第1章 研究の方法と経過
日本最古の三味線音楽を伝承しているといわれる柳川流三味線は、細棹の三味線と細身の撥による音色の柔らかさがその特徴であるが、旋律の特徴について詳しく研究されたものが殆んどない。このため、本研究では、柳川三味線の伝承曲から対象曲を選び、京言葉の抑揚を持つであろう歌詞に注目して、歌詞の抑揚と歌の旋律がどのように関わっているか、また三味線にはどのような手付がなされており、歌の旋律とどのように関わっているのかということを検討し、今後の研究への手がかりを得ようと試みた。
この目的のためには、多数の柳川三味線伝承曲の中から、歌詞に京言葉が含まれていたり、京都の地名が数多く詠み込まれている作品で、しかも、作曲者・時代・形式が異なる曲を選ぶことが必要である。選曲は柳川三味線の伝承者である津田道子が行い、これらの条件を備えた曲として、《貴船》《さらし》《嵯峨の春》の3曲が選ばれた。
《貴船》は、江戸時代前期に藤林検校が作曲した長歌物で、初めて掲載された歌本は『若緑』(宝永3年(1706))である。歌詞は男が二道かけて訪れてこないのを嘆いて丑の刻に貴船神社に願掛けに行く道行き文で、作詞は小谷立静である。歌い出しに、古歌「くもの糸(い)に荒れたる駒はつなぐとも・・・」を取り入れた謡曲《鉄輪(かなわ)》のサシの部分の詞句1がみられる。平野は、「1650(慶安3)年9月に村山又三郎・彦作が江戸城で上演した『貴船道行』の地にも用いられたものともいうが、未詳」2としている。
津田道子による伝承は、田中きぬ(?〜1917)に学んだ萩原正吟(1900〜1977)からのものである。田中は当時、歌ものや繁太夫節に通じ、「その歌の節に並びなし」といわれていた。
《さらし》は、元禄期に北沢勾当が作詞・作曲した長歌物をもとに深草検校(1716年登官)が手事物としたといわれる。宇治の槙島で里人が布を晒す情景に、付近の名所を詠み込んだ曲で、京都では三味線の手を複雑に編曲し、興に乗って速く弾くので、「早ざらし」とも呼ばれる。現行曲は本手と地の二部合奏だが、他の曲の本手と替手の関係とは逆で、本手の手が細かく技巧的である。地は歌詞の節付に添ったもので、北沢勾当作の《さらし》である可能性もあるが、旋律について書かれた古い資料がないため、詳しいことは不明である。
現在の津田道子による伝承は、渡辺正之(1872〜1931)に学んだ萩原正吟からのもので、京都盲唖院出身の渡辺は、教員であった古川瀧斎(ろうさい)(1838〜1908)から伝承されたらしい。
《嵯峨の春》は江戸時代後期の松浦検校(?〜1823)作曲である。前歌一手事一後歌からなる三部構成の手事物で、歌詞は、嵯峨あたりの春の眺めが詠まれている。前歌半ばの小歌は『閑吟集』(1518)にも掲載されているもので、謡曲《放下僧(ほうかぞう)》あるいは当時流行した筑子(こきりこ)踊の歌などから取り入れたと考えられる。松浦検校の曲は演奏が難しい半面、のびやかで品のよい美しさをもっており、しっとりとしているのが特徴で、長い歴史に培われた情緒を音に表した京ものの代表的作品である。とくに歌の節回しは、これをよく示している。歌本の初出が文化9年(1812)刊の『増補大成糸の調』であるところから、19世紀初期の作品と考えてよい。なお、この曲は上派・下派ともに伝承している。
選曲された、江戸時代前期の長歌物《貴船》、同手事物《さらし》、江戸時代後期の手事物《嵯峨の春》の3曲について分析検討する際は、対象を共通に把握し、比較検討を加えやすい形にすることが必要である。五線譜は必ずしもその音楽に関する総ての情報を伝えるものではないが、調弦による音の違いや歌詞との対応、三味線の音型などは比較的わかりやすいことから、本研究では五線譜を用いることとし、各々津田道子が伝承してきた三味線譜(以下、津田譜とする)の五線譜化を行った。( 巻末の楽譜参照)
三味線には「スリ」「ウチ」「ハジキ」などの多様な技法があり、伝承の三味線譜においても様々に記号化が工夫されている。五線譜化にあたり問題とされるのはこれらの三味線技法である。五線譜は実際の音の高さや音価は明確に表されるが、音色や曖昧な音程などは示しにくいため、本研究では一部の記号は三味線譜のものを転用し、他は特殊な音符の形やスラー等を用いて示すこととした。( 凡例参照)
なお、五線譜化に際しては、津田道子の三味線演奏をビデオ撮影し、記号についての確認などを行う必要があった。三味線譜と実際の演奏には若干の慣習的な違いなどもみられるが、五線譜では実音に近い形とした。なお、本研究では歌が主な対象であることから、かなり長い合の手や《さらし》《嵯峨の春》の手事部分の楽譜化は割愛した。
歌詞の旋律と言葉の抑揚を比較検討するためには、言葉の抑揚を明確に把握しなければならない。この場合の言葉の抑揚は、これらの作品が京都を詠んでいること、京都を中心に活躍したであろう検校等の作品であること、津田によれば実際に演奏する上で言葉の抑揚に対する違和感がないこと等から、京言葉の抑揚を基に考えることになる。歌詞の言葉は江戸期の言葉であり、しかも日常語ではない詩の言葉であるため、現代では用いられない言葉や言い回しが多数みられる。このため、まず、京都出身の津田道子が詞章を読み、各語の発音やその語を用いた他の語の発音なども併せて発音し、それを録音して検討することとした。
言葉の抑揚に関するもうひとつの問題は、これらの曲の作られた時代の言葉の抑揚と現代とのそれとの違いである。京都では明治以後、言葉のアクセントに変化が生じているため、江戸時代と現代では抑揚が異なる言葉がある。作曲当時から現在までに音楽自体に変化があった可能性もあるが、歌の旋律に言葉の抑揚が反映するならば、それは作曲当時の言葉の抑揚であろう。こうしたことから、当時の抑揚についての情報がある語についてはそれを参考にした3 。無論、津田の発音と同じものが多いのはいうまでもないが、一部、抑揚が逆になる言葉や、かつては高低の抑揚があった言葉が現在は平板化しているものがある。
一方、歌詞の発音と関連する別の要素として、歌詞の言葉自体の変化がある。このため、歌詞自体の変遷の検討も必要である。三味線曲は江戸時代の多くの歌本に歌詞が掲載されていることから、歌本における歌詞を比較検討することで、歌詞自体の違いをみることができると考えられる。対象曲の歌詞が掲載されている歌本のうち、『大幣』『松の葉』『若緑』『姫小松』『琴線和歌の糸』『新大成糸の調べ』は、翻刻が出版されているが、他の多数の歌本は原典に当たるしか確認の方法がない。このため、本研究では津田道子所蔵の歌本からそれぞれの歌詞が掲載されているもの数点を選び、写真撮影を行い、コンピュータに取り込んで歌詞の違いを検討することとした。このことを通して本来の歌詞やその変化の流れを捉えることができ、津田譜における歌詞の伝承の特徴なども明らかになるであろう。
以上の過程を経て、歌詞とその発音を特定し、歌の旋律との比較を行った。歌詞の発音がどのように旋律に反映されているのかを検討するため、歌のパート譜及び、歌詞が当たる音のみを抽出した楽譜を作成し検討の素材とした。各々の曲は、特に前半で比較的音価の長いゆったりとした旋律が続き、後半の一部ではシラビックな展開となる。このため、前半のゆったりとした旋律に対しては、歌詞の当たる音の抽出が有効であろうと考えられる。歌詞の抑揚と旋律の比較に際しては、歌詞の一区切りで比較することを基本としながら、場合により歌詞のまとまり全体での比較も試みた。併せて、歌にみられる歌詞の抑揚とは異なった旋律固有の音の動き(=定型旋律)や、当時の流行り歌を取り入れたと考えられる部分にも注目した。こうしたことを総合することにより、曲毎の歌詞と言葉の関係や、旋律の特徴が明らかになるのではないかと考えられる。
歌の旋律に対する三味線の旋律は、全体的には「つかず離れず」の関係である。しかし、歌の旋律に極めて近い三味線の旋律や、歌に比べてかなり装飾的な旋律など多様な形がある上に、歌の旋律同様、三味線の手にも固有の旋律とそれに付随する奏法があり、その在り方は一様ではない。こうしたことから、三味線の手については、全体として歌の旋律とどのように関わっているのか、固有の旋律にはどのようなものがあり、それは歌の旋律とどのように関わっているか等を主な分析の視点として検討した。
これまで述べた方法により、本研究では、1.曲の構成、2.歌本にみる歌詞の伝承、3.歌詞の抑揚と歌の旋律との関係、4.歌の旋律と三味線の手との関係の4点から、《貴船》(第2章)、《さらし》(第3章)、《嵯峨の春》(第4章)、の各曲について考察した。更に第5章では、各曲の分析結果を踏まえて3曲を比較検討し、共通点や相違点を明らかにしながら、柳川三味線の伝承曲の特性を探り出し、今後の研究への第一歩とした。
(小林 公江、鈴木 由喜子)
(曲目解説部分は、津田 道子)
第2節 研究の経過
本研究は、準備研究会2回、研究会13回、作業検討会12回を行った。準備研究会と研究会については、各回ごとに出席者を示したが、作業検討会は、梁島章子、鈴木由喜子、小林幸男、小林公江の4人で行った。
第1回準備研究会
日時 |
2001年5月9日(水) 場所 京都当道会 |
出席者 |
津田道子、梁島章子、鈴木由喜子 |
テーマ |
1. 日本財団助成(3回目)申請のための相談 |
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2. 研究会メンバーの相談 |
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3. 「柳川三味線で演奏される地歌の旋律」の研究を研究方針とする |
第2回準備研究会
日時 |
2001年7月11日(水) 場所 京都当道会 |
出席者 |
津田道子、梁島章子、鈴木由喜子 |
テーマ |
1. メンバーの決定。 |
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第3回研究会から、小林幸男、小林公江に加わってもらう。 |
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2. 研究会の内容 |
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平成14年度第3回演奏会の助成申請のためのプログラムについて |
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3. 演奏会プログラムのテーマを「京言葉と柳川三味線の表現との関係(仮)」とし、プログラムの3〜5曲目に、研究曲の演奏を置く。 |
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4. 研究曲3曲 |
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長歌《貴船》、長歌・手事もの《さらし》、京もの・手事もの《嵯峨の春》 |
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5. 研究分担 |
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第1段階 鈴木、梁島・・・京言葉と歌の旋律の視覚的資料化と整理 |
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小林、小林・・・三味線音楽の視覚的資料化と整理 |
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第2段階 5人で・・・京言葉と歌、三味線の表現に見られる関係の分析 |
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