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カナダの緩和ケア
 世界保健機関(WHO)は、ターミナルケアについて「ターミナルケアとは、治癒を目的とした治療に反応しなくなった疾患をもつ患者に対して行われる積極的な医療ケアであり、痛みのコントロール、痛み以外の諸症状のコントロール、心理的な苦痛、社会面の問題、霊的な問題全体に焦点を当てることが重要な課題となる。そして、ターミナルケアの最終目的は、患者とその家族にとって、できる限りの良好なQOLを実現させることである」と規定している。ターミナルケアの医療の焦点はいうまでもなく患者その人自身であり、その人が病気と共存しながら、いかにクオリティ・オブ・ライフ(QOL)を維持、向上させながら生きていくかが重要なポイントとなる。そのためには、患者の状況をすべて包括するために生理医学的、社会科学的、そして人間科学的なアプローチが必要になってくることは明らかである。それはまさしく、個々の患者の多面的なニーズを考慮し、患者の人間としての尊厳を重視した全人的医療の実践を意味しているといえるのである。
 
カナダの緩和ケアにおける音楽療法の歴史
 カナダにおいては、以下の形でターミナルケアがなりたっている(以下における「緩和ケア」と「ターミナルケア」は同意味として扱う)。
1. 独立型ホスピス
2. 病院内での特別な一角を設けた緩和ケア病棟
3. 在宅看護における緩和ケア
 大切なことは、どこに緩和ケアが存在するかという場所の問題でなく、この3つのタイプの背景になる統一された緩和ケアの哲学である。そして緩和ケアにおける重要な要素とは、上にも述べたように(1)全人的ケアと(2)学際医療チームによるケアという2本の柱である。
 カナダの緩和ケアにおける音楽療法は、1970年代にスーザン・モンローによって、ケベック州モントリオールにあるロイアルビクトリア病院から始まった。また、ターミナルケアにおける全人的ケアと音楽療法の関わりが学術的に発表されたのは1978年に『カナダ医学学会ジャーナル』誌に掲載された彼女の論文が始まりである。1987年には、緩和ケアで働くアメリカ、カナダ、イギリスの音楽療法士がニューヨークに初めて集まり、それ以降、第2回の緩和ケアにおける音楽療法学会が1994年にイギリスのオックスフォードで開かれた。そして、2000年、カナダのケベック州モントリオールにおいて第13回終末医療学会とあわせて第3回の緩和ケア音楽療法学会が開催され、2001年バンクーバー州ビクトリアで、第4回の緩和ケア音楽療法学会が開かれた。
 2002年夏現在、カナダ音楽療法協会が把握している緩和ケアで働く公認音楽療法士の数はカナダ全土で24名である。
 さて、これまで逸話的にしか認識されていなかった音楽療法は、近年、生理学的あるいは心理学的に科学として立証され始めている。それは、音楽のもつ多元的な性質が、人間のあり方についてのさまざまなレベル、たとえば身体的・心理的・社会的、そしてスピリチュアルとしても自然に柔軟な形で触れることができ、療法的に働く可能性を秘めているからである。また、音楽療法の本質である音楽を通しての患者および音楽療法士の中でつくられる時間的・空間的体験が実に多様であり、ターミナルケアにおける患者の非常に複雑で多面的なニーズと響きあうことができるからである。
 
緩和ケアにおける音楽療法の意味
 ターミナルケアにおける音楽療法は、全人的医療の重要な要素の一つとしてチーム医療の中に組み込まれている。音楽療法士は医療チームの一員として、その専門的知識と実践経験を最大限に生かし、患者とそのケアギバー(患者のケアにとって重要な鍵となる人)のニーズに対して、音楽療法の具体的な計画、実践、継続的な評価に関する責任をもつ。その過程においては他の医療チームメンバーとの相互的コミュニケーションが必要不可欠であることはいうまでもない。また、音楽療法士は独自に患者と関わるだけでなく、必要に応じて積極的に他の医療チームメンバーとともに患者やケアギバーに関わることも必要とされる。そのため、緩和ケアで働く音楽療法士にはチーム間のコミューケーションを促進させる能力が問われることになる。
 医療チームの一員であると同時に、音楽を通じて関わるという点において音楽療法士の存在は非常にユニークであるともいえよう。“音楽”という言葉を超える芸術媒体を通して行われる音楽療法の中では、患者の状態、ニーズなどがしばしば象徴的に表出されることが可能となる。それらを敏感に感じとり、療法的に利用することが、音楽療法士の重要な任務の一つである。この意味でも音楽療法士には刻々と変化する患者の症状に対応できる音楽的柔軟性がとくに要求されるといえる。
 さらに、ターミナルケアにおける音楽療法においては、生と死に関わる実存的な問題に直面する中で、患者は人生の意味を模索し、時には自分なりの意味を見つけだす重要なきっかけとなるときがある。さらに音楽を中心として、患者と音楽療法士の信頼ある人間関係構築の中で、しばしば審美性や全人性、さらにはそれらを超越したトランスパーソナルな性質*3をもつ非常に深い体験を可能にすることもターミナルケアにおける音楽療法の大きな意味であり、特質であるといえる。しかし、それらの体験は、数値で比較評価したり、表面的変化が顕著に観察できるわけではない場合が多い。この点において、音楽療法士は目に見えず、実態を捉えることの難しいこのような実践の評価をどのように表し、他の医療チームのメンバーとコミュニケーションをしていくのか、また相互理解を深めていくのかにおいても、重要な役割を担っているといえる。
 
*3 人間発達の最終目的をヒューマニスティック心理学のアブラハム・マスローの提唱する「自己実現」を更に越えた、「超自己」(トランスパーソナル)へ、宇宙を含めた「全体性」へと拡大した考え方。
 
 また、ターミナルケアにおける音楽療法は、リハビリテーションや治療に注目するのではなく、人生の終末期に当たってQOLをどのように育んでいくかということに着目する。言い換えれば、人間の生命の神秘性を理解するという立場に重点を置くのではなく、むしろ人間の生命の不思議さや、神秘性そのものを価値あるものとして扱い、その中で試行錯誤する患者とそのケアギバーとともに歩むという姿勢をもつ。そのため、患者と音楽療法士との関係は、人間科学的理論と人間主義的な哲学モデル(Humanistic Model)が根本をなしているといえる。人間主義的理論においては、患者と音楽療法士の人間的、かつ純粋な関わりが重要視される。生理医学的理論、自然科学的理論、あるいは行動科学的理論が人間の生理的または行動的な側面に注目するのと異なり、人間科学的理論は人間の全人格に注目する。ターミナルケアにおける音楽療法は、患者自身を全人格的存在として考慮し、患者自身に内在する知恵の存在を尊敬するところから出発するのである。
 そのためターミナルケアで働く音楽療法士は、とくに人間としての自己を見つめることが要求される。患者の人間観に接することは、自己の人間観を見つめることでもあり、また患者の死生観に接することは、自己の死生観を見つめることでもあるという、常に並行的な過程であることを認識し、自分の中で変化成熟する人間観、死生観について自己反映をすること、そして自己理解を深めることが、音楽療法士として必要になってくる。また、なぜ自分がターミナルケアという領域に興味をもって働きたいのか、そして自分自身のセルフケアにどれだけの責任をもって実践しているかということを常に問うことも自己管理のため、そして療法士として効果的であるために、音楽療法士の人間的成熟が求められるとも考える。
 さて、音楽療法士が、患者やケアギバーに病気や死を受容し、怒りや悔やみの感情を超えて“よい時間”を過ごしてほしいと望むのは自然なことかもしれない。しかし、そんなにも簡単に病気や死を受け入れることができるであろうか。
 人間はそれぞれ独自の選択や生き方について長い歴史的背景を背負っており、患者やケアギバーにとってのQOLを、単に医療者の価値観に根ざす“私たちが望むよい時間”や、私たちの望むQOLの枠の中に組み入れようとしたりしてはならない。音楽療法士は、患者やケアギバー自身にとっての“よい時間”あるいはQOLとは何かをわかろうとする謙虚な態度こそが必要であると考える。







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