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刺突漁
 漁猟、狩猟活動を生業の中心とした縄文時代の開始当初から、石鏃や骨角製のヤスなどの刺突具はすでに存在しており、その前の旧石器時代後期には槍先(ポイント)や細石器群なども出土しており、狩猟のみでなく漁撈にも使われていたと考えられます。このように刺突具の歴史は人類の歴史とともに工夫、改良され現在に至っています。また、それぞれの魚介類の大きさやその生態を考えての漁法が発達していきました。
 
【突きん棒漁】
 樫(かし)などの堅い一本木でできた長い柄の先端に股金(またがね)を付け、これに着脱式の銛(もり)を装着した構造の突きん棒を用います。海面近くを回遊する大型のメカジキなどの魚群を、船のへさきから突きん棒を投げ下ろし、捕獲する方法です。荒天で風の強い日に大物を見付けることが多く、勇猛果敢な漁法といえます。銛先は一般的に、明治時代は1本銛、大正時代から昭和10年ころは2本銛、それ以降は3本銛と変化していきます。銛先には矢縄(ヤナ)が連結し、他端には浮(標)樽が結ばれ、大漁のときは浮樽を海に投入し、次の魚群を追ってから収容したようです。
 鋸南町勝山では中世末期にすでにこの漁法が行われ、勝山から千倉町七浦にかけての沖合いを漁場とし、出船しました。捕鯨と密接な関係があり、銛の形態などにお互い似ているところがあります。18世紀の後半、鋸南町岩井袋では捕鯨出漁時にメカジキなどを併せ捕獲したとの記録があります。
 大正5年ごろから機械船の突きん棒が開始され、漁船の行動範囲がひろがり、昭和7年には千倉町白間津港から日蓮丸(19t、40馬力)が7日をかけて台湾沖まで出航するまでになりました。第2次大戦中は徴用船として使用され、突きん棒漁は中断されましたが、昭和26年に沿岸漁業協同組合に突きん棒専業船団が結成され、北海道沖などで操業し、メカジキ漁は最盛期をむかえました。
 
108. カジキモリ(千葉県立安房博物館)
 
 その後、三崎、三陸などの港で遠洋マグロ延縄(はえなわ)船が建造され、出漁するようになると、水揚げは減少するようになり、昭和27年にはすでにサンマ、サバ漁に切り替えて操業する漁船がでてきました。
 
【捕鯨(突き捕り法)】
107. 捕鯨図(千葉県立安房博物館)
 
 回遊中の鯨を積極的に捕獲するようになるのは中世末期ころのことです。突き捕り法は、網を付けた多数の手投げ銛を鯨に打ち込んで捕獲する方法で、江戸時代初期の慶長11年(1606)に和歌山県太地浦の和田忠兵衛頼元が大阪府堺の浪人伊右衛門と愛知県師崎の伝次の協力を得て、愛知方面で完成させた漁法です。
 房総における鯨の突き捕り法が開始されたのは、慶安元年(1648)になります。鋸南町勝山の醍醐新兵衛定明が元締めとなって突き捕り法を駆使した「突組」の組織化を試み、周辺の3組57艘からなる世襲制の組織をつくりました。総勢は旗頭、世話人等の幹部のほかに羽刺(突き捕り)などの乗組員500人と解体作業等に70余名を有する職業集団です。2代目醍醐新兵衛明広が組織化を完成し、明暦年間(1655〜58)から宝永年間(1704〜11)ころにかけて本格化しました。醍醐家を中心とした捕鯨は明治時代初期まで続けられ、この間、一貫してツチクジラを主要捕獲対象としてきました。ツチクジラは餌のイカやイワシを追って伊豆諸島から北海道沿岸に向けて房総沖を通過する6月から8月が漁期となりました。
 
107. 捕鯨砲銛(千葉県立安房博物館)
 
 幕末ころになると、欧米の捕鯨船による日本近海での乱獲によってクジラの回遊が減少したため、醍醐家第8代の定嗣は北海道周辺の漁場開発を試みました。明治時代にはいると、近代捕鯨への模索が試みられ、明治31年(1898)館山市に房総遠洋漁業株式会社が起こされ、近海捕鯨が行われました。
 大正時代末期ころは、機械船の普及によって、一般漁民でもクジラの捕獲が容易になり、回遊路に近い千倉町七浦では小規模捕鯨業者が乱立しました。
 現在は、近海捕鯨は昭和23年に和田町を拠点に設立された房総捕鯨株式会社よってツチクジラの捕獲が続けられております。







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