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「介護を支えるヘルパーの集会 NO.1」基調講演録
(演題)「ホームヘルパーの労働条件を改善する」
(講師)弁護士 中野 麻美様
(とき)2001年6月10日(日)
(ところ)札幌第1ワシントンホテル
 
*この内容は、中野麻美弁護士が「介護を支えるヘルパーの集会 NO.1」の基調講演に於いて講演された内容を、そのまま文章として掲載したものです。
 
■未来に希望がもてる
 こんにちは。ただいまご紹介をいただきました中野と申します。
 この介護保険制度が始まります時に、実は私は、私のお客さんのある方から、「自分はホームヘルパーになろうと思う」とうち明けられました。この方は、ご自身の自営業が、こういう厳しい時代ですので倒産を致しまして、次の生活を維持していくために、そして、ご自身の経験を生かして何か社会に役に立てるように、それでいて、なおかつ生活の糧になるようにということを考えた時には、ヘルパーの仕事が一番良いとお考えになりまして、ヘルパーの資格を取るために、もう既に勉強されてきたということを聞きました。
 倒産でしたから、私はずっとその手続きについて主に担当を致しまして、何ヶ月か経ったところで、ようやっと一段落この手続きが終わって、免責といいまして債務を全部免除されると、一切の請求を受けないという状況にまで至った時に、私は彼女にこう聞きました。「ヘルパーの仕事はどうですか」
 そしたら何と言われたのかといいますと「ヘルパーはしていません」と言われました。「えっ、どうしてですか、どちらで働いておられるんですか」と聞きましたら、「今、スーパーのレジで働いてます」と言われました。
 「えーっ、だってスーパーのレジだったら時給1,000円に満たないし、それに比べたらやりがいだとか、いろいろ考えたらヘルパーの方がずっといいと思ったんだけれども。どうしてですか」と聞きましたら、「先生、そんなこと言ったって、拘束時間はあるし、結局のところ仕事のために拘束される時間で割ったら、スーパーのレジと同じ位なんですよ。それに加えて、仕事があるかないかというのも不安定で、ものすごく自分の生活の計画が立てづらくて。だから、これじゃあたまらない、自分の夫も透析をしなければならない、その時に、介護で付いて行かなければならない家族的責任もあるものですから、そうなると、とてもではないけれどもヘルパーという仕事では自分にはできない。むしろスーパーのレジの方が何時から何時までというのが見えているし、確実に低い賃金ではあるけれども収入につながるから、この方がいいのだと自分は決めたんですよ」と言われました。
 私はそのことを聞いた時に、つくづくヘルパーという仕事が職業として確立されていないということを痛感させられました。
 どういう仕事に価値があるかということは、これは一言では言えません。ただ、一つ一つの仕事が社会にとってとても大切であり、職業としての確立が求められます。その仕事に就いている人が未来に希望を持つことができなくて、どうして職業としての確立があり得るのか。そして、賃金は安くても他の仕事で働いた方がいいのだと考えられてしまう職業で、一体良いサービス、熟練の形成ができるのかと私は思いました。
 自分のお客さんでそういうふうに思わせられておりますので、多分、こういう仕事に関心を持っておられる皆さんの周りには、そういった矛盾が渦巻いているのではないかと思います。
 
■忘れられた存在
 色々な所で相談を受けたりする中で、私はつくづく良いサービス、最善のサービスのためには、ヘルパーの職業としての確立が不可欠であるし、そのためにもヘルパーに人権を保障しなければならないと痛感させられるようになりました。
 良いサービスを利用者に提供するためには、ヘルパーの人権、つまり、ヘルパーの仕事をして良かったと思ってもらえるような雇用や労働条件が保障されなければならない。こういう視点で、制度の枠組みを作った人達はものを考えてきたのでしょうか。私はこういう視点というのは、介護保険制度を組み立てる時に、とても不十分だったのではないかと思わざるを得ないのです。
 利用者にとってどうなのか、料金の支払いの仕組みは、保険制度にするのかそれともそうでないのかといったようなことは、外枠を作る上で議論はされましたけれども、この制度の主体、担い手というのは、利用者、自治体、訪問看護などの事業者、それ以外に大切な大切な主体がいるということを忘れていたのではないかと思います。
 その忘れられた主体というのは誰だったのかというと、ヘルパーで働くという働き手のことです。これらの人達が実際に現場で働いていて、こういうものが保障されないと良いサービスは提供されないと、そういう意見が制度を作り上げる上で反映されていたのであれば、今のような深刻な矛盾というものは、多少なりとも改善されていたのかもしれません。
 しかし、この介護保険制度が重視されるようになってから、私の耳に届いてくるのは、事態が改善されたというよりは、むしろ厳しくなったという声の方が大きいのです。
 こういう厳しい労働条件と不安定な雇用というものを、まあこれは人権を保障できないという、働き手にとってはそれを象徴する言葉ですよね。厳しい労働条件、不安定な雇用−これじゃ、どうして未来に希望をつなげるのか、大切にされていると言えるのか。この基本的なところを改善することがなくて、そのためにも介護保険制度に対して、どこをどういうふうに改善させるべきなのかと、ものを言わなければいけない。
 そういう意味では、ヘルパーの人達の要求というのは、制度をどう人間的に変えるのか、そのことがイコール、ヘルパーの人達の人権を保障するというだけではなくて、利用者の人権も保障することになると。そういうところに、この問題の基本的な性格があるんじゃないだろうかと、そんなふうに私は考えています。
 従って、今日のシンポジウムの中でお話しくださるそれぞれの立場からの問題提起というのは、実は働き手だけではなくて、利用者にとっても、とても重要な問題提起になる。こういうシンポジウムが、おそらく日本で初めてなんじゃないでしょうか、持てたというのは。日本で初めてのことだと思います。
 本当にこの集会を主催され企画された方に、心から敬意を申し上げたいということと、皆さんにもこれから本当に誠心誠意、この問題のために力を振り向けていただきますようにお願いを申し上げたいと思います。
 
■働き手と利用者の人権は一つ
 私は今、職業としての確立が不可欠である、働いている人達を大切にしなければ、良いサービスは生まれないのだということを申し上げました。そのことを少し、どういうことが人権が保障され、ヘルパーにとって重要であるのか、特に利用者に対するサービスを良いものにするために、どう関連しているのかということを、若干問題提起をさせていただきたいと思います。
 その次に、現状の介護保険制度のもとで、どういった労働条件上、雇用上の問題を抱えているのか、この問題を解決するために、私達はどんな視点で取り組んでいったらいいのかと、そんな順番で問題提起をさせていただければと思っています。
 まず、私は良いサービスを提供するためには、ヘルパーをはじめとしてこの分野で働いている人達が、自分の労働に対して、公正に報われていると実感できるということが、とても重要だと思います。
 あるホームページを見ておりましたら、ヘルパーの人達、最近すごく疲れているという挨拶がありました。この疲れている気分、どうしようもないような重圧感から、ふっと開放される時はどんな時ですかというアンケートをとったら、こういう結果が出ましたというので、ホームページに紹介されていた、ヘルパーの人達の声のアンケート調査結果なんです。
 私がすごく注目致しましたのは、そのうちのかなり上位に、「感謝をされた時」という言葉を見い出しました。人から感謝をされるというのはどういうことなのかというと、あなたの働きというのがとても大切なものであって、それに報いていますということが意思表示をされた時というのは、本当に疲れが吹っ飛ぶのではないでしょうか。
 
■報われている実感
 また一つの私なりの事例でたいへん申しわけないんですけれども、ある方がヘルパーになるって話なんですけどね。こういう話を聞きました。長年専業主婦をされてこられた方が、夫が定年退職になるのを目前にして、「私も自分の人生を歩いていきたい」と考えました。自分の力で自分の人生を切り開いてみたい、自分の可能性というものを試してみたい、そういうふうに思われたそうですけれども、夫は定年退職になる前に発作を起こしまして、介護が必要な状態になってしまった。彼女は、はたと考えました。このまま、また夫の介護のために自分の人生を捧げるんだろうか。で、彼女は離婚を決意致しまして、そして実際に自分一人で生きていくという、そういう決断をしたわけです。そして、彼女が選んだ職業はヘルパーだったんです。
 なぜ夫の介護ということではなくて、同じ介護でも、自立して収入を得て、それを職業にするという方向性を選んだのか。いろいろな要因があるのだろうと思いますけれども、私はその選択の中に、家族のための介護はやって当たり前、どんな苦労でも忍んで当たり前、要するに自分の働きというものに対して感謝を感じることができない。あなたが、ここにいて欲しい存在なのだ、あなたがいなければならないのだ、私達はそれに報いていくのだという周りのやさしい配慮というものが、家族介護の中にはないからなんじゃないか。
 そうじゃなくて、時給600円でも700円でも、そこに支払われるという行為があることによって、この人はみんなから、そこにいて欲しい存在として実感されているということが、ひしひしと理解することができる。そのことによって、自分の人生の励みとすることができる。労働というものは、みんなそういうものじゃないでしょうか。それが保障されているかどうかということが、とても大きいのだと思います。そしてそれが実感できるところで、利用者に対してやさしくなれる。自分の可能性というものを、もっとこの人の自立援助のために振り向けてみようかという積極性が出てくるのではないかと思うのです。
 私は、ヘルパーという仕事だけではなくて、いろいろな職場で働いている人達の声を聞きますけれども、公正に報われていない、つまり、差別されているのではないか、あるいは不当に賃金を値切られているのではないかというような相談を受けた時に、必ずその相談者の方、お客さんが涙を流されるという場面に直面します。この時の涙は何なんだろうかと、私はいつも感じてきました。考えさせられたわけです。
 その格差というものが、たとえ何百円であっても、一ヶ月何千円というものであっても、それはタバコ何箱とか、あるいはコーヒーを何杯とかっていう、そういう物に代えられるような経済的な価値というよりは、それだけ値切られてむかつくというような、そんな言葉で言うのはちょっと軽々しいって考えられるような、そういう傷つきでもあるわけです。で、この傷つきって一体何なんだろうか。涙を流すほど悲しくて悔しくて、そして傷つけられたということは一体何なのかと言ったら、この削られた分だけ、私には期待されていなかったのだということをお金の値段で示されてしまう、そのことがとても悔しいということなのだと思うのです。
 
■家事援助の価値
 私は、だから差別というのは、人間の人格尊厳に対する最も重大な挑戦であり、犯罪であるというふうに思って、今まで裁判などいろんな取り組みに参加をしてきているわけですけれども、ヘルパーの賃金というものを見た時に、そのことを感じないわけにはいきません。
 この低賃金って、いったい何なのでしょうか。私は、あるヘルパーの方から、家事援助というのがとても重要だということを聞きました。この話を聞いた時に、私、ガーンと頭を打たれたような気分だったのですけど、自立支援するというのはすごく難しいことなのだという話の中で、このヘルパー何十年とキャリアを積んだ方が、こう言われるんです。まず食べることから、自立支援するというのはどういうことかと言うんですね。
 誰それさん、何か食べたいものはありますか、加藤さん、田中さん、何かあなた、今日の夕方作ってほしいものはありますかと、そういうふうに聞くんですって。そうすると、日本の人って、特にお年寄りの方というのは、自己主張するということに慣らされていないので、「何でも結構です」と、たいていの人は言うんですね。その時にこの方は、この人だったらどういうのが好きかしらということは、一切考えないんだそうです。敢えて、何でもいいというのであれば自分がいい物を、何でもいいと言ったんだからということで、ある調理を用意するそうです。
 その時に、「これは自分の好きな物ではなかった」と言われた時から、その方との闘いが始まるんだというわけですね。そして、「あなたは何でもいいと言ったでしょう」と。自立のためにはね、自分でまずね、何が今日好きなのか、何が食べたいのかという事を言えなければだめなのだということを、ぎりぎりのところで綱引きをしながら、人間関係をつくりながら育てていくというわけなんですよ。
 こういうことができるといったらね、今の先生方でも、とても大変だと思いますけども、こういう仕事を家事援助の中で、ものすごい綱引きを行っている。小さな子どもの場合にはまだ人格的に可塑性がありますので、こういった綱引きも何とかなるのかも知れませんけれども、私なんかがその場にいてですね、人生観も価値観も本当に一つの強固なものをお持ちになっている尊厳ある相手に対して、「何が好きですか」と聞いて「何でもいい」と言われた時に、「じゃあ」ということで、そういう勝負をかけられるのかといったら、なかなかかけられるものではありませんよね。
 こういうお仕事をされている人の平均的な賃金水準というのは、家事援助で見た場合にいくらになっているかというと、驚くべきことですよ。一週間について何万でしょうか。2万ですか、3万ですか。私は東京のケア・ユニオンというところでお仕事をさせていただいてますけれども、そこでとったアンケート調査でいったら、一ヶ月の賃金収入10万に満たないですよ。みんな103万の壁で働いているんじゃないかってぐらいに。とてもじゃないけど、一人で自立していけるだけの賃金水準にはなっていない。しかも、みんなこのケアという意味で、自立支援ということで、どんな仕事でも平均的に、たとえば1,500円なら1,500円とか、1,000円なら1,000円ということでやられているわけではないんですね。東京あたりだと、家事援助は一番低いです。場合によっては、1,000円を切る。それで複合型で1,100円から1,200円。身体介護で1,500円とか、そういった形で格差がつけられているんですね。
 だけど、人から言わせると、私もそうだろうなって本当に痛切に感じますけど、一番大変なのは”家事援助”という感覚が非常に強い。ずっとヘルパーを何十年やってきて言われたその方も、「家事援助が一番高くていいんですよ。そういうふうに組み変えていかないと、この仕事の意味って理解されないんですよ」と、お酒を飲んで言われていました。お酒を飲んでというのは、酒を飲んででなければ、こういう本音は話ができないという怒りにも似た−そんな話をされてましたね。
 なんで、これだけの格差のもとで、それで低賃金で働かなくてはいけないのか、構造の問題というのはまた後から問題提起したいと思うんですが、この格差の中で、ものすごく疲労しませんか。そして利用者から「あなたは家事援助」という、何かそういうふうに思われている。
 札幌での調査の中でも、利用者の方が自分達のことを家政婦だと思っている、自分達は何でも命じられるというふうに思っている、そういう怒りがアンケート調査の中に吹き出ていました。
 こういう中で、その差別的な雰囲気の中で、差別的な賃金の支払いを受けながら働いているということは、さぞかし疲労感も増すんだろうなと思いました。でも、そんな時に、利用者の方から、「また来てくださいね。本当にありがとう」という感謝の言葉をもらった時に、「ああ、本当にこれで働いていてよかったな」と思いながら働き続けておられるんだろうと思います。
 
■ヘルパーはなぜ辞めるか
 ヘルパーで働いている人達が、辞めていく人達が多いということも聞きました。平均的な勤続年数は、聞きましたら、東京のケア・ユニオンのアンケート調査の結果では、4〜5年というところが多かったような記憶なんですけれども。
 これっていったい何なんでしょうか。やっぱり報われていないという実感が強いからではないのか。もちろん体が続かないというのもありますけれども、報われてないという実感をさせられる中で、人間というのは段々段々と「辞めてもいいや」と思うようになる。
 おそらく皆さんが、これから使用者と交渉したり、あるいは行政の当局と労働条件の改善をめぐって交渉される、綱引きをされるということになっていくんじゃないかと思いますけれども、その時に忘れていただきたくないのは、公正に報われるという条件を設定するということが、利用者にとって非常に重要なことなのだという、そのことですね。
 私の経験からしましても、賃金の格差がある中でずっと働き続けている、その屈辱とかそういうものを目の前にして、自分の納得づくの労働をするためには、どこかで割り切らざるを得ないというところもありまして、ヘルパーで働いている人達はそういうこともできないで、自分の中での矛盾が高まって辞めていかれるんじゃないかと思うんです。
 一般の職場だったら、賃金分だけ、カットされた分だけは、差別された分だけは働かないと気持ちを仕切って働いているという居直り。これで、かろうじて自分の職業がもっているという、そんな感じがします。
 段々段々に、そのうち「辞めてやる」という気持ちにさせられて、でも本当に彼女が自分から進んで辞めていくというのは、なかなかないことですよね。本当に進んで辞めていく時というのはどんな時かというと、みんが一番忙しそうで、自分が辞めたら困るときに辞めるという、それだけ自分の働きというものを、みんなに痛感して欲しいという要求が現われてますよね。
 それから、使用者から「辞めろ」と言われた時には、もう憤然とがんばって、「何が辞めろだ、ちゃんと自分を職場に戻せ」とがんばれればね、それだけ自分に誇りがある、その誇りに見合うだけのものが労働条件で保障されていないという重みがひしひしと伝わってきます。
 そういった意味で、公正に報われているかどうかという物差しで介護保険制度を見た時に、改善されなければならない課題というのは、報酬の組み方から何から何まで、非常に広範囲に及んでいるのではないかと言いたいわけです。
 
■ダンピングのしわ寄せ
 それから2番目に大切なことは、自分と仲間を大切にできるだけの、そういう労働条件が保障されているかということです。先程私は、ヘルパーの賃金は安いと言いました。自立してこれで職業としてやっていくためには、かなり長時間働かなくてはいけません。拘束時間も含めると、それでもかなり長く働いていますから、ヘルパーの仕事だけでは、おそらく食べていけないという水準の人達が多いのだと思います。め一杯働いてというと、どんな仕事でも大変だと思いますけれども、ヘルパーの仕事というのは、とてもハードです。そのことは皆さんが直接お仕事に従事されていて、一番実感されていることだろうと思いますが、このハードさというのが、ますます拍車がかけられているのではないかとも思うのです。そして低賃金化している。
 東京ですと、ある仕事を一つ受けるという場合に、利用者の方を獲得するために料金競争をやっているわけですね。本来的には、身体介護ということで料金設定がされて然るべきなんですけれども、そこのところを「じゃあ、複合型で結構ですよ」とか、「家事でやっときますよ」という形でダンピングして利用者を獲得するというような、業者間の競争がものすごい勢いで広がっているということを聞いています。
 介護保険制度というのは、利用者に自己決定権を保障するという基本的な主旨に貫かれているわけです。利用者の自己決定権というのは、数あるサービスの提供業者を利用者が選ぶことができると。たった一つのサービス提供事業者しか選べないということでは保障できないというので、民間の事業者、指定事業者が複数あるところで、利用者が、より良いサービスを、そして低額な料金で提供してくれる指定業者を選択できるという枠組みにしました。だけれども、競争関係が激しくなる中で、そのダンピングのしわ寄せが、ヘルパーに来ているという状況があります。おそらく介護保険制度が実施されるようになって、労働条件が厳しくなったというのは、この辺の仕組みから生み出されてきているのではないかと推測されます。
 事業者の方に、あるいは行政の担当者の方にぜひ訴えてほしいことは、「こんなふうにしてヘルパーに矛盾のしわ寄せをしておいて、ヘルパーが利用者に対してやさしくなれるか」ということです。
 
■やさしくなれる条件
 人間というのは、自分を犠牲にしながら、自分を傷つけながら、何かの物事にまい進していると、他人に対して非常に厳しくなってきます。
 私は、人権保障の基本に、いつも真中に据えるべきだと思っているのが、公正に報われているということと合わせて、自分を愛することができるかということです。このことは何度も訴えてきました。
 自分を愛するってどういうことでしょうか。自分を大切にできるということです。他人のために犠牲になるのではなくて、自分の幸せのために、自分の未来のために、今生きている、そして自分を大切にできるということです。
 とかく、他人のために一生懸命になる人というのは、まあ、私も一生懸命になろうとしてきましたけれど、自分のためにというのではなくて、他人のためにこれをやり切らなくてはならないというふうにして自分を押さえ込んでいます。その時に、人間にとって自分にストレスを加えてそれを乗り切るということは、とても大切な一つのことをやり遂げる上では大切なんですけれども、振り返ってみると、そういったことをしながら、自分の人間としての敏感な感性というものを削ぎ落としてきてしまったということに、気付かされることが多いものです。







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