1990/09/04 毎日新聞朝刊
[試される国際国家・中東危機と日本]/5 危機管理
◇国民の安全とは 縦割り行政、壁に
首相官邸と道路一本隔てた総理府六階に、内閣安全保障室(米山市郎室長、約二十人)がある。大韓航空機事件(一九八三年九月)を機に、「総合調整で、主として国の安全に係る事項に関すること」(内閣官房組織令五条)を扱うために四年前、設置された。
大型遊漁船と海上自衛隊潜水艦「なだしお」の事故(八八年七月)、中国民航機ハイジャック事件(八九年十二月)では、ここが中心になった。しかし、今回の邦人軟禁問題では「安保室」が出てこない。
「今度の中東問題を整理すると、バグダッドで人質にとられている邦人たちを出国させることは外務省マター。例えば電車の中で、イラク問題を日本国の切羽詰まったこととして、話している乗客がいるでしょうか」と、ある内閣関係者は言う。このつぶやきは、六〇年安保当時、国会周辺が騒然としていた時、「後楽園では多くの人がプロ野球を楽しんでいる」と語った岸首相(当時)の発言と、どこか似かよう。「国」の安全と「国民」の安全は、違うものなのだろうか。
初代の内閣安全保障室長で「危機管理」に詳しい佐々淳行氏が言う。「海外在留邦人の保護は、国の重大な責務。今回のイラク問題では、役所の縦割り行政がネックとなって、日本政府としての有効な対応がなかなか打ち出せなかった。内閣の総合調整にかかわるような今回の問題こそ、安保室の仕事にふさわしい」
イラクのクウェート侵攻から丸一カ月。ホテルに軟禁状態だった邦人のうち、女性や子どもら七十人は無事日本に帰国できた。だが、クウェートから移った成人男性百四十一人は依然、軍事施設などで人質になったままだ。
「一日二回の日本語によるラジオ放送だけが、唯一の情報源でした」。軟禁から解放された大手商社マンの妻(41)の言葉だ。大手機械メーカーの広報担当者も「情報のほとんどは、東京発。現地で何が起きているのか、さっぱり分からなかった」とこぼす。
「情報がないと、人は不安に駆られる。情報こそが人の安全を保障する。外務省や現地大使館関係者らは『安全』というものに対して、カネのかけ方を知らないんじゃないのか」。商社関係者の声は、より直截(せつ)だった。
危機管理の担当者にとって、八月は「魔の月」だという。七三年八月八日の「金大中氏ら致事件」。翌七四年八月三十日の「三菱重工ビル爆破事件」・・・。警察庁幹部時代に、金大中事件などを担当した佐々氏は「ソ連のペレストロイカ(立て直し)、東欧問題、それに日米構造協議も加わって、政府は中東まで目がいってなかった。それを責めるのは酷だとしても、クウェート侵攻が起きてからの政府の対応はいただけなかった」と論評する。
外務省六階のオペレーションルーム。バグダッドの在イラク日本大使館との電話をつなぎっぱなしにしてスタッフが情報収集にあたる。
「イラク側がどう出て来るのか、シナリオが全然読めない」「先方(イラク側)は交渉相手によって言うことがクルクル変わる。そのたびに、走り回らなければならない・・・」。専門家集団の間からも、そんな声が漏れてくる。
現地法人に勤める夫(37)と別れて、二日帰国した妻(32)は日本政府、外務省に対して「対応が悪い。外務大臣の発言ひとつで(イラク側の)対応が変わった。一寸先が見えない怖さがあった」と、率直に批判した。
昨年十月現在、国外にいる邦人は約五十八万七千人。毎年一千万人近くもの日本人旅行者が海外へ出る。三井物産マニラ支店長誘拐事件(八六年十一月)など、企業戦士が被害に遭うケースも増えている。だが、在留邦人の救出をめぐって、政府の対応が鋭く問われたのは初めてだ。
「日本の危機管理の基本はまず、専門家集団の各省庁がやる。邦人の保護は外務省の仕事で、他省庁がどうこう言う問題ではない」。政府関係者が「予防線」を張った。
だが、今回の邦人軟禁は、その外務省にとっても「全くの不測の事態」(同省幹部)だった。内閣関係者の一人も「ある国家の権力によって、在留邦人が出国出来なくなるという事態は、もちろん想定外のこと」と、戸惑う。
「安保室」の日常は、事件後も変わっていない。中国民航機ハイジャックの後、それまで出来なかったポケットベルの一斉呼び出しと、関係省庁へのファクス送信が出来るようになった。その部屋でスタッフたちは、宿直のない勤務を続ける。
「ハイジャック、大事故のように、マニュアルの出来ているものは別にして、安保室が出ていくと、国家の一大事のような印象を与える。あそこは最後の切り札なんですよ」と内閣関係者は言う。
縦割り行政と「マニュアル」の壁に阻まれ、日本の「危機管理」は、まだその方向が見えない。=つづく
(社会部取材班)
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