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1−2 模擬演習(Simulation Exercise:SE)による公衆衛生教育−在宅ホスピス教育の位置づけ
 
1−2−1 はじめに
 
 1995年秋、帝京大学医学部衛生学公衆衛生学教室では、それまで保健所見学を中心に組み立てられてきた医学部5年生の社会医学実習の大幅改変を計画した。
 今日地域においては保健所の統廃合、大学においては社会医学系講座数の減少や定員の削減等、衛生学・公衆衛生学の教育と研究を取り巻く状況は厳しく、専門職としての衛生学・公衆衛生学従事者の存在理由が問われている。特に帝京大学医学部では衛生学と公衆衛生学の両教室の統合、定員の半減という最も厳しい形でこのような状況を経験し、衛生学公衆衛生学の教員の医学部の中での存在意義、あるいは大きく社会の中で我々に何が求められているのかを、いやおうなしに考えさせられてきた。
 そこでまず我々は、衛生学公衆衛生学教育の現状を分析した。そもそも医学教育の一義的な目的は臨床医の養成であるが、広い分野にわたる医学教育の中で、衛生学公衆衛生学は医師の社会性の養成に中心的な役割を持つといえよう。すべての医師は社会的な存在であり、臨床医もその活動の多くの場面で、法律、経済、院外の諸機関・諸組織との関わりの中で業務を行っている。しかし必ずしもそのことが意識化されず、ましてそのことの目的意識的教育は全く不十分といって過言でない。従って、従来の衛生学公衆衛生学教育体系の網羅ということでなく、医師の社会性の養成という観点で、根底的に衛生学公衆衛生学教育全体を見直す必要性が痛感された。検討に当たり、衛生学公衆衛生学教育は講義と実習により行われるが、医学教育は職業教育であり、職業教育においては実地教育たる実習が最も重視されること、現状の衛生学公衆衛生学実習は多くの問題があることは従来から指摘されていたので、実習にまず焦点を絞った。すなわち多くの医科大学の衛生学公衆衛生学実習は、研究者養成を目指すかのような研究論文作成実習であったり、あるいは保健所等の単なる見学に留まっている。帝京大学では後者を行っていた(表1)。
 
表III−1 衛生学・公衆衛生学の実習
実習の場 学習形式 学習内容・目的
大学内 レポート(教科書・参考書による) 知識修得・整理
研究(オリジナルな)
実験・調査・資料解析
社会医学分野における研究の進め方
論文のまとめ方
現場 見学(保健所、工場等) 知識・視野を広める
学校保健教育実習*(産業医大) 実践を通した学習
*産業医大では実際に学生が小学校や中学校の教室で、保健の講義をするという学校保健教育の実習が行われており、非常に意義深い方法と思われる。
 
 このようなところではカリキュラム立案において、社会性を持った臨床医を養成する職業教育であることが意識化されておらず、社会的な場面で医師がどう考えなければいけないか、行動するべきかというような点についての、実際に役立つ教育がほとんどなされていない。
 こういう状況を改め、教育目的に沿った実習を考える際にヒントになったのが、米国ビジネススクールのケースメソッドである。ビジネススクールのケースメソッドでは現場で起こりそうな問題をそのまま教育の場に持ち込み、それに対する対応を教師と学生が議論する中で、学んでいく。先に理論や知識や方法を提示しその適用例として現場を見るのでなく、現場の問題にぶつかり、それに対する対処の中で必要な知識や理論や方法を得ていくという順序になる。ただし、現場の問題にぶつかるといっても、直接現場に行くわけではなく、抽象化されていない実際の状況記述の中に、教育目標に沿い学習課程を意識した必要な問いかけが含まれたケースが用いられる。そこでわれわれはこのケースメソッドを公衆衛生実習に用いることにした。
 しかし医学教育ではすでに模擬患者(simulated patient)という先進的な教育方法がある。模擬患者は、高度に訓練され知識と演技力を持った健康者が、医学生の問診や診察に対し、特定の疾患の患者と同じような受け答えや、時に症状すらも演じるものである。模擬患者は本物の患者より鮮明な形で疾患の特徴を示すと共に、診察を受ける側からの診察方法に対するフィードバックを行うことができる。そしてその公衆衛生版として部分的ではあるが、特殊な状況を用いたケースメソッドによる教育がシミュレーションエクササイズ(Simulation exercise)と呼ばれ報告されている。そこで我々も新しい実習をシミュレーションエクササイズ(SE)と呼ぶことにした。
 
1−2−2 模擬演習(Simulation Exercise:SE)の実際
 
(1)概略
 SEは米国のビジネススクールのケースメソッド1)と、カナダのMcMaster大学で考案された模擬患者の最も簡便な形のpaper patient2)の両者に想を得ている。臨床医学と異なり公衆衛生の活動対象は必ずしも患者ではなく、一応健康な労働者、地域住民であったり、個人ではなく集団の場合もあるので、patientではなくcaseの語を用いることにした。すなわち、実際に公衆衛生活動が行われる地域・職域の模擬的な状況をシミュレーテッドケース(Simulated Case:以下、SCとする)と呼ぶ。このSCを少人数の学生グループ毎に提示し、それに対して現場の臨床医および公衆衛生担当医がどうするかの立場に立って、学生が考え、議論し、調べる中で学んでいく実習形式がSEである。各SCに我々は、状況の分析を方向づけるのに役立つ課題5〜10問を付加した。
 
(2)SCの作成
 SEが効果的に行われるか否かは、まずSCの内容にかかっている。学生は卒後、臨床医として毎日様々な疾病の患者を経験するように、公衆衛生活動の現場では衛生学・公衆衛生学の技法を適用すべき様々な状況が存在しており、それが教育の材料になるはずである。また、もともと臨床の事例であっても、公衆衛生的な把握や対処が要求される場合は決して少なくはない。卒後の公衆衛生担当者教育の方法として、地域の例に対する行政者としてのケースメソッド法が公衆衛生院で実施されていることが報告されているが3)、我々の方法は、卒前教育であり、将来臨床医として働く場合にも必要な公衆衛生的側面を重視した点が特徴的である。実際の我々の実習のためのSCの作成は以下のようにしてなされた。
 
1)原案作成:まず、地域、事業所、保健所等の現場で実践活動に参加している教室員、外部講師が主に実際に経験したことをもとに、公衆衛生教育的配慮も加えて模擬的な状況または個人を記述し、これに、課題5〜10問を加え原案とした。
2)準備討論:次に原案を、チュータと教室員でそれぞれの一般教育目標(General Instructional Objective、GIO)、 特別行動目標(Specific Behavioral Objectives、SBO)、学生に提示するケースの情報や課題の取捨・選択・修正、学生間の討論の進め方などにつき何度も練り直しを行った。特に当初はひとつのSCにつき改定を加えながら30分から1時間の討論を平均2回から3回教室内で議論を行うなど、このプロセスに大きなエネルギーをさいた。結果としてSE前2ヶ月間の毎週の教室会議のほとんどをこのために費やすことになったが、このプロセスで担当外の教室員は、普段自分の関わらない公衆衛生活動や現在問題になっていることを知ることができた。
 
(3)SEの学習方略(Learning Strategy)
1)構造:本学では衛生学・公衆衛生学の講義は4年の秋学期に28コマの系統講義を、6年で制度や医療経済などの10コマを行っているが、SEは時間割編成の都合でその間の5年生の実習期間の一部として、全員同時の実習とした。1グループの学生は8〜10名で、チュータは原則外部講師と教室員のペアで2名から3名とした。さらに学生の積極的な参加をはかるため、各グループの学生をいくつかのサブグループにわけ、途中までサブグループ単位で実習を行った。
2)過程:1995年度から3年間のSCの表題と内容概略を表2に示す。テーマの分布の調整は積極的には行わなかったため、老人医療、在宅ケアや、産業保健がやや多かったが、衛生学・公衆衛生学の範囲の広さを反映して、多岐にわたるテーマだてとなった。一部同じSCの継続使用はあるが、これまでにのべ、30題近くのSCが用いられたことになる。表3にSCの実例を、表4にSE期間中の経過例(表3のSCおける実施例)を示す。
3)学生の成績評価:こうした実習の結果、学生の成績をどう評価するかは、一般の学生の成績評価以上に難しい問題がある。SCには5〜10問の課題がついており、最後にグループ毎に課題の解答を提出させるが、課題には必ずしも正解がなく、解答の正誤で成績をつけることはできない。そこで、知識より、態度・行動の評価に重きをおき、目安として、積極的な参加(Commitment)、多面的な視点(Comprehensiveness)、論旨の明快さ(Clearness)、論旨の一貫性(Consistency)の4Cの視点を考えた。
 
 そして、実際に実習を行い、従来の実習では見られなかった学生の目の輝きを見て、われわれとしてはこの実習方式にある程度の自信を持ち、これが一定の成果を挙げてきたと自負している。







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