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No.24/36
淀川(よどがわ)の川船(かわぶね)と川御座船(かわござぶね)
 江戸時代の物資輸送をになったのは船です。重さの割に安い物を大量に輸送する手段として、陸上を運ぶよりも経済性と能率の点で船のほうがはるかに優れていたからです。従って、船を通りやすくするための川の整備が各地で盛んに行われ、大きな川だけでなく今では思いもよらないような小さな川や内陸部まで船が行き交っていました。
 海で使う船は江戸時代の中ごろに弁才船(べざいせん)と呼ばれる荷船の仲間にほぼ統一されましたが、川で使う船はそれぞれの川の条件が同じでないために、1つの型の船が全国の川に普及することはありませんでした。喫水(きっすい)が浅く、平底の細長い船体と、簡単な造りくらいが共通点といえます。
〔淀川の川船〕
 淀川は、大坂−京都間の物資輸送の大動脈で、大坂周辺の河川交通路として重要な役割を果たしました。淀川の川船を代表する過書船(かしょぶね)とよばれた川船は喫水が浅い平底の船(ひらたぶね)の一種で、左右の舷側(げんそく)の板を先端で接合した二枚水押(にまいみよし)とよばれる形式の船首をした船でした。
 なお、過書船のなかでも乗合船として大坂と伏見の間を1日2回定期的に上下した、人乗(ひとの)せ三十石船は乗客30人ばかりの客船で、小説や落語などにも三十石や三十石船の名で登場するのでとりわけ有名です。
 
伏見(ふしみ)の京橋(きょうばし)
京橋は伏見における人乗せ三十石船の発着地の一つで、上り・下りの旅人でにぎわいました。文久元年(1861)刊の「澱川両岸一覧(よどがわりょうぎしいちらん)」より
 
大坂の八軒家(はちけんや)
八軒家は大坂における人乗せ三十石船の発着地の一つです。船宿や商屋が軒を並べ、今しも船着場からは三十石夜船が出発せんとしています。文久元年(1861)刊の『澱川両岸一覧』より
 
淀川を曳かれて(ひかれて)のぼる人乗せ三十石船とくらわんか船
人乗せ三十石船に小船が接舷しています。これが、「飯くらわんか、酒のまんか」などとわめきたてて、酒や食べ物を売った有名な枚方(ひらかた)のくらわんか船です。両岸の都合9ケ所に、船を曳くための綱引道が設けられていました。『澱江風物図巻(よどこうふうぶつずかん)』より
 
〔川御座船〕
 将軍や大名が、川で用いる御座船を川御座船といいます。水軍の主力艦をあてる海御座船と違って、川御座船には軍船としての機能はなく、淀川の過書船と同じ系統の川船に、大きくて豪華な屋形を設けて用いられました。大型の川船にしては珍しく帆の設備がなく、船を進めるには櫓(ろ)と棹(さお)を使用しました。幕府や、中国・四国・九州地方の大名が大坂に置いた川御座船は、朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)や琉球使節(りゅうきゅうしせつ)の送り迎えにも使われたため、船体・屋形ともにとりわけ豪華に装飾されていました。
 
金沢貞友による宝暦3年(1753)の川御座船の図面
川御座船を得意とした大坂の船匠、金沢氏の図面だけあって、屋形の細部までていねいに描かれています。縮尺1/1O。
 
川御座船(復元模型)縮尺1/20
18世紀中期の金沢氏の図面に基づいて、復元制作した川御座船の模型です。
 
(拡大画面:111KB)
川御座船の説明図







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