5. 交配
盲導犬育成施設は事業計画に基づいて年間に出産させる子犬の頭数や次世代の繁殖犬の確保を求められるため、不受胎は非常に大きな損失である。受胎率の向上は必要不可欠であり、知識や技術、経験を駆使してその目的を達成する。
5.1 交配計画
5.1.1 発情記録
発情前期、発情期、発情後期の開始日、無発情期の期間、交配の状況やスメア検査の評価等個体や血統によって一定の傾向を示すことがあるのでデーターを記録することは非常に重要で有意義である。一定の傾向があった場合、繁殖業務が計画的に進めやすく受胎率の向上につなげることが出来る。
5.1.2 健康管理
事前に次回交配時期を予測して交配前の母犬にワクチネーション、駆虫、健康診断を行うことが望ましい。ワクチン接種を行うことで胎児期における母子移行免疫と初乳中に十分な抗体を移行することができる。回虫などは胎盤を経由して母犬から子犬に感染する。また雌犬の外陰部の外貌と膣前庭、膣を触診して狭窄や腫瘍などが無いかどうかを調べておく。
5.1.3 精液検査
前回の交配から3ヶ月以上使用していない雄は、事前に精液検査を行うことが望ましい。人工授精を行う場合、新鮮、冷蔵、凍結精液に係わらず、精液検査を行うべきである。自然交配でも雄犬のペニスが雌犬の陰部から抜けるとき、雌犬の陰部から精液の残渣が流出する。残漬に含まれる精子の状態をチェックすることは有意義である。検査のポイントは精子の活力、運動性、濃度、生存率、奇形率をみることである。冷蔵、凍結精液を作成あるいは使用したときは必ず上記の検査を行うべきである。細胞質小滴を有した精子が多い場合、交配や採精を一時的に休止した方が良い場合がある。
5.1.4 交尾の心理
一般には交配を行う際、雄犬が飼育されている敷地へ雌犬を連れてきた方が望ましい。また経験の浅い雄犬には経験豊富なおとなしい雌犬の方が自然交配が成功しやすい。経験の浅い雌犬も同様。また介助を行うものは雄犬、雌犬に対して強い叱責を与えないように注意する。盲導犬育成施設では施設内に犬を預かって交配することが多いので、雄犬を施設や職員に馴らしておいたり、交配直前に預かるのではなく交配適期の5〜7日前に預かることで対応できる。また繁殖の目的がはっきりしているため、交配相手もおとなしい経験豊富な犬ばかりとは限らない。しかし新鮮精液の人工授精を行うことで、これらの問題は解決できる。
5.2 交配適期
交配適期は雌犬の行動、外陰部の状態、雌犬に対する雄犬の行動、膣スメア検査、血漿プロジェステロン濃度の測定、膣粘膜の観察、陰門から排出される血様排出物の色等を参考に総合的に評価する。交配適期は排卵日を中心に考えると理解しやすい。排卵日は個体や発情ごとに様々である。発情が始まって7日目で起こる場合もあれば23日後という遅い時期になっても生じることがある。
5.2.1 雌犬の行動
発情開始時期には雄犬をみたとき、雄が雌の陰部の臭いを嗅いだとき、外陰部周辺を指でつついた時に、雌はじっと立ち尾を上げて横に動かす(フラギッング:flagging)、陰唇を挙上する。雄犬が足を雌犬の背部にのせると雌犬は背部を降下させる(ロードシス:lordosis)。遠吠えをする。雄犬の乗駕を許容する(スタンディング発情)。柵越しに雄犬と会わしたときなど雄犬の方に陰部を向ける。
5.2.2 外陰部の状態
陰門の発赤、腫大は発情前期の終わりから発情期の初期にかけてピークをむかえる。排卵後に縮小する傾向がある。
5.2.3 膣スメア検査
膣スメアの変化を観察評価することでエストロゲンの変動を間接的にモニタリングしていることになる。発情期と発情期の終了を把握するのには適しているが排卵時期を予測することは難しい。好中球が出現する3〜1日前が交配適期。発情期間中は継続的に検査を行うことが重要である。ポイントは角化細胞主体から中間層細胞、傍基底細胞、基底細胞が増え出す時期と、好中球が出現する時期で、浸出液の色が黒褐色、小麦色、無色に変化する。また自然交配が成立していても、この時期を確認するまでは検査を継続する必要がある。たとえば発情開始12日目に自然交配が成立して好中球が20日目に出現していた場合受胎する可能性は非常に低くなる。発情周期の各段階と膣スメア所見がいつも確実な関係があるとは限らないことに注意する。常に犬の行動、陰部の状態などを観察して総合的に評価して判断する。赤血球の有無は発情周期の情報にはならない。発情期間中ずっと好中球が存在することもある。
5.2.4 採取方法
陰門から膣の背側に沿って滅菌綿棒を挿入して膣内で静かに回転して膣粘膜を採取する。綿棒の先端が外陰部周辺の皮膚などに触れないように注意する。膣からの分泌液が少ない場合、綿棒の先端を滅菌生理食塩水で湿らすと採取しやすい。スライドグラスに綿棒を転がして塗沫する。検体をデフクイックR、ギムザ染色液等で染色して観察、評価する。生理食塩水で膣内をフラッシングして採取する方法もある。
5.2.5 膣スメアの細胞の種類
角化上皮細胞(表層細胞):無核で細胞質は濃く青く染まり角ばっている。細胞質が赤く染まるものもある。青い小さめの核を有するものもある。
有核上皮細胞(中間層細胞、傍基底細胞、基底細胞)
中間層細胞:大型と小型がある。
大型:外観は多角形で赤紫色の核を有する。
小型:外観は円形で細胞質は青みがかっており、大きめのうすい赤紫色の核を有する。
傍基底細胞:小型で円形〜卵円形の様々な形をしており、大型の核を持つ。また細胞質に空泡を有するものもある。
基底細胞:小型で細長い細胞。
好中球:赤紫色の分葉核を有する。
赤血球:無核。細胞の中心部が窪んでいる。
5.2.6 膣スメアの評価
発情前期の5〜7日目ぐらいから採取を始める。毎日あるいは1日おきに検査を行い好中球が再出現、陰門からの浸出液の色が変化するまで採取することが重要である。できれば毎日行った方がよい。
発情前期:有核上皮細胞と角化細胞が混在。有核上皮細胞の割合が多く少数の中間層細胞がみられる。
発情期:有核上皮細胞と角化細胞が混在。角化細胞の割合がしだいに多くなりピークが2峰性になることがある。発情期の終了が近づくにつれて有核上皮細胞の割合が増えてくる。
発情期最終日:毎日観察していて好中球が確認できた日。この日まで一度も交配が行われず雌犬が雄を許容しなくなったり雄が雌に興味を示さなければ人工授精を行う。排卵の状況によっては受胎する可能性はある。この日から2〜3日後に綿棒につく膣排出液の色が小麦色か無色に変化する。
O発情後期:多数の好中球と基底細胞、傍基底細胞がみられる。
5.3 発情期の内分泌
排卵の時期を知ることができれば確実で能率の良い交配が可能になる。血漿LH濃度、血漿プロゲステロン濃度、血漿エストラジオール濃度を測定することで排卵時期をある程度特定できる。
排卵はLHピーク後30〜48時間の範囲で起こる。エストラジオールのピークはLHピークのおおよそ1日前に起こる。血漿プロゲステロン濃度はLHピークと同時に上昇する。血漿プロゲステロン値が2〜3ng/mlに上昇した時がLHピークと考える。
欧米ではLHピークや血漿プロジェステロン濃度を簡易的に測定するキットが販売されているが日本国内での入手は困難である。血漿プロジェステロン濃度は人の臨床検査センター等で測定可能である。日本の現状では血漿プロジェステロン濃度で排卵時期を特定する方法がいいと思われる。
5.4 授精のメカニズム
精子は雌の生殖器内で受精能保有時間が4〜7日間と長い。
排卵直後の卵子は受精能力がない。卵子は排卵後、成熟するのに2〜3日間かかる。成熟した後1〜2日生存している。以上のことから卵子の受胎可能期間はLHピーク後4〜7日の範囲にある。受精可能期間の終了間際では卵子の受精能力が低下していることに注意する。卵子が受精可能な時期に受精能力のある精子を存在させることを考えることによって何をしたらいいのか、何に注意をしたらいいのか、どのような情報が必要なのかということが見えてくる。
5.5 人工授精
人工授精には新鮮精液、冷蔵精液、凍結精液を用いた方法がある。それぞれの長所を使い分けることで繁殖の目的を確実に達成するための手段である。受胎率は新鮮精液、冷蔵精液、凍結精液の順に低くなり、道具や設備、技術はこの順に要求が増加する。
5.5.1 人工授精の長所
a)優秀な雄犬の利用効率拡大による改良の促進
1回の射出精液を分配して複数の雌犬に授精することが可能になる。
b)遺伝能力の早期半定
c)伝染性疾患の拡散防止
d)交配業務の簡便化、経費の節約、計画的な授精
e)雄犬の輸送に伴うストレス軽減
f)受胎率の向上
g)時間の超越
5.5.2 人工授精の短所
a)雄犬の遺伝形質が不良な場合また精液中に伝染病の病原体が含まれていた場合、問題を拡散させてしまう。
b)使用する器具の消毒等が不十分であったり操作技術の不備で生殖器の感染による不妊症や伝染病を蔓延させたり、不受胎をまねく。
c)特別な技術者および特殊な道具、設備が必要
d)精液の取引、注入時に不正が行われることがあり得る。また不注意や管理ミスで違う個体の精液が注入される可能性がある。
5.5.3 新鮮精液による人工授精
雄犬あるいは雌犬に交配の障害あり自然交配ができない、雄と雌が遠く離れて飼育されている、1回の射出精液を分配して複数の雌犬に授精することが可能、雄犬あるいは雌犬のどちらかが伝染性の疾病に感染しており接触できないような状況でも受精可能。温度管理、細菌感染などに注意すれば特別な道具や器具はそれほど必要ではなく、技術的にもさほど難しくない。精液の膣内注入で受精可能。子宮外口近くまでカテーテルを挿入することがポイントである。
5.5.4 冷蔵精液による人工授精
新鮮精液での人工授精の適応となおかつ新鮮精液では輸送できない距離で雄と雌が離れて飼育されているような状況で有効。
温度管理に注意を払うことで受胎率は新鮮精液と変わらないといわれている。
精液の膣内注入で受精可能。冷蔵してから3日は受精可能。
5.5.5 凍結精液による人工授精
新鮮・冷蔵精液での人工授精の適応と半永久的に精液を保存できるため雄犬が生存していなくても繁殖できる。一頭の雄犬の子孫を飛躍的に増加することができる。通常精液は液体窒素・(−196℃)の中に保存しておく。保存精液を融解してから精液は4時間ぐらいしか生存していないため、授精の時期を確実に把握することが重要である。膣内注入では受胎率が低いため、子宮内に精液を注入する必要がある。受精の方法は外科的に開腹し子宮内に穿刺して注入する方法と内視鏡を使用して膣から子宮内にカテーテルを挿入し融解した精液を注入する方法がある。麻酔や開腹手術による雌犬の負担、1回の発情における精液の注入が1度しかできない、繁殖犬飼育ボランティアの心情等を考えると後者の方が事業としてすすめていきやすいと思われる。海外では内視鏡を使用して凍結精液の人工授精を行っている施設が何カ所もあり、受胎率が70%ぐらいの成績をあげているところもある。凍結精液の作成、授精ともに特殊な知識、技術、経験、器具が必要になってくる。
5.6 精液の採取
採精する際には発情中の雌犬がいることが望ましい。慣れた雄犬であれば発情雌犬がいなくても採精は可能である。また静かで人の出入りがない場所がよい。採取する前に生理食塩水で包皮内をよく洗浄しておく。射精を促す刺激は陰茎における知覚刺激で、動物種によって違う。たとえば牛や山羊は温度であり、犬は圧覚である。試情雌犬に乗駕して陰茎が包皮からでたときに包皮を尾側にずらし、亀頭球を露出させ圧迫する。さらに亀頭球の尾側方向のねじれる部位を指で採取者の指で締め付ける。精子を含む第二分画は突き運動が終了した頃射出される。突き運動中に採取器具などで陰茎を傷つけないように注意する。新鮮精液で人工授精する場合は第三分画を採取、注入しても問題ない。精液を凍結するときには第二分画のみ採取する。連続して採精する場合、採精頻度は1日おき以上にしない方がよい。1日1回〜2回の採精頻度では4回連続採取後に精子数は最初の半数以下に減少し貯蔵精液を枯渇させることがある。週2〜3回の精液採取が合理的。
5.7 精液性状検査
色調、精子濃度、総精子数、前進運動性、前進運動の早さ、生存率、奇形率などを検査する。これらの検査は温度の影響で評価が変わってしまうので検査時の温度管理に十分注意する。正常な色調はスキムミルクの色から薄いクリーム色の範囲にある。精子濃度は血球計算盤を使用する。第二分画の濃度は0.6〜6.4億/ml、平均2.7億/ml。総精子数は採取量と濃度から計算する。正常範囲は2〜25億、平均15億。前進運動は100倍の顕微鏡下で観察する。前進運動する精子の数の割合で希釈していない精液では75〜90%が正常。前進運動の早さは0〜5段階で主観的に評価する。早いものほどよい。0は全く動かないもので5は最も早く前進するものとする。3〜5の間が正常範囲。生存率は精液をエオジン・ニグロシン染色液で塗沫染色し、顕微鏡下で250の精子を観察する。頭部がピンク色に染色されたものは死滅精子、無色のものを生存精子として全精子数に対する生存精子数の割合をだす。奇形率も生存率で使用した標本を使い、200倍の顕微鏡下で精子の形態を観察する。正常範囲は65〜90%である。
5.8 凍結・冷蔵精液の作成、保存
5.8.1 凍結精液を作成
凍結精液を作成する流れを以下に簡単にまとめた。凍結精液を作成する上で最も重要なことは温度管理である。希釈液の成分、平衡時間はいろいろな方法がある。
犬の場合、トリス希釈液が一般的である。グリセロールを添加するのは凍害を防止するのが目的である。凍害とは凍結するに伴い、細胞内の水分が氷の結晶となり精子の細胞を破壊することである。保管に際しては液体窒素を絶やさないことと、凍結精液がどの犬の精液か、作成日時、精液性状などが明確にわかるようなミスのない管理をおこなうよう注意する。
(1)採精
(2)精液検資:上記の精液検査を行い、精子濃度によって希釈液の添加量を決定する。
(3)一次希釈:検査の結果を基に精液を一次希釈液で希釈する。
(4)一次平衡:希釈した精液を4℃まで冷却ししばらく静置する。
(5)二次希釈:グリセリンの入った4℃の二次希釈液で希釈する。
(6)二次平衡:4℃の状態でしばらく静置する。
(7)4℃の状態で希釈精液をストローに詰める。
(8)凍結:徐々に冷却して凍結する。
(9)液体窒素で保管(−196℃)。
(10)作成した精液を融解して精液性状検査を行う。
冷蔵精液は凍結精液を作成する過程における、一時平衡をした状態の精液。
5.8.2 融解
ストローを70℃の温湯に8秒間つけて融解する方法と38℃の温湯に1〜3分間つけて融解する方法がある。
5.9 授精
確実な授精とは、単純に考えると卵子が受精可能な時期に受精能力がある精子が存在すればよい。この条件を満たす交配の時期に関する要因として1)排卵の時期と卵子の授精保有時間、2)精子が授精部位へ到達する時間、3)精子が受精能力を獲得する時間、4)精子の受精能保有時間である。その状況を把握するために上記の知識と経験、技術が必要になってくる。また精液の状態(新鮮精液、冷蔵精液、凍結精液)によって授精適期の幅が変わってくるので交配日を決めるプログラムに変化がでる。授精適期とは排卵した日から2〜3日目で卵子が成熟した時期である。すなわち、1)雌犬の陰門が発赤、腫大しているピークより収縮しだした時。2)スメア検査では角化細胞中心の時期より中間層細胞が出現しだした時期。傍基底細胞、好中球が出現する1〜2日前、3)陰門から排出される血様分泌液の色が茶褐色、黒褐色になる前日、小麦色になる2〜3日前、4)LHピーク、プロゲステロン値2〜3ng/mlになった4〜7日後、エストラジオールのピークから5〜80日後。上記の適期に受精能力のある精子が卵管に存在していればよいことになる。5)自然交配、新鮮精液の人工授精では精子は生殖器内に4〜7日生存している。確実性を考えた場合、受精能力のある時期を3日ぐらいに設定して交配計画を立てる。6)冷蔵精子は3日生存している。確実性を考えた場合、受精能力のある時期を2日ぐらいに設定して交配計画を立てる。7)凍結精子は4時間ほど生存している。排卵時期の把握が必須条件。
5.10 まとめ
交配を行う上で我々の目的はとにかく受胎する事である。その目的を達成するために上記の知識は必要であるが、施設や都合、仕事の状況、犬の状態によって臨機応変に行うことが肝心である。プロゲステロン値を測定することで授精適期を確実に把握することはできるが経費や採血の手間などながかかる。犬の行動、陰門の状態、膣排出液の色、スメア検査を総合的に観察することでもかなり正確に授精適期を把握することは可能である。たいていの犬は10日から14日の間に1度か2度、自然交配すれば受胎することが多いが、上手くいかないときも多々ある。大事なことは上手く行かなかったとき何が原因でどこを改善したら上手く行くのかを見つけることである。そのためには上記の知識や検査、技術が生きてくる。また目的を達成するための交配の選択肢、手段として自然交配、人工授精(新鮮、冷蔵、凍結)を考えるべきで、凍結精液を使用したからといってすぐにいい犬が増えるわけではない。緻密な繁殖計画とビジョンがベースにあって、初めてこれらの技術が生きてくる。
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