだと感心しました。給食は、うちの子は好き嫌いがやはり多いと思いました。また、男の子同士で乱暴なことばや態度をとりあっているのを見て、まだ幼児なのにと驚きました。しかし、それが大人への過程だとも知っておかなければいけないのかなとも思いました。
【五歳児の一人っ子の母親】
 昨年の保育参加の時は母親の私にべったりとくっついて離れず、給食の時もおしゃべりばかりで私自身とても疲れました。今回もそうなるのかと心配しましたが、「ママは勝手に遊べば」といって給食以外はほとんど別行動でした。仕方がないので、女の子たちと折り紙をしたり、大型積み木で遊んだりしたのですがとても楽しかったです。給食は息子の隣で食べたのですが、魚、プチトマトが大嫌いなはずの子どもが全部食べていたのにはびっくりしました。なんだかんだといいながらも去年と比べて少しは成長をしていることを確かめたようで、すごく安心しました。
 
親教育の場としての保育
 保育参観も保育参加も、親と保育者が子どもの成長をともに見守り支えあうことでは共通点があります。「参観」よりもう一歩踏み込んだ「保育参加」は子どもと一緒にいることの楽しさや集団の中の生活の仕方、決まりなどを改めて親に体験させてくれることから「親教育」の意味があると思います。
 幼児グループは四・五歳児の年齢構成なので、親のほうも三歳未満児を育てているときの大変さはなくなっていますが、逆にもう子育ての手が離れたかのように思っている親、まだまだ親が手をかけなければいけないと思っている親など、子どもに対する受け止め方はそれぞれです。保育参加をすることで子どもの自立に向けてなんらかの親の気づき、子どもを育てることの楽しさをたくさん見つけてほしいと願っています。
 気軽に親の保育参加を受け入れ、子どもの世話の仕方、かかわり方、子どもと一緒にいる楽しさを体験する場としても保育施設の果たす役割が増していくのではないかと実践を通して考えています。
 
 
 
ハイテクと魅力行動
 
 
嘉悦大学短期大学部助教授 古閑 博美
 
ドアのシール
 「手を添えて、きちんと静かにドアを閉めましょう」。ある日、私の住む集合住宅の入口のドアに、こう書かれたシールが貼ってあるのに気づきました。そのドアは、出入りのさいに不用意に手をはなすと「ガシャン」と大きな音をたてて閉まるので、普段から気をつけていました。それにしても、最初、このシールを見たとき「こんなことまで(表示するの)」と思ったものです。
 入居して数年間はそんなシールはなかったわけですが、ドアの開閉時に生じる騒音への苦情がたびたび管理組合に寄せられていたものと思われます。その対策として、シールを貼り、住民にマナー向上を促すことにしたのでしょう。書かれているのは、幼い子どもに言い聞かすような文言ですが、共同空間は、子どもからおとなまで利用するわけですから、それを快適に使うための行動への注意を喚起するには致し方ないといったところです。
 ドアに近い住人からしてみれば、閉まるたびに「ガシャン」という、大きな音を聞かされては迷惑千万です。それは、ドアから手をはなす人の耳にも聞こえているはずですが、音に配慮するのを忘れると、安易に手をはなしてしまいがちです。背中で閉まる音を聞いて「しまった!」と思う人ばかりではありませんから、シールはいつまでもはがされないままとなります。深夜に帰宅したり早朝に出入りしたりするさいのドアの開閉には、日中以上に注意が必要です。
 手を添えて静かにドアを閉めるのは、シールに促されてするようなことではなく、他に配慮する姿がドアの扱い方に表れると自戒したいものです。ていねいに扱えば、ドアの寿命も延びることになります。
 
情報の洪水
 情報社会のなか、情報の洪水に流されているだけでなく、それに麻痺しているかのような姿があります。主体的に行動しようと思っても、日々、手取り足取りといってよいほどの情報に接していると、いつのまにか、それに頼ってしまっているとはいえないでしょうか。
 駅では、電車が来るたびに「後ろに下がってください」「順番に乗り降りしてください」「ドアを閉めさせていただきます」等放送し、乗車したあとも「扉に手がはさまれないよう、気をつけてください」「携帯電話はマナーモードに切り替えて云々」と、口うるさい誰かのように指示放送がやむことはありません。到着駅の案内以外はやめたらどうかと想像してみたりもしますが、さて、私たちはどう行動するのでしょうか。
 みずから判断し行動する日本人を育てる環境作りから限りなく遠い行為を社会全体で行なっているのではと、恐れにも似た気持ちで周りを見回すことがあります。身辺に飛び交う情報は多くても、本当に大切な情報を聞き逃し、また見逃しているのではという心配がよぎり、不安を覚えたりもします。
 「指示待ち人間が増えた」といわれるようになって久しいですが、社会全体で、そのような人間を作り上げていっているのではないかと危惧しています。
 
生活技術と思いやり
 以前、「生活技術と思いやりの相関関係」(『禮典研究曾々報第七号』平成八年)と題した文中で、試験期間中、早めに教室を出て行く学生のほとんどがドアの開閉に気を遣うことのない様子を報告したことがあります。その後もあまり事情は変わっていません。たとえ、ローテク(ロー・テクノロジー)を利用するだけの日常であるとしても、わが身を使う(用いる)必要は確実に減ってきています。それは、心を働かすことから遠ざかることのようにもみえます。社会で、他に配慮しない行動の数々をみるにつけ、科学技術の恩恵に喜んでばかりはいられません。
 いつの時代も思いやりを身につけ発揮する価値は下がることはないと断言できますが、それには、思いやりの表現技術が不可欠です。ゆかしいことば遣いや生活技術(生活するうえで必要な技術。あける、しめる、しぼる、ひねる、さする、たたく、たたむ等)を身につけ適切に表現する能力は、磨いても磨きすぎるということはありません。相手のために何かをしようという気持ちはあっても行為が不適切だと、誤解が生じたり意思が十分伝わらなかったりします。それどころか、相手を傷つける結果となることもあります。咳き込むお年寄りを楽にしてあげようと背中をたたいたら、そのお年寄りの入れ歯が飛んでしまったとか、肋骨が折れてしまったという笑えない話もあります。
 自動ドアは自分の手を使ってドアを開閉する手間を省いてくれる便利なものですが、自分の後ろから来る人への配慮を失わせることになったようです。ドアを押さえて「お先に」「どうぞ」といったことばをかけたり譲り合ったりする姿や、後ろを振り返ってあとから来る人のためにドアを押さえて待っているといった態度に出会うと、感激すらしてしまいます。スイッチやボタンひとつでなんでも済ませられる技術革新におぼれて、生活技術を磨こうとせず、ましてや、自己の生活や意識から排除することは、生活から深みや味わいといったものを薄れさせ、人間関係を荒廃させることになりかねません。
 機械文明がますます発展するなかで、よき行動文化や生活技術がいかに次世代に受け継がれていくかは、人間社会の成熟度に関わってくることであろうかと思います。それには、自分の心を用いることを惜しまず、身体で表現することやことばで表現することを惜しまないことが大切ではないでしょうか。
 
ことばや態度を惜しまない
 不案内の土地では、目的地まで行くさい、歩いている人や、途中にある店で道を尋ねたりすることがあります。便利な利器もありますが、そのほうが手っ取り早いからです。人を呼び止めるさいは、「恐れ入りますが」「お引き止めして申し訳ございませんが」と声をかけます。すると、人によっては、関わりを恐れてか知らん顔をする人もいますが、大抵は、立ち止まって親切に教えてくれます。なかには、わざわざ近くまで案内してくれる人もいたりして、人情にふれる思いがして胸がいっぱいになります。
 ほかにも、答えられなくて「ごめんなさいね。お役に立たなくて」という人や、わざわざ店から出て道を教えてくれたうえに「お気をつけていってらっしゃいませ」と声をかけてくれる人もいます。こちらも、「ご親切にありがとうございます」「助かりました」などといってその場を離れます。そんなとき、オーバーかもしれませんが、日本を支えているのは、こういう人びとだと思うのです。
 人は、一度、便利なものを手に入れたら、それを手放すのはよほどの決心でもしない限りできなくなるものです。ハイテク社会の形成は、人間にとって諸刃の剣です。利器の使用により、自分の身体だけでなく心も甘やかしていく事態が生じるのをとめられないことがあるからです。どんなに便利な世の中になっても、生活の根本は、自分の心身を用いることにあることを忘れてはならないでしょう。
 老いも若きも、思いやりを隠し味にした魅力行動を日常の行動に探り、実践するなら、心に清風がそよぐ日々を送ることができるのではないでしょうか。ドアの開閉のさいには、見返り美人になることからはじめるのもいいですね。
 では、いつかどこかでお目にかかる日まで。ごきげんよう。
〈最終回〉
 
昭和二年日米親善の人形交換で贈られたアメリカ人形
(福島県・梁川中央保育園)







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION