漁撈のはじまり
縄文時代の初頭から水産資源の利用が行われていたことは、洞窟遺跡の調査から明らかになっています。長野県の湯倉洞窟からは、縄文時代草創期(約12,000年前)の釣針とサケ・ウグイ・コイ・エイなどの魚骨が出土しています。この遺跡は、長野県と群馬県の県境の、標高1,500mに位置します。カモシカ・ニホンジカ・イノシシなどの多量の獣骨に混じっての出土で割合は高くはありませんが、逆に動物が豊富に捕れる地域にあっても水産資源も利用されていたことが明らかです。また、この遺跡からは縄文早期(約8,000年前)のヒラメの骨も出土しています。最も近い日本海の海岸線まで直線距離で60kmというこの遺跡で海産の魚類もその利用の対象となっていたのです。
千葉県には800ちかくの貝塚遺跡の所在が知られています。縄文時代を中心とするこれらの貝塚は採貝活動の結果として遺されたものであり、活発な貝漁の存在を示しています。その貝塚からは漁撈具である骨角製の釣針・モリ・ヤスなども出土し、釣り漁・刺突漁の存在も証明しています。また、漁網の浮子に使われた土器片錘や石錘、浮きとして使われた軽石製の浮子の存在から網漁の存在も示しています。
左から 3. 骨角製やす 1. 骨角製銛 5. 骨角製釣針
(すべて複製)(鉈切神社洞穴出土)(館山市立博物館)
館山市鉈切神社洞穴遺跡は、東京湾口の館山湾に面して所在し、縄文時代後期(約4,000年前)を中心として生活が営まれ、漁撈活動が盛んであったことが知られています。漁撈具としては骨角製の釣針・モリ・ヤス、土器片錘、軽石製の浮子が出土しています。出土した魚骨は47種以上におよびマダイが最も多く6〜7割を占めウツボ、ハタ・ベラの類、ブダイの類がこれに次ぎ、アジ・イワシ・サバ・ブリ・カツオ・カジキ・マグロなども見られます。また、30〜40個体におよぶイルカも出土しています。サザエ・アワビを中心とする貝類も採取されており、釣り漁・刺突漁・網漁・貝漁という漁法の基本的な形はすでに見られます。
7. 土器片錘(鉈切洞穴出土)(千葉県立安房博物館)
銚子市余山貝塚は、現在の銚子河口から約8km利根川を遡った位置に所在する縄文時代後期から晩期におよぶ遺跡ですが、当時は古鬼怒湾の湾口にあたる位置に所在する遺跡です。漁撈具としては骨角製の釣針・モリ・ヤス、土器片錘、石錘、軽石製ウキなどが出土しています。出土した魚骨はクロダイ・スズキ・フグが多くブリ・マグロなどの回遊魚やマダイ・サケなどもみられます。
13. 鹿角製アワビオコシ(鉈切神社洞穴出土)
(千葉県立安房博物館)
山内清男は、サケ・マスが縄文時代の東日本の人々の生活を支えた重要な食料であったことを説き、東日本の縄文文化の繁栄はサケ・マスによってもたらされたというサケ・マス論を主張しました。
また、千葉県の東京湾岸に多数の巨大貝塚が集中し、これが単に集落内の消費からもたらされたものとしては膨大であることから干貝が物々交換のための交換財として生産されていたとする主張もあります。
2. 骨角製モリ・6. 釣針(複製)(余山貝塚出土)
(千葉県立大利根博物館)
弥生時代以降も漁撈活動は活発に行われていたことと思われます。『魏志』倭人伝に「好んで魚鰒を捕らえ、水深浅と無く皆沈没して之を取る」、「倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕らえ、文身し亦以て大魚・水禽を厭う」とあり、当時の日本で潜水漁法を得意とする多くの人々がいたことがわかります。また、大阪湾に面した弥生時代の遺跡ではタコ壺も出土し、当時すでにタコ壼漁のような漁法も成立していたことが窺えます。
古墳時代になると、千葉県内の遺跡から土製の網錘が出土しています。現在も使用されているような素焼きの網錘で、形態・重量なども、網の形態や対象魚種によって使い分けられているものが揃ってきます。
8. 魚形埴輪(芝山町白桝祭祀遺跡出土)
(歴史の里・芝山ミューゼアム)
古墳時代の特徴的な遺物である埴輪(はにわ)に魚を模したものがあります。芝山町白桝祭祀遺跡の魚形埴輪は遺跡が、現在もサケが遡上し、上流の山田町山倉大神にサケを奉納にその切り身と焼いて粉にしたものを護符として授ける「さけ祭り」が古くから行われている栗山川の流域に位置することから、サケを表現したものと考えられています。
また、成田市南羽鳥正福寺遺跡1号墳から出土した埴輪は、頭部および胴部が円筒形であること、尾鰭(ひれ)が中央から二つに分かれることからサケではなくボラではないかとされています。正福寺遺跡1号墳は、現在の利根川から3kmほど離れた台地上に位置する古墳で、6世紀中頃に位置づけられますが、当時はまだ霞ヶ浦から印旛沼に広がる大きな内海を望む位置に築かれたものです。径25mの二重周溝の古墳でムササビ形という珍しい埴輪も出土しています。
9. 魚形埴輪(成田市南羽鳥正福寺遺跡1号墳出土)
(成田市教育委員会)
奈良時代になると、平城京に運ばれた税の荷札として付けられた木簡(もっかん)に、房総の地のアワビは多数登場し、特産物として扱われていたことがわかります。ワカメも納められており、延喜式にもそのことが記されています。平安時代や中世においても、海そして河川湖沼での漁撈活動は活発に続けられていました。しかし、それは集落全体が専業として漁撈活動のみに専念するというよりは、様々な生業の一つとして、集落内程度の需要を満たすものとして行われていたものでした。
(大原 正義)
|