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2 治療変更の要因
 (1)ホスピスの情報:ほとんどが新聞やテレビの情報から漠然とした「がん患者が最期を過ごす所」というイメージを持っていた。誤った情報の中には、「保険がきかないから入院費が高い」というものもあった。すでにホスピスに移ることを前提として見学や面接し、その時に入所することを即決していた。Aさんは「ホスピスという所は、もう末期終末期の人が入る病院」と考えていた。Bさんも当初、「ホスピスっていうのも浮かんだんですけど、でもがん告知していない母に、ホスピスは無理だよなあ。・・・周りが皆、がん患者で、指折り数えている人達ばっかりっていうイメージ」と思った。Gさんは、「痛みを止めてくれる所だということだけしか考えていなかった。ホスピスの話を聞いたらますます入りたくなった」と言った。Dさんは、以前テレビで見てがんになった時はホスピスだと思っていた、そして「やっぱりがん専門はホスピス」と考えていた矢先、入院していた病院の看護師からホスピスの存在を聞いた。入所後は、ホスピスに関する誤った認識、情報の少なさを痛感していた。
 (2)医療についての情報:受けている治療法について悩んだ時、公正な立場で意見が聞ける医療関係者や相談窓口の情報を持たず、治療法の選択に窮した。特に主治医や看護師は、多忙であり、相談できる状況ではなかった。Aさん、Dさん、Eさんは、積極的に情報を求めてがんの治療に関する書籍を読み、セカンドオピニオンを求めて別の医師にも相談していた。この三者は、手術や病気治療の体験を持っていることから、これらの行動は、自身の病気の体験と関連があると考えられた。Aさんは、「患者側も病気・治療に対して勉強して、自分なりの意見が先生に言えるようにしておくことが必要だと思います。」と述べ、患者や家族も、疾患や治療法に関する必要な情報の収集や医師に疑問を投げかけるなど積極的に情報を求める責任があると考えていた。
 (3)治療の限界:医師から直接治療の限界を告げられた場合と患者・家族が限界を感じた場合があった。医師からの場合は「手術できない時は死を待つだけ」「意味ないかもしれない」「今度効かなければ治療法はない」と言われていた。一方患者や家族は、治癒を信じて辛い治療を受け入れたが、効果なく転移や再発、体力の低下、気力の低下が起こった時、治療の限界を感じていた。Aさんは「あれだけ苦しい思いをしたのに、こんな結果だったのかなあ」(Aさん)「ここにいてはだめだって、ここにいても治療法がないっていう、抗がん剤しかないのよっていう状態になるわけですよ」(Bさん)「抗がん剤が効かなくなってきて、種類を変えたりなんかして、やっぱり副作用もあって、もうそろかなあって」(Cさん)
 (4)医師との関係:医師は病気の治療をし、あくまで治癒を目指す。病院に入院している以上は、治療を受けなければならないと患者も家族も理解してはいたが、実際に治療変更を余儀なくされた時点で、葛藤が生じていた。患者は「医師から情緒的、手段的に最大限の援助を引き出そうとし」、医師は「『まかせてもらえる』ところに医師としての自覚や自尊心を満たしうる根拠を見出している」1)とされる。「(治療の)選択が二者選択あったんだったら、もう一つを選択しても、おかしくないよーっていいたくなるんですよ。」「先生は抗がん剤治療がいいよっていう選択をなさるわけですよ、そしたらしなくてなんぼのものかっていうのをどこで決めるかっていう選択を私達がしてもいいんじゃないですか」(Aさん)Cさん家族は、医師にホスピスに移る意思を告げた。医師は「自分の母親だったらそうしているよ」と言った。その時、自分たちの選択が決して間違ってはいなかったと確信した。「がんとうまく付き合うってのもそうなんでしょうけれども、治す方向に向かう医療、人間の尊厳とかその辺に向かう医療との違いがその辺にあると思うんです。・・・選択するのは、個人っていうか、患者さんなんで」
 家族は、それまで治療をしてくれた医師に不満があったわけではなかったが、ホスピスに移るということが結果的には医師を裏切ることになるのではないか、自分たちの決断が正しいのかという迷いが最後まであり、それが決断を鈍らせる大きな原因にもなっていた。Dさんはすぐにでもホスピスに転院したかったが、医師に言えず、一旦自宅に戻った。「本当にいい先生でね、一生懸命してくださったからね、先生の手前ね、私はいや、もう転院ってよう言い切らんかったんですよ。」「私は一旦退院してからホスピスに行ったもんだから、前の病院の先生には何にも言わなかったんですよ。言わんといかんのだけどと思ったのだけど、言うのも言い辛くて、その先生を信用しないことになると思って」(Hさん)Aさんは、夫がホスピスに移ってからも、前の病院の主治医に夫の状態を報告する手紙を送っていた。「先生がどうかこうかじゃあなくって、先生のね、おっしゃるのはきちっとあると思うんですよ、あるパターンが。抗がん剤を勧めるパターンっていうのが。ただ私達が効かないっていうことを自分が気づいたので、やめたいっていうだけであって、先生はすごくいい先生だったんですよ。」
 (5)患者の苦痛:治療の中でも化学療法や放射線療法による強い副作用、痛みに苦しんだ患者は多かった。これは患者の苦痛だけでなく患者を見守る家族の苦痛でもあった。「私なんか家族が望んでいることは、痛みに対するその緩和」(Cさん)「あの激しさは言えないですよ。あの抗がん剤うった日の2、3日はもう、本当に死ぬんじゃないかと思いますもん。・・・・だから2回したらもう止めようよー、お父さん、私見るのが辛いって言いましたもんね。」(Aさん)、「母がもう痛みの限界に来ていたから、もうここではだめだって思った」(Bさん)、「(放射線を)頭に当てたら7日から10日くらいして、(髪が)どんどん抜けだして、バリカンで刈ってくれて、そん時に主人が、こげな情けねえこちゃねえと言って、すごく悔やみましたよね。」(Hさん)、「(姑は)もう夕べもここから飛び降りようかと思ったって。もう死にたい、死にたいような気分だって。そんなに痛いの。痛みをわかってあげられなくてごめんねーって感じだったけど。」(Bさん)
 (6)看病の疲労(過重な看病):患者の状態が思わしくない中での看病は特に心身ともに疲労が大きい。狭い病室で、寝食を共にして必死に看病にあたったり、自宅と病院を往復した。「(ホスピスには)2ヶ月間泊まったんです、もしあそこ(前の病院)なら気が狂いそうだった」(Gさん)Dさんは体調を崩したが、1ヶ月間、自宅で夫の看病をした後、ホスピスに入所した。Eさんは、病院に交渉して夫に付き添わせてもらった。疲労も感じないほど必死だった。Eさんのそんな姿を見て母親は、「病人は病院に任せなさいって、あなたは自分の身体をね、自分でどうしようもない、私はこの年で、あなたが倒れても介護してあげられない」と言った。
 (7)ケアへの不満:患者や家族は、病院における看護師のケアに不満を抱いていた。家族は患者のケアを優先し、患者の安楽を強く願った。ホスピスに移って初めて、患者だけでなく家族も共にケアしてもらったということを実感していた。「前の病院でだったら私は苦しんでただろうと思うんですけど、(看護師が)大変忙しいので、(夫に)甘えたこと言わないどいてとかって言われるぐらい」(Aさん)、「あれ見た時は、私主人は、あーいう死に方はさしたくないって思ったですね。」(Dさん)、「前の病院は、忙しくて、一人の人に話を聞いている間もないけど。」(Hさん)
 (8)家族の病気・死別経験:ホスピス入所以前に、身近な人をがんで亡くした経験、家族や本人の病気体験が、家族内でがんの告知や治療などについて話し合う重要な契機になっていた。Gさん夫婦は、夫の父親をがんで亡くした。その時の辛い経験から家族でがんになったらホスピスに入ろうと話していた。「迷いはなかったです。2種類の抗がん剤打って、食欲がなくなって、元気もなくなって。効かないものを打って、元気な細胞をなくすよりも、どうせ死は避けられない状態なんだから、あがくような治療しないで、あとの人生楽しく、食べたいものを食べ、行きたい所に行きという考え方でしたから。」Dさんは幼少時から病気がちであったので、健康には人一倍気を使っていた。「主人ががん体質だから。最終的にはやっぱり、ホスピスだなーって。」
 
IV 今後の課題
 今回の調査結果は、限定された地域で対象数も少ないため、一般化するには限界がある。対象地域や対象数を広げ、地域の特色、結果の一般化を今後の課題とする。
 
V 研究の成果等の公表予定
 成果の一部は、第5回アジア・太平洋ホスピス大会(2003年3月6・7・8日、大阪国際会議場)にて発表予定である。
引用文献
1)宗像恒次:「おまかせ」医療から「自己決定」医療へ−医療文化の移り変り−、山崎久美子編, 21世紀の医療への招待, pp.219-227, 誠信書房、1991.
2)R・ヴェレス/小田博志、二村−エッケルト敬子訳:がんを超えて生きる, p118, 人文書院, 1999.







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