7. 老齢による行動の変化
「老い」は誰にでも訪れるものであり、犬も高齢になるにつれて(表7−1)関節炎などによる関節の痛みや可動性の減少、さらには生理機能が低下するために若いときに比べて活動性が低下していきます。また水晶体の硬化や老齢性白内障などにより視覚が、さらに加齢に従って聴覚や嗅覚も低下していきます。このような活動性や感覚の低下はものにぶつかったり、小さな段差につまずいたりする原因になります。さらにこれらは犬に不安を増加させる原因にもなり、警戒心や猜疑心を増大させることもあります。若い頃には自分の苦手なものが近づいてきたときには避けることができたものが、加齢による感覚の低下によって気づくのが遅れ、気がついた時には身体的な制約(関節可動性の低下など)で逃げられずにパニック状態を引き起こすこともあるかもしれません。また若い頃は一人で留守番ができていたのにできなくなったり、高齢になってから雷や花火にパニックを起こすようになったりするなど、起こりうる行動上の問題も若いときとはかなり異なり、不安が原因であるものがより多く見られるようになります(表7−2)。
行動上の変化を考えるときにはまず疾患等の身体的な問題を考える必要があります(4. 身体的問題と行動の関わりを参照)。高齢になると基礎代謝などの生理機能が衰えるために病気も多くなりがちなため、身体的な問題をまず考慮し、それらを除外することがとても大切です。たとえば腎臓の濃縮能は加齢によって低下し、薄い(比重の低い)尿を大量に排泄するようになるため、若いときに比べて排泄の機会を多く与えないと排泄の失敗を引き起こすことがあります。
また高齢になるに従い認知機能も低下していくことが知られています。症状としては(1)方向認識の低下、(2)睡眠パターンの変化、(3)トイレの失敗、(4)家族との関係の変化が知られています(表7−3、4)。全てではないが、この認知機能低下は痴呆に進行することがあります。痴呆とは『学習によって一旦獲得した行動および運動機能の著しい低下が持続し、飼育困難となった状態(Uchino 1988)』と定義され、1998年には現在の犬の痴呆診断基準100点法が報告されています(表7−5)。痴呆は徐々に静かに進行していくものがほとんどですが、何らかの引き金によって急激に症状を示すようになることがあります。引き金のなるものとしては、身体的疾患の悪化あるいはその回復後、突然の騒音(花火、道路工事など)、飼育形態の変化、急激な気温の低下などが挙げられています。犬種傾向として痴呆になる犬は日本犬系雑種が多いという報告がありますが、これはもともとこれらの犬が日本に多いということの他、洋犬と日本犬では自律神経パターンが違うためそれが関係しているかもしれないとも言われています。症状としては大きな抑揚のない一本調子の鳴き声、昼間はほとんど寝ていて夜中に起きる昼夜逆転、目的もなくとぼとぼと歩き続ける、あるいは狭いところに入って泣きわめく、飼い主を識別できない、何が起きても反応しない、前進のみの歩行や旋回運動などが知られています。
欧米では犬の認知機能障害の治療薬として塩酸セレギリンが販売されています。しかし日本では「覚醒剤取締法の覚醒剤原料を指定する政令」でこの薬剤が原材料に指定されており使用することができません。そのため、現時点でのコントロール方法としては高度不飽和脂肪酸であるエイコサペタエン酸(EPA)とドコサヘキサエン酸(DHA)、神経変性を進めるフリーラジカルの産生の減少や除去を目的とした抗酸化作用を持つサプリメントやビタミン剤、それらを含んだ処方食(Hills
B/D®)などがありますが、残念ながらその効果は個体によって一定ではありません。またどのような薬剤や健康食品も脳神経細胞の再生やアポトーシスを阻止する効果はなく、あくまでも残っている細胞の機能を高める目的で使用されるものなので、認知機能障害に対しては補充療法でしかありません。これらは進行を遅らせる目的で認知機能低下の初期から与えられるべきなのでしょう。そしていずれの薬剤であってもやがては認知機能や痴呆は進行していきます。しかしこれらは老齢犬やその家族のQOLを高める目的では効果的に使用できるといえるでしょう。
表7−1:高齢犬とは?:加齢に関連する問題が出現する時期(Goldston Hoskins)
小型犬(体重10kg未満)9〜13年
中型犬(10〜25kg)9〜11.5年
大型犬(26〜45kg)7.5〜10.5年
(超大型犬45kg以上6〜9年)
犬の問題行動の内訳、高齢犬と若齢犬との比較(Landsberg) |
問題点 |
9才齢未満 |
9歳齢以上 |
症例数 |
431 |
62 |
攻撃性(ヒトが対象) |
225(53%) |
17(27%) |
攻撃牲(犬同士) |
30(7%) |
3(5%) |
室内での粗相 |
78(19%) |
14(23%) |
破壊行動 |
59(14%) |
18(29%) |
興奮/不服従 |
29(7%) |
0 |
恐怖症 |
23(5%) |
10(16%) |
分離不安 |
22(5%) |
18(29%) |
無駄吠え |
22(5%) |
13(21%) |
過服従行動 |
11(3%) |
0 |
強迫症(常同症) |
8(2%) |
3(5%) |
睡眠・覚醒パターン |
0 |
5(8%) |
|
表7−3:認知機能低下Cognitive dysfunction syndrome
7才以上の犬で1つ以上のカテゴリーに当てはまれば認知機能低下を考える
方向認識の低下:
目的なくウロウロ歩く
知っている場所で迷子になったり、混乱を起こすことがある
外に通じるドアを見つけられずにドアの横の蝶番や間違ったドアの前に立ち止まっている
よく知っている人がわからなくなる
号令や名前に対して反応しない
睡眠パターンの変化:
日中よく眠るようになり、夜間眠ることが少なくなった
トイレの失敗;
決まった場所以外での排尿(排便)
外に行きたい(排泄したい)という合図をしなくなった
家族との関係の変化;関心を得ようとする行動が減った
撫でてもらおうというそぶりをしなくなった
飼い主に対して喜んだり歓迎しない
表7−4;アメリカ合衆国における認知機能低下の徴候を示す犬(Hart)
11〜12才:28% 15〜16才:68%
痴呆症の診断基準100点法 |
内野富弥ら(1998) |
項目 |
点数 |
1. 食欲・下痢 |
(1)正常 |
1 |
(2)異常に食べるが下痢もする |
2 |
(3)異常に食べて下痢をしたりしなかったりする |
5 |
(4)異常に食べるがほとんど下痢をしない |
7 |
(5)異常に何をどれだけ食べても下痢をしない |
9 |
2. 生活リズム |
(1)正常(昼は起きていて夜眠る) |
1 |
(2)昼の活動が少なくなり、夜も昼も眠る |
2 |
(3)昼も夜も眠っていることが多くなった |
3 |
(4)昼も食餌以外は死んだように眠って夜中から明け方に突然起きて動き回る。 飼い主による制止はあるていど可能 |
4 |
(5)上記の状態を人が制止することが不可能な状態 |
5 |
3. 後退運動(方向転換) |
(1)正常 |
1 |
(2)狭いところに入りたがり進めなくなると何とか後退する |
3 |
(3)狭いところに入ると全く後退できない |
6 |
(4)(3)の状態であるが、部屋の直角コーナーでは転換できる |
10 |
(5)(4)の状態で部屋の直角コーナーでも転換できない |
15 |
4. 歩行状態 |
(1)正常 |
1 |
(2)一定方向にふらふら歩き、不正運動になる |
3 |
(3)一定方向にのみふらふら歩き、旋回運動(大円運動)になる |
5 |
(4)旋回運動(小円運動)をする |
7 |
(5)自分中心の旋回運動になる |
9 |
5. 排泄状態 |
(1)正常 |
1 |
(2)排泄場所を時々間違える |
2 |
(3)所構わず排泄する |
3 |
(4)失禁する |
4 |
(5)寝ていても排泄してしまう(垂れ流し状態) |
5 |
6. 感覚器異常 |
(1)正常 |
1 |
(2)排泄場所を時々間違える |
2 |
(3)所構わず排泄する |
3 |
(4)失禁する |
4 |
(5)寝ていても排泄してしまう(垂れ流し状態) |
6 |
7. 姿勢 |
(1)正常 |
1 |
(2)尾と頭部が下がっているが、ほぼ正常な起立姿勢をとることができる |
2 |
(3)尾と頭部が下がり、起立姿勢をとれるがアンバランスでふらふらする |
3 |
(4)持続的にボーっと起立していることがある |
5 |
(5)異常な姿勢で寝ている時がある |
7 |
8. 鳴き声 |
(1)正常 |
1 |
(2)鳴き声が単調になる |
3 |
(3)鳴き声が単調で大きな声を出す |
7 |
(4)真夜中から明け方の定まった時間に突然鳴きだすがある程度制止可能 |
8 |
(5)(4)と同様であたかも何かがいるように鳴きだし、全く制止ができない |
17 |
9. 感情表出 |
(1)正常 |
1 |
(2)他人および動物に対してなんとなく反応が鈍い |
3 |
(3)他人および動物に対して反応しない |
5 |
(4)(3)の状態で飼い主のみかろうじて反応を示す |
10 |
(5)(3)の状態で飼い主にも全く反応がない |
15 |
10. 習慣行動 |
(1)正常 |
1 |
(2)学習した行動あるいは習慣的行動が一過性に消失する |
3 |
(3)学習した行動あるいは習慣的行動が部分的に持続消失している |
6 |
(4)学習した行動あるいは習慣的行動がほとんど消失している |
10 |
(5)学習した行動あるいは習慣的行動が全て消失している |
12 |
|
総合点: |
30点以下 老犬 |
|
31点以上49点以下 痴呆予備犬 |
|
50点以上 痴呆犬 |
*参考書籍および文献
1)発達行動学
ドッグズ・マインド ブルース・フォーグル著 八坂書房 1996
イヌのこころがわかる本 マイケル・W・フォックス著 朝日文庫 1991
犬を真面目に考える ジョエル・ドゥハッス著 岩波書店 1999
イヌの力 今泉忠明 平凡社新書 2000
犬 その進化・行動・人との関係 ジェームス・サーペル編 チクサン出版 1999
犬と猫の行動学 C.Thorne編 インターズー 1997
2)生得的な行動
行動学の可能性 動物とヒトの行動 M・W・フォックス著 思索社 1976
Genetics and the social behavior of the dog J.P.Scott & J.P.Fuller著 The University of Chicago Press 1999 (再版)
動物の認知学習心理学 J・M・ピアース著 北大路書房 1990
犬語の世界へようこそ! トゥリッド・ルガース著 レガシーバイメール 1997
Team evaluator home study student guide 日本語版 DELTA SOCIETY 2002
3)習得性の行動
アニマルラーニング 動物のしつけと訓練の科学 中島定彦著 ナカニシヤ出版 2002
How dogs leam Burch & Bailey著 Howell Book House 1999
EXCEL−ERATED LEARNING Pamela Reid著 James and Kenneth Publishers 1996
The Clicker Workbook;A Beginner's Guide Deborah Jones著 1997
4)身体的問題と行動の関わり
Readings in Companion Animal BEHAVIOR, V.L.Voice編 VLS Book 1996
5)問題行動とは?
The Handbook of Behavior Problems of the Dog and Cat W.Hunthausen & G.Landsbarg著 ButterworthHeinemann 1997
6)不妊手術と行動の変化
Hart BL:Behavioral effects of castration, Canine Pract 1976;3(3)10
Hopkins SG, Schubert TA, Hart BL:Castration of adult male dogs:Effects on roaming, aggression, urine marking and mounting. JAVMA 1976;168(12):1108
7)老齢による行動の変化
小動物の老齢病 Goldston Hoskins著 宮本賢治監訳 ファームプレス 2001
動物適正飼養教本(高齢犬の介護) 宮田勝重、左向敏紀、水越美奈著 環境省 2001
Psychopharmacology of Animal Behavior Disorders. N.Dodman編 Blackwell Science 1998
Debra F. Horwitz:Dealing with common behavior problems in senior dogs., Vet.Med.;November 2001
Gery Landsberg:The distribution of canine behavior cases in three referral practices.Vet.Med.86(10):1011-1018;1991
内野富弥ら:犬の痴呆−その診断と治療− p9〜11 InfoVets Vol.4 No.5 2001
内野富弥:犬痴呆の発生状況 p601-604 JVM Vol.54 No.7 2001
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