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房総における漁撈活動
 千葉県は西を東京湾、南と東を太平洋に囲まれ、北を利根川によって画されています(図−1)。四方に海と川が広がり、そこからもたらされる水産資源は、悠久の昔からこの地に暮らす人々を潤してきました。
 縄文時代にあっては、現在の利根川沿いには、古鬼怒湾という内海が入り込み、縄文海進の最盛期には房総地域は、海に浮かぶ巨大な島ともいうべき存在でした。
 
図−1.
人工衛星(ランドサット)より、上空900kmから見た房総半島と周辺海域
 
 旧石器時代の水産資源への関わりは明らかではありませんが、縄文時代になるとその当初から関わりが確認できます。房総においては、貝塚の存在が何よりもその積極的な利用を示しています。現段階で最も古いものは、神崎(こうざき)町西之城(にしのじょう)貝塚の縄文時代早期のものです。その後は、世界最大の貝塚として知られる千葉市の加曽利(かそり)貝塚をはじめとする東京湾岸の巨大貝塚群によって知られるように、房総の縄文人が水産資源によって生活の重要な部分を支えられていたことが明らかです。貝塚は、貝そのものが水産資源利用の証左であるとともに、貝の存在によって残された骨角製の釣針・銛(もり)・ヤスなどの漁具と対象物の魚骨によって当時の水産資源利用の具体的な姿を明らかにしてくれています。巨大貝塚をつくりあげた膨大な量の貝については、干貝として交換財として生産されたのではないかという推論もされています。
 弥生・古墳時代にも水産資源の活用は盛んに行われたものと思われます。網に使われた錘などは現代のものとほとんど変わらないものが遺跡から出土し、魚を表現した埴輪も出現します。
 平城京に納められた税の荷札(木簡)には、房総の地からアワビやワカメが納められたことが記されています。
 房総における漁撈活動は、中世までは自給的な性格の強いものでした。これが一変するのは、江戸の成立でした。徳川家康が天正18年(1590)に関東に入国すると御菜浦(おさいうら)を定め、江戸城に魚介類を上納させました。この中に、房総では船橋浦がありました。これが江戸湾内の漁業発展のきっかけとなり、江戸という一大消費地の成立によって、房総の漁業もその生産地として発展することになりました。
 元和(げんな)年間(1615〜24)に紀州の栖原(すはら)屋角兵衛が萩生村(富津市)で始めた鯛桂網(たいかつらあみ)も江戸城および江戸の鯛需要に応えるものでした。近世初期の江戸湾の漁業はこうした関西漁民の進出によるところが大きかったのです。
 江戸の発展とともに、江戸湾沿いの漁村も積極的に新規漁法を導入し生産拡大を図りました。こうした中で漁場権争いが激化し、しばしば訴訟も繰り返されました。江戸後期には江戸湾の漁業も飽和状態に達し、文化13(1816)年には江戸湾沿岸の上総・武蔵・相模の漁村44か村が集まり、漁法を38種に限定するなどの議定書を定め漁業規制をしています。文政6(1823)年には、人見村(君津市)で海苔(のり)養殖が開始され、周辺の村に広まり上総海苔として定着しました。
 鮮魚を中心とした江戸湾岸に対して、安房・九十九里・銚子の太平洋岸地域は干鰯(ほしか)・〆粕(しめかす)を対象とする鰯(いわし)漁を中心として発展しました。近世初頭の畿内農村の綿花・菜種栽培を中心とした商品作物栽培の増加は金肥(干鰯・〆粕)の需要を産み、関西漁民の相模・房総への出漁を促しました。近世初頭から17世紀中頃までの出漁は季節的な出稼ぎ漁である旅網として行われ八手(はちだ)網を中心とした漁法で、生産された干鰯は畿内農村に運ばれました。17世紀後半には九十九里での地曳(じびき)網も開始され、生産量も拡大しました。当初関西漁民の出漁で始められたこれらの漁も、こうした漁民の定住と地元住民の参加、元禄16(1703)年の大地震の被害による旅網の衰退によって、地元漁村の漁へと変化し、関東地域の農村の干鰯需要の増大によっていっそう発展しました。嘉永年間(1848〜54)の記録によれば九十九里浜での年間干鰯生産高は約40万俵、〆粕は約43万俵にのぼっています。
 明治になると、明治政府の殖産興業政策として、漁業の振興も一層促されます。「千葉県漁業図解」「日本水産捕採誌」は内国勧業博覧会資料として編さんされたもので、当時の漁業の様子を良く表しています。
 現代の漁業は機械化・大型化が著しいのですが、安房博物館と大利根博物館が収蔵する漁具資料は昭和40年代までの資料が中心で、まさに手足の延長として用いられてきた道具です。縄文時代の昔から少しずつ改良が加えられ40〜50年前まではこれらが漁業を支えていたものです。
 
コラム
都に運ばれた房総の海産物
 平城京や平安京に都がおかれていた奈良・平安時代、房総からは朝廷への貢納品(こうのうひん)(税)として多くの海産物が都へ運ばれていました。平安時代の中頃、10世紀に編さんされた法律書『延喜(えんぎ)式』によると上総・安房国を中心に、魚は「鰹(かつお)」「雑(くさぐさのきたい)」(魚や肉の干物)、貝は「鰒(あわび)」、海藻では「若海藻(わかめ)」「凝海藻(こるもは)(テングサ)」「海松(みる)」「長海松(ながみる)」が納められることになっています。これを裏付けるように、平城京跡では下総国海上郡・上総国夷(いじみ)郡から運ばれたワカメの付札(つけふだ)(荷札)木簡(もっかん)、安房国安房・朝夷(あさい)郡から運ばれたアワビの付札木簡などが出土しています。中でも、アワビの木簡は30点以上が出土しており、安房国にとってアワビは重要な海産物だったことがわかります。
 アワビは味も良く、長寿の薬効があるとされていたため、天皇や貴族の宴会に出される貴重品でした。そして、房総のアワビは、奈良時代以前から御贄(みにえ)(天皇の食べ物)として天皇に捧げられていたと考えられています。
 都に運ばれたアワビは、木簡を見ると重さを示す「斤」(1斤:600g)という単位とともに、「条」という単位で表現されており、干しアワビだけでなく、現在でも伊勢神宮の神饌にある「玉貫鮑(たまぬきあわび)」や「身取鮑(みとりあわび)」のような熨斗鮑(のしあわび)の形に乾燥・加工され運ばれたものもあったと思われます。
(笹生 衛 千葉県立安房博物館)
 
身取鮑
玉貫鮑







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