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湖沼環境の基盤情報整備事業報告書?豊かな自然環境を次世代に引き継ぐために?

 事業名 湖沼環境の基盤情報整備
 団体名 日本水産資源保護協会 注目度注目度5


(5)サクラマス
 中禅寺湖には1884年(明治17年)にサクラマス(Oncorhynchus masou)の種卵232,000粒(放流尾数不明)が北海道から移殖され、以降サクラマスは回数、量ともにビワマスよりも多く移殖されている。この2種は識別がつきにくいため、人工授精の際に、混交があったと推定されるし、あるいは自然交配した可能性も否定できない。ビワマスは地元日光地方ではホンマスあるいは中禅寺マスと呼ばれて親しまれている。
 中禅寺湖漁業協同組合では、産卵のために接岸した親魚を採捕して、毎年40〜50万粒の種卵の人工ふ化を行い、稚魚を放流している。また、湯ノ湖へは日光支所によって放流されている。サクラマスは1953〜1962年(昭和28〜37年)に放流され、以後放流はされていない。
 
(6)ウナギ
 1874年(明治7年)に最初に放流され、以来断続的に放流されている。最近では中禅寺湖漁業協同組合によっても1981〜1983年(昭和56〜58年)の3ヵ年にかけて、各年10Kg(平均体重15〜28g)程度放流されている。
 
(7)ワカサギ
 中禅寺湖へは1928(昭和3)年に2,400,000粒の種卵を霞ヶ浦から移殖したのが最初であった。以来たびたび移殖され、定着している。
 
(8)コイ
 中禅寺湖へのコイの移殖は古く、1874年(明治7年)(1875年との説もある)に、日光二荒山神社・柿沼広身宮司によって20,000尾放流されたのが最初といわれている。この年にはフナ、ドジョウなども放流されている。この当時は奥日光における魚類繁殖の黎明期であって、地元の有志者によって、比較的入手の容易な魚類が放流されたことは、当然の行為であったと推察できる。
 
(9)フナ
 中禅寺湖へは1874年(明治7年)に20,000尾放流された記録があるのみである。
 
(10)ウグイ
 中禅寺湖に、1876年(明治9年)、当時細尾村の住人、星野五郎平が赤腹魚を移殖した記録があるが、これはウグイのことであろうと推察されるが、その放流数は不明である。その後、1906(明治39)年、星野定五郎によって、栃木県南部の赤間沼(渡良瀬遊水池)より300尾が移殖されたといわれている。
 以後、移殖した記録はない。ウグイは、適応性が強く、自然繁殖によって旺盛に繁殖したものであろう。現在の生息状況をみると、その繁殖力は驚異的である。毎年6月頃、中禅寺湖漁業協同組合では「アイソ祭り」を行い、観光客に串焼きのウグイを提供して好評を得、年中行事として定着している。アイソとは栃木県地方におけるウグイの呼び名である。
 
(11)ドジョウ
 ドジョウは1874年(明治7年)星野定五郎によって500尾が中禅寺湖へ放流された記録がある。
 ドジョウの放流については日光支所の公文書に基づき、専門委員 加藤禎一博士が次のようにまとめている。
 
ドジョウが毎年20貫も獲れた明治の頃の湯川
加藤 禎一
 
 奥日光水域にドジョウが放流されたのは明治7年で、湯川と湯の湖源泉の沼に500尾が放流されたという。
 その後、新たにドジョウを放流した記録は見当たらないが、放流が明治7年の1回だけなのか、外の放流の記録が残っていないのかについては明らかでない。
 放流されたドジョウがその後どの様な経過を辿ったかは興味深いことであるが、調査が行われていないので実態は殆ど判っていない。
 ただ「日光の植物と動物」(1936 東照宮)に「この地方から泥鰌は1尾も得られなかったが、従来湯川でこれを採集した人もある」と記載があることから、この調査が行われた昭和6年から昭和7年にはドジョウは極めて僅かしか生息していなかったことが推定できる。
 また「奥日光における水産事業」(1967 田中甲子郎)には「湯川に放流せるドジョウは漁獲販売されたがカワマスの増殖と共に年を経るに従い減少し、現在殆どその影を見ない」、「中宮祠の関権平氏(先代)が湯川でとれたドジョウの払い下げが大正の初め一、二年あったと聞いている」と記載されている。
 これらのことをまとめると、放流されたドジョウは湯川で自然繁殖して一時は漁獲の対象になるほど増えたが、後で放流したカワマスの自然繁殖とともに年々減少し、昭和6年頃には殆ど姿を見せないほどになり現在に至っているということになる。
 漁獲の対象になるほど増えたにしても、それがどの位の量獲れたのか、漁獲時期や漁具そして漁獲場所などについては全く判らなかった。
 ところが今回の養殖研究所日光支所に残っている古い公文書の調査で、これらの疑問が一挙に解けるような貴重な書類が見つかったのである。
 この書類は帝室林野管理局日光出張所公文庶務録乙編で、ドジョウに関する書類は明治43年度と明治44年度の公文書綴の中から発見された。
 当時奥日光湖沼群は皇室の財産であったのでドジョウの採捕には帝室林野管理局長官の認可が必要であった。
 公文書綴りの中から見つかったのは、払下許可申請から認可までの一連の書類で、採補する人が提出したドジョウの払下願 、払下願の内容を検討したが問題ないので許可してよろしいかを伺う日光出張所長が長官に送った書類、そして払い下げを認めるという長官からの書類等である。
 払下願には漁獲時期、漁具、漁獲場所、払下量が記入してあったのでこれまで不明だった事項が一挙に明らかになったのである。
 漁獲時期は明治43年が5月20日から7月20日まで、明治44年は6月1日から10月31日まで、漁具は「うけ」である。漁獲場所は図で示されているが、逆川より下流の湯川に流れ込む4本の支流になっている。払下量は明治43年、明治44年とも20貫で、払下代金10円は前納することになっていた。払下量すなわち漁獲量20貫は予想していた量より多く、湯川がカワマスだけでなくドジョウにとっても繁殖に適していたことが明らかである。1貫当たり50銭の払下代金は明治43年頃の物価と比較するとどのようになるのか興味深かった。
 ドジョウの書類が見つかったのは明治43年度と明治44年度の公文書だけあり、前述の関権平氏の「漁獲したのが一、二年」という話と符合する。
 意外だったのが払下許可申請から認可までが僅か9日という対応の早さである。明治43年の場合申請書が提出されたのが5月5日、伺の文書が長官宛に提出されたのが5月7日、長官の認可が下りたのが5月14日である。明治44年の場合も、提出日が異なるものの払下許可申請から認可までの所要日数は前年の明治43年と同じ9日だった。長官の決裁が得られる帝室林野管理局(東京)までの距離と明治時代の郵便や交通事情を考えると、即日決裁と思えるほどの速さである。帝室林野管理局 といういかめしい名前からは想像できなかったことだけに強く印象に残った。
 
(12)カジカ
 カジカは中禅寺湖のみ少数生息しているが、移殖の記録はない。ほかの魚類あるいは、エビ類を移殖した時に同時に輸送されたものと推定されている。
 
(5)漁業と遊漁
 1873年(明治6年)奥日光湖沼群に初めて「イワナ」を放流して以来、ふ化場、養魚場、漁業協同組合によって中禅寺湖の魚族が漁獲されてきた。当所、当地域は皇室財産であったため、積極的な漁獲はできず、1963年(昭和38年)に漁業協同組合が設立され、漁獲も管理されながら行われてきた。中禅寺湖の漁業は組合員による漁獲、遊漁者による釣漁、研究所による親魚捕獲がそれぞれ記録されている。
 中禅寺湖の漁業は、一般の釣り漁業と採卵用親魚確保のため地曳網漁業にわけることができる。一般の釣り漁業は、中禅寺湖漁協組合員及び一般遊魚者を問わず、4月20日から9月15日まで岸ヶ淵と松ヶ崎を結ぶ線の東側(西側は禁漁区)が開放されている。地曳網漁業は、種苗生産を目的とした産卵親魚の捕獲を行うためのみ実施している。
 漁獲量の多くはヒメマスが占めており、ホンマス、ブラウンマス、ニジマスが多獲されている。遊漁者の釣獲も大きな比重を漁獲に占めている(付表4-1-24-1-3参照)。







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