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10 犬の行動学
1. 発達行動学
 犬の発育の初期段階が成長してからの性質に多大な影響を及ぼします。犬の発育段階を正しく管理し導くことは、その犬の精神を安定させ良い犬を作るだけではなく、将来起こりうる問題行動の予防やトレーニングを効率よく行うこともできます。ここでは犬の発達段階を追いながらその段階において成長において極めて重要なことを学んでいきます。
 
1.1 出生前
 誕生前から性格形成は行われています。マウスや猫の実験では母親が妊娠期に大きなストレスが与えられたり栄養状態が悪かったりすると、その子どもは臆病な行動やより過剰な行動をとるような傾向があるということが実験的に知られています(Thompson 1957;Thompson, Watson & Charlesworth 1962;DeFries, Weir & Hegman 1967)。また妊娠45日の胎児は撫でられると激しく動くのですが、毎日撫でているとこの動きは3日目には弱くなり、4日目には無くなることが確認されています。この能力は将来の接触許容の大小に影響すると考えられています(Pegeat 1995)。さらにはラットやマウスの雌では雄の同腹獣が隣接していたり、雄の数が優勢だった場合、その後の行動が雄っぽくなるということも報告されています(Hart & Hart 1985)。
 
1.2 新生仔期(出産〜生後2週齢まで)
 この時期の子犬は触覚と嗅覚は備わっているものの、行動能力はきわめて限られており、排便排尿も含めて母親に生活の全般を頼っています。また神経系の発達はこの時期に急激に起こります。誕生直後から生後5週齢まで適度な刺激(短時間触る、傾いた板に載せて内耳前庭に刺激を与える、点滅する光に曝す、聴覚的刺激を与えるなど)を与えると、刺激をまったく与えなかった子に比べて脳波の完成が早く、大胆で探究心があり、問題解決能力は高くなり、競合場面ではコントロール個体よりも優位に立つことが報告されています
(Fox 1971)。
 
1.3 移行期(生後2週〜3週齢)
 移行期とは新生仔期の行動パターンがさらに成長した仔犬の行動パターンに代わる時期を言い、具体的には生後14日前後の開眼期に始まり20日前後に耳道が開いて音にも敏感になって驚愕反応が出現する時期を言います。またこの時期に仔犬は前方だけではなく後方に這うことができるようになり、自力で排泄もできるようになります。狼では初めて巣穴から出てくる時期に相当します。
 
1.4 社会化期(生後3週〜14週齢)
 社会化期が開始する時期の仔犬は周囲の環境を認識し始めます。そしてそれに反応するだけの感覚や運動機能も発達する時期であると言えます。母親による授乳時間も日に日に少なくなっていき、それよりも社会的な遊びや探索行動が重要になってきます。社会化期前半では仔犬は仔犬(兄弟)同士や母親との相互関係の中で経験的にかみつき抑制や遊びを誘発するような社会的行動、何かに飛びつき振り回すと言った捕食行動、社会的に容認される行動とそうでない行動などを身に付けます。遊びの中で体験する支配と服従の姿勢は将来の犬社会での階級制への素地を作ります。またこの時期は好奇心が旺盛で新しい刺激、特に他の犬や人間を含む動くものに自ら進んで近づいていきます。このようにして仔犬はこの時期に自分の世界を広げていくのです。この時期に他の動物と一緒に暮らせばそれらの動物を尊重するようになり、将来的にも追いかけなくなります。しかし12週齢を過ぎると目新しいものを避けるようになり、新しいものに社会化を行うことが困難になっていきます。そのため社会化は社会化期の初期から行われる必要があります。
 ThomsonとHeron(1954)は4週齢から7週齢まで極めて制限された環境の中でしか過ごすことのできなかった仔犬は、その後普通に育てられた仔犬であれば通常避けるであろう有害な刺激に対しても接近するような不適切な行動をみせると報告しています。さらにScottとFuller(1965)は4週齢から12週齢まで人間と全く接触させずに育てた仔犬は、その後も人間との接触を全て避け、人間を恐れ、ほぼ訓練不可能な状態になったと言います。社会化期以降、あるいは完全な成犬になってから犬が特定な人になつくことは可能です。しかしその犬が慣れるのはその訓練者とその周囲の一部の人に限られ、それは「人間」という一般概念にはなり得ないのです。
 社会化期は「感受性期」と呼ばれることがあります。すなわち感受性が高いために上記のようにいろいろなものに慣れやすい時期である、と定義することができます。逆に感受性が高いために大きな恐怖に遭遇すればこれも一生のトラウマになることがあります。仔犬に社会化を行う場合にはこの点にも十分留意し、仔犬の感情に無理強いしないようにすることが大切です。また排泄場所の好みは生後8から9週齢で決定すると言われているので、トイレのしつけはこの時期から始めることが薦められます。
 
1.5 若年期(〜性成熟まで)
 この時期に基本的な行動パターンの大きな変化はありません。しかし仔犬は自らの行動の意味を徐々に理解し始め、特定の状況に合わせてどの行動が適切であるかを決定するようになると言われます。ただこの時期の犬は集中できる時間がまだ短く、興奮性も高いので難しい作業をさせる訓練を行うことは難しいでしょう。
 仔犬の社会化には最適な時期があることを社会化期の項で述べました。しかし社会化期に十分に社会化を行なった仔犬を3から4ヶ月齢時以降に隔離を行なうと、社会化期に培った人間との社会的結合は簡単に崩壊することが実験的に知られています。これは社会化には発達の初期段階に最適な時期があるものの、若齢個体の記憶には不安定さが存在するゆえに社会化には持続的な強化が必要なことを示唆しています(Fuller 1965, Woolpy 1968)。
 
1.6 性成熟期(1才齢前後)・社会的成熟期(2才齢前後)
 成犬の体重の約70%に達する頃、性腺は成熟して犬は性成熟期を迎えます。性成熟期を迎えた雄犬は足を上げての排尿行動を示すようになりますが、これは発達速度や環境の違い、その犬の社会的な地位などにより出現の時期に大きな個体差が見られます。このように性成熟期ではマーキングなどの性行動に関する行動パターンが現れる他、社会的な階級に関わる行動パターンも変化することがあります。さらに成熟後も環境からの学習は継続されるため既存の行動パターンには常に新しいものが加え続けられます。
 ラブラドールでは約1才齢で性成熟を迎えます。オオカミでは約1才齢で外見的な成熟はしていますが、性的成熟は約2歳まで待たなければなりません。これは犬と言う動物が家畜化されたために早期成熟が起こった結果であると言われています。そのため犬では約2歳齢頃を特別に社会的成熟期と呼ぶことがあります。これは性成熟と区別して精神的に成熟する時期と定義しており、事実、この時期には優位性の行動が顕著に見られるようになる犬もおり、さらにはその犬の性質が安定する時期でもあると言われています。
 
 生得的な行動とは生まれながらに獲得している行動、すなわち遺伝子にインプットされた行動のことを指します。そのため生得的行動は同じ種の動物間では比較的個体差が少ない行動と言うことができるでしょう。しかし家畜化された動物、特に犬ではその品種や系統によって大きな違いが見られる行動もあります。
 
2.1 犬の本能的行動
 犬の本能的行動には、排泄行動や性行動、自己防衛反応、および狩猟行動、縄張り行動、警戒行動などが含まれます。犬は野生動物と異なり、人為的に作出目的による選択繁殖が行なわれた結果、400種以上の品種が存在します。そのため作出目的により狩猟行動や縄張り行動などの本能的行動も犬種によって強調されたり弱められたりするなどの人為的な操作が行われています。たとえばジャーマンシェパードは縄張り行動が強められている結果、縄張り行動による吠え行動や他に対する攻撃行動が多くの個体に見られますが、ラブラドールレトリバーではそのような個体はそれほど多くはありません。テリア種は狩猟行動を強められているので動く物体に対して強い興味を示しますし、レトリバー種では獲物を回収するという行動が強められています。
 
2.2 遺伝と性質
 犬の性質(気質)を語るとき、必ず『氏か育ちか』(生まれついて性格が決まっているか、それとも性格は誕生後獲得するものなのか?)について議論されます。答えはイエスでありノーでもあります。社会化に象徴される仔犬時の育ち方や人(飼い主)との関係など、誕生後に獲得される性質も多くありますが、生得的に獲得している性質もあります。世界には400種以上の犬種が存在し、それぞれの犬種の遺伝子研究からその系統発生もかなりわかってきています。犬の性質(性格)には攻撃性や警戒心、臆病、服従心などがありますが、それらにも遺伝子上の違いがあると考えられています。たとえば服従性に大きな違いがあると考えられている柴犬とゴールデンレトリバーの性格遺伝子を比べると、遺伝子のある部位がゴールデンレトリバーの方が長いという結果が出ているのです。
 また性質は系統によって違うということも経験的に知られています。盲導犬による性格の遺伝の調査では「恐怖心」あるいは「神経質」という評価が高い遺伝率を示し、「神経質」と「音を嫌う特性」との間には強い正の相関性が、また「神経質」と「自発性」との間には負の相関性が認められたと報告されています(ラブラドールで調査;Goddard & Beilharz 1982)。また別の調査では「恐怖心」とその特性は父方よりも母方の影響の方が強いとされています(主にジャーマンシェパードで調査;Scott & Bielfelt 1976)。
 
2.3 犬のコミュニケーション
 犬は群れを形成する社会性のある動物です。この社会的な関係を維持するには効果的な情報交換が必要であるため、犬は実に多彩なコミュニケーションを持つことが知られています。
2.3.1 聴覚による情報交換
 犬は様々な状況において様々な鳴き声を使用します。犬と異なり成熟した狼はほとんど吠えることがありません。犬が吠える、ということは犬が家畜化されていくときに人馴れした子獣じみた性格が選択繁殖された結果と考えられています。
2.3.2 視覚による情報交換
 
表2−1
動物の聴力
(単位:ヘルツ)
16〜20,000
80〜38,000
62〜60,000
こうもり 30〜98,000
 
 犬の視力はあまりよくないと言われます。犬は確かに細かい識別能力は人間より劣りますが、動く物に対しては人間よりも敏感です。これは物に対してピントを合わせるのに必要な水晶体を伸ばしたり縮ましたりする筋肉の発達が悪いことによります。また犬の祖先は広い平原で遠くの獲物を追う生活をしていたと考えれば、静態視力より動態視力が発達していったことは当然のことと考えられます。また犬の眼は人間に比べ側面についているため、視野は広いが距離を測れる立体視できる範囲は狭いと言われています。
 
表2−2
人と犬の視野の違い
  全体視野 立体視野
約210度 約120度
約250度 約100度







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