VIII−2.沿岸域の総合管理―法制度の側面から―
横浜国立大学大学院 国際社会科学研究科 来生 新
はじめに
本稿は沿岸域の管理に関する法制度の現状分析をすることを主たる目的とする。本稿の分析に入る前に、「沿岸域の管理」と「沿岸域の総合管理」という概念の意味を定義しておこう。
海は海面と海水と海底からなる空間である。海のこのような立体的な性格は、海面の利用と、海面から海底までの空間利用と、海底の利用とを、同時に非排他的に行うことを可能にする。これが土地と海の利用方法のもっとも大きな違いであることは一般に指摘されることである。
沿岸域においてはさまざまな人間の活動が営まれている。それらの活動の中には、漁業権漁業に代表されるように一定の海域の排他的な利用を前提とするものがあり、排他性を前提としない利用であっても、水上バイクと遊泳のように、同一平面ないしは同一空間の同時並行的な利用が物理的に不可能であることも多い。さらには、工場廃水による海水の汚染のように、ある活動が必然的に外部性を有し、その活動に直接参加しない他人の利害に影響を与えることも稀ではない。
いずれにせよ、このような人間活動が一定の海域で行われる時に、他の活動との競合があるときにはその優先順位付けをする必要が生じ、外部性を持つ場合にはそれによって生ずる外部経済(他人に生ずる利益)ないしは外部不経済(他人に生ずる損害)の予防ないしは事後的な調整をする必要が生ずる。
また、沿岸域で行われる人間のさまざまな活動の中には、それ自体が経済的な利益を生じさせ市場メカニズムに委ねることによって自然にその需給関係が調整される性質のもの(漁業はその代表である)と、灯台の整備のように、それ自体はそれを行う主体に直接の排他的な利益を生み出さず、市場での供給を期待できないが、その供給によって多くの国民が大きな利益を受ける公共財としての性格のものと、さらにはその中間の準公共財的なものがある。公共財ないしは準公共財の供給・維持を誰がどのような形で行うか、またはその公共財ないしは準公共財の供給・維持のコストを誰がどのような形で負担するかを決める必要がある。
海にかかわる人間の活動をスムースに行わせ、そこからより多くの人間のより多くの効用を生じさせるためには、上記のようなさまざまな優先付け、事前の予防、事後の紛争解決、公共財ないしは準公共罪の供給・維持に関する決定と実行が必要となる。これらの問題の総体を本稿では「沿岸域の管理」と定義する。
沿岸域のみならず、空間利用の管理をスムースに行うための主たる手段は、所有という法制度である。私的所有が認められる空間においては、一般に、所有者の意思が当該空間の利用について排他的絶対的に認められ、それが外部性を持つ場合に、事前ないしは事後的な調整の対象となる。当該空間の排他的利用を望む者は市場での売買を通じて所有権を獲得することで、自動的に優先度の調整が行われ、社会的な利益と私的な利益の調整が行われる。しかし、沿岸域の海に関しては、後に述べるように、このような私的所有による自動的な調整メカニズムが働かない。海が原則として公有とされ、天然自然に存在する公物である海の利用は、すべての人が非排他的に、自由に使用することを認めるという原則が働くからである。
このような状況の下では、沿岸域の利用密度が濃くなり、多くの活動が特定の海域で錯綜する度合いが増せば増すほど、沿岸域の管理が必要となる。わが国では、これまで、沿岸域の管理に関しては個別に問題が発生するのに応じて個別の解決を行って来たといってよい。これまでは沿岸域の利用者が濃密に競合する状況が必ずしも多くはなく、仮にそれが発生するにしても、漁業に代表されるように、その競合は同一目的の利用の競合が主であったために、個別の問題解決で基本的な管理の必要が満たされたからである。歴史的に見て、わが国における海の主たる利用形態は漁業と海運、それに埋立による海の陸地化であり、時にその相互調整が必要であったとしても、そのための公共財、準公共財の供給と維持も含めて、その調整が複雑な利害関係を広い範囲の人間に及ぼすことは稀であった。わが国の沿岸域の管理が個別的に行われてきた背景にはこのような事情がある。個別の解決は多くの場合そのための個別の法制度を設けることによって行われて来た。
しかし、わが国の経済が高度に成長を遂げ、その多くの活動が沿岸部で展開され、工場の排水、家庭排水等が天然自然の処理場としての海の自浄能力を超える状況が生じる一方で、豊かな社会の成果を海における良好な自然環境の維持とそこでのさまざまなレジャーなどに求める社会層が増加しつつあるのが今日の状況である。従来は特定の限られた利害関係者のみの世界であった海の利用が、今日では、良好な環境の保全と余暇利用を含めて、多くの一般国民の関心事となっている。そこでの新たな管理のニーズは、環境の利益と経済的利益、余暇の利益と経済的利益というように、経済的利害の調整の枠を越えた、質的に異なる社会的な価値の優先度を決定することを中心に生ずることとなる。
このような管理が従来の個別的な、帰納的な管理で充分かどうか、むしろある種の価値の序列付けを前提とする、計画的な事前の調整と体系的な事後的な紛争解決のシステムが必要ではないか、との問題意識がわが国の沿岸域管理全体を通じて強まりつつある。本稿ではこのような価値の多様性を前提とする計画的な事前調整と体系的な事後的な紛争解決のシステムを「沿岸域の「総合」的管理」と定義することとしよう。
このような総合的管理が必要かどうか、それが現行の個別的帰納的なアプローチに勝るものでありうるかを検討するためには、まず、現在の個別アプローチの総体を把握し、その管理の機能的な限界の認識と評価をする必要がある。本稿はその第一歩として、とりあえず、多岐にわたる現行の沿岸域管理の法制度の総体を把握することを試みるものである。
以下では、沿岸域の管理の基礎となる沿岸域に関連する所有権の関係をまず整理し、次に、海の管理制度の全体像を把握した上で、海の管理の実定法制度の概要を整理し、最後に神奈川県における計画制度を検討する形で議論を進めよう。