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No.27/36
菱垣新綿番船川口出帆之図(ひがきしんめんばんぶねかわぐちしゅっぱんのず)
 新綿番船とは、大坂周辺で秋にとれた新しい木綿を積み込んだ菱垣廻船によるスピード・レースのことで、江戸十組問屋(とくみどいや)成立の元禄7年(1694)から明治時代初期まで行われました。
 大坂を出帆し、ゴールの浦賀への到着の順番を競ったことから当時は番船を「ばんぶね」と呼んでいました。新綿番船はその順位が賭(か)けの対象となるほど人気を集めた華々しい年中行事でしたが、単なる競走にとどまらず、その年の新しい木綿の値段を決めるという重要な役割もあわせ持っていました。
 船頭達は少しでも早くゴールしようと航海や帆装に工夫をこらしたので、幕末の安政6年(1859)には1着の番船の所要時間が50時間(平均速力7ノット/時速13キロメートル)との大記録も達成されました。
 下の図は含粋亭芳豊(がんすいていよしとよ)作の『菱垣新綿番船川口出帆之図』と題された三枚続きの錦絵で、切手を安治川岸に臨時に設けた切手場に受取りに来た船頭の乗る上荷船(うわにぶね)と、それを見物する多数の屋形船や川岸の群衆のお祭り騒ぎを中央に、右上方に安治川口の天保山(目印山)沖に碇泊する7隻の番船を描いたものです。
 当時のにぎわいが伝わってくるような、臨場感のある錦絵です。
 
含粋亭芳豊『菱垣新綿番船川口出帆之図』 安政期(1854〜9年)の作
 
新綿番船切手渡しの情景(上図の右端中央部分)
 
安治川口に碇泊する新綿番線(上図の右端上方部分)
 
(拡大画面:86KB)
錦絵に描かれている場所
安治川をはさんで、現在の大阪市西区、福島区、此花(このはな)区に相当します。左下方に中之島があり、右上が天保山(目印山)のある川ロとなります。地図は、錦絵に合わせて上が南、下が北に描いてあります。
※破線で囲まれた所が、実際に描かれている部分です。
 
『新綿番船出帆図』
安政期(1854〜9年)の作、安治川ロを出帆し江戸をめざす7隻の新綿番船が描かれています。
 
新綿番船の帆装(上図の中央部分)
左の番船は、船首に弥帆(やほ)・中帆(なかほ)・伝馬帆(てんまほ)をあげ、船尾に艫帆(ともほ)を張っています。右の番船の本帆の脇に張られたのが副帆(そえほ)で、これらの帆装を見ると番船がいかに帆走性能の向上に努めていたかがよくわかります。こうした帆装は、当時導入され始めた洋式船か来航した西欧船の影響とみてまず間違いありません。安政6年(1859)のレースで所要時問50時間、平均速力7ノットを記録した番船は、こうした帆装の船だったのかもしれません。新綿番船は、現代の帆船レースと違って大量の荷物を積んでのレースだっただけに、航海技術の向上に大いに役立ったことでしょう。







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