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No.25/36
さまざまな弁才船(べざいせん)
 今日、千石船と俗称される弁才船は、中世末期から瀬戸内海を中心に発達した商船で、江戸時代前期以降、国内海運の主役として活躍しました。
 弁才船は、細かく見てゆくとさまざまです。例えば大坂から江戸に日用雑貨を運んだ菱垣廻船(ひがきかいせん)は、胴の間(どうのま)に荷物を山積みするために舷側(げんそく)の垣立(かきたつ)が高く、菱垣廻船から分離独立して酒荷を主に運ぶようになった樽廻船(たるかいせん)は重い酒樽を船倉に積むため船体が探くなっているといった具合です。また、地方的な特色のある弁才船も多く、北前船(きたまえぶね)(北前型弁才船)はその代表です。
 明治時代になると、洋式帆船の影響を受けて折衷化(せっちゅうか)した弁才船が登場します。いわゆる合の子(あいのこ)船と呼ばれた船で、こうして弁才船はその後も活躍を続けました。
 
荷を満載した菱垣廻船の復元絵画(画:谷井建三)
 
菱垣廻船の標職とした垣立下部の菱組の格子
 
菱垣廻船(ひがきかいせん)(復元模型) 縮尺1/20
木綿・油・醤油(しょうゆ)・紙・薬などの日用品を、大坂から江戸に運送した菱垣廻船問屋仕立ての商船です。垣立(かきたつ)下部の菱組(ひしぐみ)にした格子(こうし)と高い船尾(艫屋倉)(ともやぐら)が特徴です。この模型は、19世紀前期の図面にもとづいて復元制作したもので、実船は900石積みの大きさとなります。
 
樽廻船(たるかいせん)(復元模型) 縮尺1/5
灘(なだ)、伊丹(いたみ)などの上方産のお酒を江戸に運送した樽廻船問屋仕立ての商船です。従来、酒樽は船倉下部に積む荷として菱垣廻船で輸送されていましたが、海難事故があったときの事故処理の方法に対する酒問屋側の不満から、菱垣廻船より分離独立したのが樽廻船です。船体が深くつくられているのが特徴です。この模型は、江戸時代末期の図面にもとづいて復元制作したもので、実船は1,700石(255トン)積みの大きさとなります。
 
北前船(きたまえぶね)(復元模型) 縮尺1/20
日本海地域のいわゆる北前船(北前型弁才船)は、地方的な特徴を加えた弁才船の1つで、船首尾(せんしゅび)の反り(そり)が大きく一目で他の弁才船との区別がつきました。胴の間を幅広くふくらませていたので、実際の積石数は計算積石数を上回りました。この模型は、江戸時代末期の図面にもとづいて復元制作したもので、実船の計算積石数は1,000石ですが、実積石数は1,500石(225トン)に達していたと思われます。
 
合の子(あいのこ)船(復元模型)縮尺1/20
合の子船とは和洋を折衷(せっちゅう)した帆船のことで、西洋型帆船が導入された幕末に出現します。明治時代を迎えて、政府の帆船の欧化政策(おうかせいさく)にもかかわらず、経済性と実用性に優れ、建造費も安価な合の子船が盛んに使われました。この模型は、スクーナー式の帆装を採用し舵を洋式化した明治30年代の合の子船で、実船は1,000石(150トン)積の大きさとなります。







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