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2.日本における海難の実態
2.1 海難統計
 海難という言葉は、個別法令の定義や行政機関の統計上の用語として多義的に使用されている。例えば、海難審判法に定める海難の発生(第二条)とは、「一 船舶に損傷を生じたとき、又は船舶の運用に関連して船舶以外の施設に損傷を生じたとき。二 船舶の構造、設備又は運用に関連して人に死傷を生じたとき。三 船舶の安全又は運航が阻害されたとき。」であると定義されている。また船員法第一九条(航行に関する報告)には、その第一号で海難の例示として、船舶の衝突、乗揚、沈没、滅失、火災、機関の損傷を挙げている。
 一方、海難救助規則(昭和56年3月31日海上保安庁訓令第15号)では、海難とは、「海上における船舶又は航空機の遭難その他の海上において人命又は財産に被害を生じ、又は生ずるおそれのある事態であって、保護を必要とするものをいう。」となっている(第二条)。また海上保安統計年報の救難統計等の前提となる調査における海難は、「イ 船舶の衝突、乗揚げ、火災、爆発、浸水、転覆、行方不明。ロ 船舶の機関、推進器、舵の損傷、その他船舶の損傷。ハ 船舶の安全が阻害された事態。」と定義されている(海難調査実施要領)。さらに運輸省が所管する海難統計における海難とは、海難統計調査規則(昭和24年5月30日運輸省令第16号)の第三条第一項に、「一 船舶の衝突、乗揚、沈没、滅失、火災又は機関の損傷があったこと。二 船舶の積荷を投棄し、又は流失したこと。三 船舶の構造、設備又は運用に関連して人に死傷を生じたこと。四 その他船舶に損傷を生じたこと。」と規定されている(但し、同規則は昭和46年に廃止された。)。
 海上保安庁の統計資料5によると、我が国における海難(台風や異常気象に伴うものを除く)は、隻数ベースでは年間2千数百隻で推移している(図1参照)。また、死亡・行方不明者数は、平成8年までは年間200名をはさんで推移していたが、ここ数年は百数十名まで減少している。
図1 海難船舶隻数と死亡・行方不明者数の推移
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 海難を種類別にみると(表1参照)、衝突がもっとも多く、平成12年では全体の約37%を占めている。続いて、乗揚が約14%、機関故障が約12%、推進器障害が約7%、転覆が約7%、火災が5%、浸水が4%の順になっている。
 
(単位 隻数)
  H3 H4 H5 H6 H7 H8 H9 H10 H11 H12
衝突 1214 1079 1105 1041 1119 1142 998 925 972 1051
乗揚 398 379 339 373 383 313 333 355 372 413
転覆 218 185 200 161 131 155 145 172 148 197
火災 99 119 114 136 96 134 98 107 110 135
爆発 6 3 3 4 1 4 4 3 3 2
浸水 114 100 84 105 124 89 70 100 90 116
機関故障 285 208 247 224 237 264 264 268 315 348
推進器障害 147 142 123 118 121 127 140 128 126 205
舵故障 18 17 16 15 22 25 21 23 39 24
行方不明 7 3 1 2 2 3 5 3 3 9
その他 228 236 208 225 253 244 242 232 277 355
2734 2471 2440 2404 2489 2500 2320 2316 2455 2855
表1 海難原因発生状況
 これらの海難の種類については、統計資料6の中で次のように定義されている。
・衝突:航行中の船舶が、航行中もしくは停泊中の他の船舶または流氷、流木、岸壁、さん橋等に接触し、突き当たり、船体もしくは積荷に損傷を生じ、または死傷者を生じたことをいう。
・機関故障:航行中に推進機関、その付属装置、発電機等の補機が故障し、または燃料系統(燃料タンクの破損による燃料欠乏を含む。)、空気系統、電気系統が損傷し、運航に支障が生じたことをいう。
・乗揚:船舶が陸岸、岩礁、浅瀬、捨石、沈船等水面下にあって、大地に固定しているものに乗揚げ、または底触して運航に支障が生じたことをいう。
・推進器障害:推進器および軸系のうち、船外に突きだした部分が脱落し、もしくは破損し、または漁網、ロープ等を巻いたため航行に支障が生じたことをいう。
・転覆:外力の影響が復元力を超え、または積み過ぎ、荷崩れ、浸水、転舵等のため復元力を失い、ほぼ90度以上傾斜して復元しないことをいう。
・浸水:船外から海水等が浸入し、航行に支障が生じたことをいう。
 
 次に、海難船舶を用途別にみると(図2参照)、平成12年にプレジャーボート等の海難の隻数が漁船のそれを抜いてワーストワンとなった。
図2 海難船舶の用途別隻数の推移
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 その背景には、近年のマリンレジャーブームがあり、マリンレジャー愛好者の基本的知識や技能の不足等といった人為的要因が、海難の主たる原因となっている。ちなみに平成11年度末で、モーターボート・ヨット・水上オートバイなどのプレジャーボートの数は45.5万隻を超え((財)日本海洋レジャー安全・振興協会および日本小型船舶検査機構資料に基づく日本舟艇工業会推計)、小型船舶操縦士の海技免状受有者は約288万人に達している(運輸省海上技術安全局船員部船舶職員課)。貨物船やタンカー等の海難の隻数は、プレジャーボート等や漁船に比べると少ないものの、船舶の大きさや積荷の種類によっては大規模海難に発展することもある。
 海難の発生場所を距岸別にみていくと(図3参照)、平成12年度に発生した海難の約79%が陸岸に近い海域(港内や距岸3海里未満)に集中していることがわかる。このような海域で発生した海難には迅速な救助活動が期待できるが、輻輳海域の場合は海上交通に与える影響や環境に対する被害は大きくなる。
図3 距岸別海難の推移
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 一方、総トン数1000トン以上の比較的大きな船舶の海難について、日本船舶と外国船舶の割合でみると(図4参照)、近年は7割前後が外国籍の船舶で占められていることがわかる。
図4 総トン数1000トン以上の海難船舶の国籍別割合
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 本邦に入港する外国船舶の中には、我が国の気象・海象等の自然現象、輻輳海域における航法や航行安全指導等を熟知していない船員が乗船しているものもあり、航行安全上必要な海図の備え付け等の不備もみうけられる。我が国で行う特定海域の船舶通航実態調査では国籍別に分類したデータは存在しないが、例えば東京湾海上交通センターで把握している浦賀水道における管制船(法定対象船舶)・行政指導船(法定対象船舶を除く総トン数10000トン以上の船舶)の通航隻数をみると(図5参照)、大型船については我が国の内海といえども外国船舶の通航比率が高いことがわかる。
図5 浦賀水道における管制船・行政指導船通航隻数
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2.2 海難事件のケーススタディ
2.2.1 油送船ダイヤモンドグレース乗揚事件7
<事実関係>
 ダイヤモンドグレース号(以下、「ダ号」という。)は、ペルシャ湾と本邦間との原油輸送に従事する便宜置籍・混乗船で、甲船長ほか日本人4名とフィリピン人20名が乗り組み、原油約257042トンを積載し、船首19.39メートル船尾19.85メートルの喫水をもって、平成9年6月14日02時(現地時刻)アラブ首長国連邦ダスアイランド港を発し、京浜港川崎区の川崎シーバースに向かった。
 7月2日09時頃、剱崎灯台沖できょう導に就いた乙水先人は、これまでに喫水18メートル以上の船舶をきょう導したのはダ号を含めて8隻であったが、そのうち中ノ瀬西側海域を航行するのはダ号で2隻目で、中ノ瀬航路の水深とダ号の喫水との関係から、同航路の北上を断念した。
 ところで、乙水先人は、東京湾中ノ瀬A灯浮標とB灯浮標を結ぶ直線が355度で、同線から20メートル等深線が西方に約200メートル張り出していることも、20メートル等深線がダ号にとって浅所になることも知っており、また甲船長は、この事情を具体的には知らなかったものの、前示張出し部西端の東方近くには水深13メートルばかりの浅いところが存在することを認識していた。
 09時17分頃、乙水先人は浦賀水道航路に入航し、09時58分頃、左舷船首5度2750メートルばかりに南下中の船舶を認めたとき、同船の船尾方に向けて左転し得る状況となったが、同一針路のままでも中ノ瀬西側海域における制限水域の影響をうけないまま何とか同浅所をかわして北上できるものと思い、同船に後続して南下中の2隻の船舶にも気をとられ、速やかに左転を命じるなどして針路を適切に選定することなく進行した。
 このころ甲船長は、自らの予定針路である349度から右偏し、中ノ瀬西端付近の水深約13メートルの浅所に接航する針路となったまま航行していることを認めたが、付近海域の状況を熟知している乙水先人に操船を任せておけば大丈夫と考え、同人に左転して同浅所を離す針路とするよう要請しないまま、機関制御室との電話連絡などにあたっていた。
 10時02分頃、乙水先人は機関の回転数を極微速力前進に落とすよう甲船長に伝え、きょう導を始めてから自ら舵角指示器を確かめず、甲船長などからの情報も得られないまま、東京湾中ノ瀬A灯浮標に並んだころからダ号が海底傾斜の影響を受け、船体が左舷側に吸引され、かつ、船首が左回頭モーメントを受けることにより、操舵手が左転を抑えようとし、舵を右舵一杯に繰り返しとって保針に努めていることにも、ダ号が更に浅所に寄せられる進路となって進行していることにも気付かず続航中、10時04分第2海堡灯台から339度6100メートルばかりの底質砂混じりの泥の浅所にほぼ原針路、原速力のまま、右舷船首部船底が乗り揚げた。乗揚の結果、1番右舷タンク船底部にき裂、2番と3番各右舷タンクに凹損をそれぞれ生じ、原油約1400トンを流出させた。
 当時、天候は晴で風力5の南西風が吹き、潮候は上げ潮の初期で、潮高は約50センチであった。
 
<原因>
 海難審判の裁決では、制限水域における浅水影響と側壁影響、東京湾中ノ瀬西側の海底傾斜やその影響、乗揚回避の可能性について検討した後、本件乗揚は、京浜川崎シーバースに向け、東京湾の中ノ瀬西側海域を北上する際、針路の選定が不適切で、中ノ瀬の20メートル等深線西端付近の浅所に近寄る針路で進行したことに因って発生したものであるとした。運航が適切でなかったのは、船長が水先人に中ノ瀬西端付近の浅所を離すよう要請しなかったことと、水先人が同浅所から離れる針路にしなかったこととによるものである。
 
<考察>
 中ノ瀬は、第2海堡の北方約2海里のところを南端部とし、北方へ約4海里、東西約1.5海里にわたり、20メートル等深線が楕円状をした海域で、その東側に水深21メートルとなった中ノ瀬航路が隣接している。中ノ瀬の中には、水深15メートル以下の浅所が散在し、中ノ瀬の最浅部は水深12メートルになっており、錨かきの良い好錨地である。中ノ瀬西側の海域は、湾奥部の港から浦賀水道に入航する船舶、横浜港に出入港する船舶、中ノ瀬航路を航行できない深喫水船等の進路が複雑に交差する輻輳海域である。
 本乗揚事件では、第三管区海上保安本部、運輸省第二港湾建設局、地方公共団体等が流出油処理作業にあたり、同月4日午後9時30分頃に作業を終了したが、その後、関係各方面では次のような事後措置をとっている。
 まず運輸省は、省内に「東京湾等輻輳海域における大型タンカー輸送の安全対策に関する検討委員会」を設置して、外航タンカーのダブルハルタンカーへの代替の促進、東京湾南航船の航行経路の指導の徹底、東京湾北航船の航行経路の指導、東京湾海上交通センターにおける監視指導強化、中ノ瀬西側海域の南航船と北航船の整流方法についての航行安全対策、航路標識の改善等についての航行環境の整備、訓練や研修等を含めての水先の安全対策、防除資機材の配置や活用体制の見直し等の検討結果を公表した。また、中・長期的施策としては、シングルハルタンカーの座礁事故時における油流出量低減策等の船舶の構造要件、中ノ瀬航路の浚渫工事完了後の航行安全対策、航行環境の整備としての中ノ瀬航路の浚渫工事や浦賀水道航路西側にある第3海堡の撤去工事の推進、油防除手法の研究・同体制の強化、東京湾等特定水域を航行する大型シングルハルタンカー抑制措置の可否を含めた方策の検討等を挙げている。
 海上保安庁は、「東京湾等輻輳海域における大型タンカーの当面の航行安全対策の徹底について」(平成9年7月11日)と題する文書を発し、海上交通安全法等における航法や講じるべき安全対策を再確認し、その励行を図ること、浅瀬等が存在する海域の航行にあたっては、レーダー等を有効に利用して船位の確認に努めること、適切な避険線を設定して安全な離隔距離の保持に努めること、船長と水先人との間で航行経路等について十分な打ち合わせを行って意思の疎通を図ること、進路警戒船等の適正かつ有効な運用を図ること等を指示した。これを受けて第三管区海上保安本部は、「大型タンカー等の航行安全対策の徹底について」(平成9年7月14日)と題する文書を発し、各関係先に指示した。
 一方、社団法人日本船主協会では、「タンカー輸送の総合的安全対策について」と題する文書で、輻輳海域における適切な航海当直体制、東京湾等船舶輻輳海域航行の際の適切な航法や講じるべき安全対策等について再確認し、ISMコードを速やかに実施することとした。ISMコードは、船舶に限らず会社の管理部門も対象とした船舶安全運航と汚染防止のための国際安全管理コード(International Management Code for the Safe Operation Ships and for Pollution Prevention-International Safety Management)で、安全および環境保護の方針並びに証書、検証および監督等の各項目をもって構成され、船舶の安全運航や環境保護に関する安全管理のシステム(SMS: Safety Management System)を明文化している。ISMコードは、海上における人命の安全のための国際条約(International Convention for the Safety of Life at Sea;以下、「SOLAS条約」という。)に基づき、平成10年7月から国際航海に従事する旅客船及び総トン数500トン以上の油タンカー等に対し、同コードの内容が強制化され、船舶検査の一環としてISMコードの検査は実施されている。さらに荷主としての石油業界の一部が、ISMコードが強制されない内航船舶についても用船の条件として第三者により認証されたISMコードの取得を求めるようになり、内航海運事業者から同コードと同等の認証を取得したいとの要望が強くなったのを受けて、運輸省(当時)は船舶安全法施行規則の規定によりISMコードを強制される船舶以外の全船舶を対象として、「任意によるISMコードの認証」の付与制度を運輸省告示「船舶安全管理認定書等交付規則」で定め、平成12年7月7日告示し施行した。
 そのほか、社団法人日本パイロット協会では、「大型危険物積載船の航行安全対策について」(平成9年8月5日)と題する文書を、また社団法人日本船長協会では、「東京湾におけるNYK大型タンカーの安全航法等に関する調査検討委員会報告書」を作成し、今後の安全対策や提言等をまとめている。
 我が国の港湾や沿岸における船舶交通の輻輳海域では、船舶相互の衝突や他船避航等による乗揚などの事故が懸念されることから、潜水艦なだしお遊漁船第一富士丸衝突事件を契機として、社団法人日本海難防止協会において東京湾の安全に関する研究8が行われた。その中で、東京湾の航路体系は、横浜航路に向かう船舶を中ノ瀬経由として、中ノ瀬西側海域の航行危険度を軽減しようと試みた準環流方式のほか、環流方式、右回り方式などが検討され、右回り方式は船舶交通の大原則である右側通行に反することなど、船舶交通に大混乱を生じさせるため検討はしないことに決定したが、右回り方式を除くと、いずれも利点と難点とが混在して、提案を一つの方式に絞ることができなかった。
 また社団法人東京湾海難防止協会では、平成3年度に東京湾の「航路体系調査検討会」を設置して、航行環境の整備が進捗していない現段階において準環流方式による航路体系を採用することは、中ノ瀬航路出航船の横浜航路沖での横切り見合い関係の増加と、大角度避航の困難性・危険性等の新たな問題が生じることとなり、実務的には現状の通航方式が安全かつ良策であるとの結論を得ている。
 一方、航行安全の観点から、海のITS等のソフト施策と内海航行のボトルネックを解消する国際幹線航路の整備や国際港湾の整備等のハード施策とを有機的に組み合わせることにより、船舶航行の安全性と海上輸送の効率性を両立させた海上交通システムである「海上ハイウェイネットワーク」を構築するための検討が、社団法人日本海難防止協会において4つの委員会を設置され平成13年度から開始された。まず「東京湾船舶交通体系委員会」では、既存の船舶航行実態データや統計資料等をもとに、東京湾の航行環境の現状を整理し、東京湾口航路整備事業の終了する平成19年度以降の東京湾での新しい交通体系案を提示するとともに、交通体系導入による効果検証のための評価手法等について検討する。「東京湾管制制御システム委員会」では、東京湾海上交通センターによる湾内の航路管制と港内交通管制室による航路管制との連携手法等について検討し、航路管制船舶等がノンストップで東京湾内を安全かつ効率的に航行できるような方策を提言する。「東京湾リスク・アセスメント委員会」では、大型タンカーやLNG船等の大型危険物積載船の事故発生の危険因子等を特定するため、輻輳海域における大規模海難をレビューし、被害予測に関わる影響評価手法等の検討を行う。最後に「海上インシデント・データバンク委員会」では、海難の卵ともいうべき海上インシデント(ヒヤリ・ハット等、海難には至らなかったが、その結果として航行の安全に影響する事象または影響するおそれがあった事象)を分析し、その背後にある危険因子を突き止める。これらの委員会では、海事関係者や学識経験者等からなる委員により、東京湾をモデルケースとした航行安全上の基本方針をまとめていく。
2.2.2 貨物船千年丸貨物船ソーラー・ウイング貨物船とよふじ丸貨物船トーヨー8衝突事件9
<事実関係>
 貨物船千年丸(総トン数495トン、全長68.90メートル、日本船籍、船尾船橋型、喫水:船首1.90メートル船尾3.20メートル)は、空倉のまま、平成元年8月3日午後3時50分京浜港東京区品川ふ頭を鹿島港に向け発し、同5時42分頃浦賀水道航路第5号灯浮標(以下、灯浮標名には番号のみを付す)の右舷側約100メートルを航過して、X(三級海技士(航海)免状)は一等航海士の操舵のもと、針路を145度にするよう左転しながら全速力前進約10ノットの対地速力で浦賀水道航路(以下、事実関係においては「航路」という。)に入った。
 自動車運搬船ソーラー・ウイング(総トン数41604トン、全長187.03メートル、パナマ船籍、船首船橋型、喫水:船首7.07メートル船尾8.07メートル、以下「ソ号」という)は、自動車4028台を載せ、同日午後5時20分横須賀港新港ふ頭新港1号岸壁を千葉港に向け発し、Nのきょう導のもと(船長及び三等航海士在橋、甲板手操舵)、同5時38分頃機関を約12ノットの港内全速力前進にかけ、H旗と行先信号の第一代表旗の下にC旗をそれぞれ掲げ、徐々に加速しながら横須賀港南第5号及び同第三号灯浮標沿いに進行した。そのころNは、第5号灯浮標の北方に航路に向かって南下中の千年丸を初認し、これに巨大船アンドロス・アリエス(以下「ア号」という)が後続していたから、ア号の水先人に前路を横切りたい旨トランシーバーで連絡し、同5時39分半頃わずかに増速した。またソ号は離岸時に使用した引船浦賀丸を左舷側に、同荒崎丸を右舷側に伴走させ、浦賀丸から東京湾海上交通センターに対して位置通報を行わせたところ、折り返し小型の南航船が続いているので注意して航行するよう情報の提供を受けた。同5時41分頃Nは、横須賀港西防波堤灯台から55度約900メートルの地点に至り、航路をほぼ直角に横断するつもりで針路を60度に定め、潮流の影響でわずかに左方に圧流されながら約11.5ノットの対地速力で進行した。
 自動車運搬船とよふじ丸(総トン数1674トン、全長96.90メートル、日本船籍、船首船橋型、喫水:船首4.38メートル船尾5.95メートル)は、自動車461台を載せ、同日午後5時京浜港横浜区第5区トヨタふ頭を塩釜港向け発し、Y(一級海技士(航海)免状)は一等航海士を補佐に、甲板手を操舵につけて進行中、同5時42分頃、第5号灯浮標の手前約270メートルのところで針路を145度に転じたのち航路に入り、若干増速して折からの逆潮流に抗し、14ノット弱の対地速力で、航路をこれに沿って南下した。貨物船トーヨー8(総トン数1044トン、全長80.09メートル、パナマ船籍、船尾船橋型、喫水:船首4.50メートル船尾4.88メートル)は、マグネサイト約2000トンを積載し、同日午後3時千葉港葛南区船橋を岡山県片上港に向け発し、Zは一等航海士を操舵につけて進行中、同5時42分頃、第5号灯浮標の右舷側約400メートルを航過して針路を145度に転じて航路に入り、これに沿って約10ノットの対地速力で進行した。
 同日午後5時45分頃、千年丸の左舷正横約220メートルにトーヨー8が並航し、千年丸とソ号は方位に明確な変化がないまま互いに1.3海里に接近したが、Xは警告信号を行うことなく、むしろ左舷後方から並航する態勢で接近しつつあるとよふじ丸を先行させるつもりで、同5時46分頃機関の回転を約5回転減じて進行した。一方、Nは航路内を航行する千年丸、とよふじ丸、トーヨー8とは、いずれも明確な方位の変化のないまま接近する状況にあることがわかったが、ア号の水先人の進言によりア号の後方を通過することとしたものの、なおも三船の前方は通過できるものと思い、避航措置はとらなかった(この時点でソ号船長は千年丸との方位変化がほとんどない旨をNに告げるとともに、千年丸に対して汽笛による短音を連吹した)。このころYは、ソ号に伴走する浦賀丸からVHFにより「貴船の前方をソ号が横切るので減速してほしい」旨の要請を受けたので、不本意ではあったがこれを承諾し、同5時46分頃とよふじ丸の機関を約8.5ノットの半速力に減速し、さらに約6.5ノットの微速力まで減速した。
 同日午後5時47分頃、千年丸の左舷正横約70メートルにとよふじ丸が並航し、千年丸は風潮流の影響と針路を左方に寄せないようにしたことで少しずつ西方に偏位し始め、同5時48分頃航路西側境界線上を航行し、次第に同境界線から外側へ離脱するようになった。Xは船位を確認しないまま、第三海堡灯標を右舷船首方に見ているので、当然航路内をこれに沿って進行中であると思い、またソ号が依然避航の様子を見せないまま約900メートルに接近していたものの、自船を含む三隻が相前後して航路航行中でその前路を横切るとは思えなかったから、なおもソ号の避航を期待し、自ら大幅に減速するなどして衝突を避ける協力動作をとることなく、原針路、原速力で続航中、とよふじ丸が減速して徐々に後方に下がり出したのを認めた。このころNは、様子をみるためソ号の機関を約7ノットの極微速力に減じ、針路を70度に転じた。
 同日午後5時49分半頃、Xはソ号が右舷船首方約200メートルに接近したとき、ようやく衝突の危険を感じたが、左舷側に後続するとよふじ丸がいて左転できないので、直ちに機関停止、全速力後進としたが及ばず、同5時50分頃第二海堡灯台から252度約1800メートルの、航路西側境界線から約70メートル外側の地点でソ号と衝突し(以下「第一衝突」という)、続いて同5時51分頃同地点から東方約180メートルの航路内において、千年丸の左舷船首部にとよふじ丸が右舷船首部が衝突した(以下「第二衝突」という)。一方、Nは同日午後5時48分頃衝突の危険を感じ、機関停止に続いて後進、右舵一杯を令したが及ばず、千年丸と前示のとおり衝突し(第一衝突)、さらに同5時51分半頃同地点から東方190メートルの航路内でとよふじ丸と衝突した(以下「第三衝突」という)。またYは同日午後5時49分頃先航する千年丸とソ号との衝突を感じ、機関停止に続いて後進、左舵一杯を令したが、とよふじ丸の機関が後進にかからぬまま、同5時51分頃千年丸と衝突し(第二衝突)、さらに同5時52分半頃第二海堡灯台から248度約1480メートルの地点でトーヨー8と衝突した(以下「第四衝突」という)。またZは同日午後5時50分頃第一衝突を認め、危険を感じてトーヨー8の機関を後進に令したが、前示のとおりとよふじ丸と衝突した(第四衝突)。
 衝突の結果、各船は損傷したが航行に支障はなく、死傷者はなかった。当時、天候は曇で、風力3の東風が吹き、潮候は上げ潮の末期で、約1ノットの北西流があった。
 
<原因>
 航路を横断しようとするソ号と航路航行中のとよふじ丸及びトーヨー8との関係では、海上交通安全法第三条第一項の適用を受け、ソ号は、とよふじ丸及びトーヨー8に対して避航義務を課せられることには疑いがない。
 次にソ号と千年丸との関係は、両船における見合関係の成立が衝突の約7分前、衝突のおそれの判断が衝突の約5分前で、このときは千年丸が航路をこれに沿って航行中であり、その後同船は針路、速力を保持するも同航するとよふじ丸や潮流の影響でわずかずつ右方に寄せられ、衝突の2分前頃から境界線を超えて航路外に出たものであることは事実で認定したとおりである。この場合、両船がともに航路外を航行中に衝突しているものの、千年丸が航路航行中には海上交通安全法第三条第一項の適用を受けてソ号が避航義務を負い、千年丸が航路を外れた瞬間に海上衝突予防法第一五条により千年丸に避航義務が移るということにはならず、また、仮にソ号が千年丸に対して針路・速力保持船としてこれを保持すれば、必然的にとよふじ丸及びトーヨー8の前路に進出することになり、これら航路航行中の二船を避航できないから、両船間に海上衝突予防法第一五条の適用は妥当でない。
 さらに、衝突のおそれを判断したのちのソ号において避航措置をとるべき時機は千年丸が航路を外れる以前であってしかるべきこと、換言すればソ号の避航措置は千年丸が航路を外れてからでは遅きに失することから、本件の場合、海上衝突予防法のいう船員の常務で律するのも適当でなく、あくまで海上交通安全法第三条第一項により、ソ号において、千年丸の進路を避けるべきであったとするのが相当である。
 次に、第一衝突後の千年丸ととよふじ丸、第一衝突後のソ号と第二衝突後のとよふじ丸及び第三衝突後のとよふじ丸とトーヨー8との衝突は、いずれも航路内で発生しているが、これら各船間の関係は、海上交通安全法に規定する航法に該当しないから、同法を適用する余地はなく、かかる特殊な状況下のものは、海上衝突予防法でいう船員の常務で律すべき場合である。
 以上、本件多重衝突は、浦賀水道航路を横断しようとして東行中のソ号において、同航路をこれに沿って南下中のとよふじ丸及びトーヨー8並びに同航路内を両船に接航するうち同航路西側境界線をわずかに外れて南下する千年丸の各進路を避ける措置が遅れたことに因って発生したが、千年丸における衝突を避けるための協力動作及びとよふじ丸における衝突を回避する措置が、ともに遅きに失したこともそれぞれその一因をなすものである。
 
<考察>
 この事件は海上交通のふくそうする東京湾の浦賀水道航路において発生したもので、しかも四隻の船舶がかかわる多重衝突事件ということもあり、二次災害の発生あるいは死傷者こそでなかったものの社会的反響は大きかった。また事件の発生した時刻は浦賀水道航路の南航ラッシュ時であったことから、翌月には概ね総トン数1万トン以上の船舶は浦賀水道航路の夕刻の船舶交通のふくそうする時間帯に同航路を横断し、又は横切るような航行を自粛するという再発防止策が打ち出された10。衝突が発生した海域の浦賀水道航路の航路幅は片側700メートルであり、船舶が安全に航行するために必要な最小限の可航幅は確保されているものの、ラッシュ時に大小様々な船舶が一団となって入航あるいは並航した場合、無理な操船を継続すれば所謂「はみ出し現象」が生じることもある。
 事実認定において、とよふじ丸とトーヨー8は航路内をこれに沿って航行していたものと判断され、航路を横断しようとしていたソ号は、原則として海上交通安全法第三条第一項の規定にしたがって避航義務が課せられる点について基本的に問題はない。第一義的に検討の対象となるのは、衝突の約2分前(ソ号との距離約900メートル)に航路の境界線から外側に離脱した千年丸と、航路を横断しようとしているソ号との関係であり、まず特別法たる海上交通安全法の航法規定から論じていく。
 海上交通安全法は航路における一般的航法として、航路外から航路に入り、航路から航路外に出、若しくは航路を横断しようとし、又は航路をこれに沿わないで航行している船舶(漁ろう船等は除く)は、航路をこれに沿って航行している他の船舶と衝突するおそれがあるときは、当該他の船舶の針路を避けなければならないと規定している(第三条第一項)。この条文のなかで事件に関連する法律要件は、(一方の船舶は航路を横断しようとしている)、(その船舶は漁ろう船等ではない)、(他の船舶は航路をこれに沿って航行している)、(両船は衝突するおそれがある)の四つであり、これらの法律要件を満たした場合にのみ、一方の船舶に他の船舶の進路を避ける義務が課せられることになる。したがって本条文の法律効果を発生させるためには、遅くとも千年丸が航路内にいた衝突約2分前よりも以前の段階までに四番目の法律要件である「衝突するおそれ」が生じる必要がある。
 この点について裁決では、ソ号と千年丸の関係における見合関係の成立が衝突の約7分前(午後5時43分頃)、衝突のおそれの判断が衝突の約5分前(午後5時45分頃)で、両船とも明確な方位の変化のないまま互いに約1.3海里に接近する状況にあり、その時点では千年丸は航路をこれに沿って航行中であったと事実認定している。したがって衝突を回避するための航法が成立する時機には千年丸は航路内を航行しており、この時点で海上交通安全法第三条第一項の法律効果を発生させる四つの法律要件は満たされていたことになる。但し、「衝突するおそれ」を判断するための法律要件については海上交通安全法に規定されていないので、基本的には海上衝突予防法第七条(衝突のおそれ)の規定に基づくことになるが、そこでは「衝突のおそれ」の画一的な定義は明示されておらず、もっとも基本的な判断方法や手段を例示しているにすぎない(「衝突のおそれ」の概念については後述する)。
 そもそも「衝突のおそれ」の判断というのは、海上衝突予防法第七条第四項を見るかぎり、当事者間の継続した見合い関係において連続的あるいは断続的に複数ありうるのか、それとも個々具体的な二船間の見合い関係において避航すべき時機の一種の目安として特定の時刻に客観的に確立されたものかという基本的な問題はあるものの、法の趣旨や裁決に基づくと後者の考え方が妥当する。したがって本事件の見合関係の場合、すでに「衝突のおそれ」は衝突約5分前に事実認定されているため、千年丸が航路の外側に出た衝突約2分前の段階では二船の衝突の蓋然性が相当高くなっており、まさに「衝突の危険」のある状況になっていたものと思われる。このことは千年丸が航路の外側に出た時機に、ソ号側において衝突の危険を感じていたことからも判断できる。
 すなわち千年丸が航路の外れた時機においては、すでに両船は海上衝突予防法第一五条の法律要件を満たすような状況にはなく、裁決が示すような「衝突のおそれ」を前提とする同条文の適用の妥当性を判断する必要はないと思われる。換言すれば、「衝突のおそれ」を前提とした航法の適用については、衝突約5分前の段階をとらえて海上交通安全法第三条第一項の法律効果を発生させるための法律要件の一つとしてすでに認定されているために、その後の航法関係においては、少なくとも個々具体的な航法関係において一意に定まった「衝突のおそれ」を前提とする海上衝突予防法第一五条の問題は生じてこないことになる。
 但し法律論としては、事後的な事実認定過程において注意深い船長が注意していたとすれば判断可能であったとする「衝突のおそれ」の発生時機(当事者たるソ号や千年丸の船長の主観的判断ではない)が確定できるが11、実践的な場における法適用の立場からは、「衝突のおそれ」とは単に他船との明確な方位変化がない場合のみをとらえているのではなく、ある程度両船が接近した場合を成立要件としているため、その距離の合理的な解釈によっては、両船の船長の判断時機が個々具体的な状況のもとで多少ずれることもあり得ることも考慮しなければならない。








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