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銅の凾金と杉材の敷など
 同時に又面白い事を聞きましたので書きます。函金の事ですが、近郊の沿岸は今と違い鰯や鰊など、まだまだ獲れており、之が為の和船も使われた様ですが、わたしの居た造船場と違い、船の化粧も有り、ボルトなどは使用しなかった様です。尚且、函金の亜鉛メッキは釘の利きが悪いと申して専ら、メッキ無しのものの様でした。但し、この函金も化粧上から少しでも見栄えがする様にと肋骨の頭部に近い上部のものを銅製として何時も光る様にしたとの事です。
 日魯船は艀だ・・・と云われるのも尤もだと思います。櫂を漕ぐ漁夫の手元のの頭がキラキラと光っていた訳です。
 
 
 きっとこの漁場の船頭さんは屋号の付いた伴天に漆塗りの煙草入と金の象嵌の銀煙管を持ってさっそうとしていた事でしょう。私の居た造船所で戦后、会社を去る迄、伴天を離さなかった棟梁さんが居りました。普段は着ませんが祝祭日には必ず着て出退社するのです。
 背に、前衿には續造船所とあり若い頃から居られた造船所を誇りに思っていた事と思います。續造船所は幕末から明治にかけて函館一番の造船所で色々の史実が残されています。(棟梁さんは田島林五郎氏です。)
 
 亜鉛渡の和釘は利きが悪い・・・と先に書きましたが、この造船所では登り釘は亜鉛渡のものが多かったと記憶します。亜鉛渡の登り釘の頭は漆を塗りません。他の造船場では塗っていた筈です。或いは間違っているかも知れませんが、漆は非常に高価なものです。漆を塗る事は水密を良くする・・・という事です。が、錆の発生で外板=棚板外觀が汚れる事を防ぐ・・・も有るかも知れません。亜鉛渡は錆の流れが有りませんし、漆より採算面で安価であったのかも知れません。
 広い構内の一ヶ所に何時の頃からか、小型の港内艇(モーターボート)が3〜4隻置かれておりました。己にガラス窓もなく、エンジンもプロペラも有りません。聞けばその内の一隻は昭和天皇の皇太子時代、函館へ来られた時のボートとか、船底の銅板も事の外厚く、甲板もチーク、果梨等で、他材はボロヽでもこの2種材は立派に原型を留め、職人にならってこの木甲板で自由金などを作りましたが、尚油気を失われておりませんでした。日本国内材ではこの様な材料は少ない事でしょう。
 
構内放置のボート
 
和洋折衷型 といわれるものが有ります。当地での船は蟹刺網漁船が代表の様です。道東地方のものも有りますが多くは、いわゆる蟹工船に搭載された型でL45位。何が折衷型なのだろうか・・・と見ますと次の様です。
1. 電気着火のディーゼルエンジンが有る
2. 全通しの木甲板が張りつめられている
3. 船体が和型構造である
というものではないでしょうか。この船は見習工時代には、建造が無かったので経験が有りませんが戦后北洋の漁場再開でS-28頃4〜5隻の建造が有り、戦前の構造と同様の由でした。之も母船塔載型以外は、肋骨の固着は函金であり、今手元に残されている戦前の川崎船の資料も(S-10年)この造船場のものは全てボールト固着の組立肋骨です。船体の構造で強いて違いを申しますと、角付(稜角材≒チャイン材)と称して、楢材を上棚と下棚の角部に取付けて、動力無し無蓋の和船の様に重ねた通り前は有りません。更に、沿岸用は巻揚に便利な様に従来の舵床の外に(舵孔を開けないで)、更に舵を付ける為の付け床などがあります。之は床と付床面に蝶番を付けて、舵を何時でも水平にハネ上げられるものです。
 塔載用川崎船はその為の吊金具を船体に取付けておりますが、后に専属の蟹工船の場合は川崎船用のダビットを設け、救命艇の様な遠隔式取外し吊環を設けた川崎船も有ります。この工船用川崎船の魚艙蓋はそのまゝ沖での作業テーブルとなる様な工夫がされております。
 
 
 戦前よりの大型木造艀が不要となって来て、現在では殆んど使用されない現状と思います。艀は80トン積とか100トン積とかが有り、S-30年代には順次鋼船に切替えてクレーンを付けて海岸建設工事に使用されるなどとなりました。今の鋼艀の寸法に不必要な細かな寸法の端数が有るのは昔の尺寸法の名残りです。
A(80トン積?)L22.m00×B6.m50×D1.m80
B(100トン積?)L26.m80×B7.m58×D1.M97
 下棚はやゝ傾斜が有る扁平な形で、曳航されますので舵はあります。昔は港辺には100隻以上の艀が係留され、入出港の貨物船まで往き来し、平常は番人が艀の部にて居住し、炊事をし、寝起きしていたいものです。又この居住区が、沖仲土のたまりとなったりです。
 
 
 S-40年代に当地方で木船での悲劇もあります。北転船と云われるトロール漁種が有ります。小樽の或る老船主 は木船が絶対に信頼がおけるとして、当時の道内造船所が薦める鋼製漁船を信用せず、あくまで400トンの木造底曳船に固執したのです。北海道中の山を歩き、本州の山の木材迄集めて、進水まで漕ぎ付けたのです。とにかく進水はした様ですが、どの様な努力にも浸水は止められず遂に再び、浮かばなかったとも、製造価は鋼船の2倍にも成ったとか、この船主は再び船を造る事はなかったと聞いております。
 短かい命でしたがS-30年代に有った木鉄交造船が有りますが之も木材と鋼材の性質の違いを良く見なかった結果と思います。船体価格が安く出来たと聞いております。(私共の造船所では建造しませんでしたが多くは南の造船所の様です。多くの接触〜沈没事故が発生し、政府の建造中止令が出た)
 その昔は、洋型、和型の船大工さんに分かれており、或る職人さんの話ですと、洋型の方が楽だ・・・と云います。扱う材料が洋型の方が小さかったからでしょう。洋型木船は船后の一時期たづさわりましたので戦中のものを含めて記したいと存じます。
 船大工さんが一人前になるには、どうしてこんなに時間がかかるのか・・・と思ったことが有りますが、例えば明けても暮れても孔丈をノミで彫る作業でしたら、一年位で熟練工となるかも知れません。事実、私の居た造船場にも船室の柱廻り丈という家大工さんも居りました。チャップリン映画の「モダンタイムス」の如く、コンベヤー作業の様なものですから、他職人の追い付けないスピードの熟練度となります。之等も集ってひとつの造船所が成立つわけですから、1人丈抜き出して町工場へ連れて行っても全く馴れない仕事ですから、この造船場では一人前ぢやないと判断されましょう。
 船大工さんも其の環境に依って色々と有ります。家大工の仕事も立派にやる人も多々有ります。又昔の家大工さんでも洋建築までやられる人は少なかった筈です。







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