奥日光における山椒魚の採捕
加藤 禎一
奥日光ではかつて山椒魚が黒焼き用に多数捕獲されていたという話を聞くことがあるが、現在の養殖研究所日光支所の資料室にその頃捕獲用に使用されたウケという竹製の籠が展示されている。太さ5ミリ程度の細い竹30数本を棕櫚縄で編んで造った口径が15センチ長さが、50センチ重さが300グラムという小さな籠である。「日光の植物と動物」(1936 東照宮)によると当時奥日光にはニッコウカスミサンショウウオとハコネサンショウウオの2種の山椒魚が生息していたという。このうちニッコウカスミサンショウウオについては戦場ヶ原付近の泉門池、小沼、湯元付近の大野ヶ池で生息が確認されている。ハコネサンショウウオについてはその中で「黒焼きの山椒魚として非常に貴重されているもので奥日光、又は西湖の奥等では、年々3、4万から10万尾に達する個体を蒐集し、何れも採集後直ちに黒焼きとして東京に売り出している。夜に河流の一部に石を積んで小さい瀧を造りウケという竹で造った籠を据えて採集する(1932年5月17日)」とあるところから、西湖付近では相当数の山椒魚が生息していたことが伺われる。日光支所の資料室に展示されているウケはそこで使われたものであろう。そのように黒焼き用に使われた山椒魚がいつ頃どの位の尾数が採捕されていたかは非常に興味深いことであるが、このことを記した貴重な資料が現存していたのである。
養殖研究所日光支所に残っていた公文書を調べているうちに帝室林野管理局日光出張所公文庶務録乙編の中に払下げ許可申請から許可に至るまでの一連の書類が現存することが判ったのである。当時奥日光湖沼群は皇室の財産であったことから、ここで山椒魚を採捕するのには帝室林野管理局の許可証が必要であった。山椒魚採捕に関する公文書が見つかったのは明治43年から大正3年までと大正10年から昭和12年までである。途中抜けている大正4年から大正9年については公文書そのものが現存しないので不明であるが、公文書の前後のつながりを考えるとこの間も採捕が続けられていた可能性が高い。また明治43年の払下げ許可の伺文書に「前年度においても許可しているので」という内容が記載されていることから明治42年にも採捕していたことが明らかである。山椒魚の払下げ申請尾数は年によって異なり3万尾または4万尾となっているがこの尾数を見ても当時西湖付近には相当な数の山椒魚が生息していたことが推測できる。払下げ価格は明治43年の場合1万尾当たり2円であったが、大正4年は4円、昭和3年には5円に値上がりしている。採捕期間は年によって多少異なるが5月初旬から7月末までが多い。この採捕期間も西湖周辺に生息する山椒魚の生態を知る上にも極めて興味深いものと思われる。いずれにしても奥日光水域で明治42年から昭和12年までの長期間に亘って大量の山椒魚が採捕されていたことを裏付ける貴重な資料といえる。
「山椒魚」に関する公文書の一部を次に示す。
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山椒魚に関する記述が入った公文書(養殖研究所日光支所 蔵) |
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