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[連載]仮設の間道[6]見世物小屋への旅・・・坂入 尚文
旅を掛けるという古い言い回しは、現在でも業界で広く使われる。
高市から高市といった街々の特異な時だけを巡る人たちは、旅を生きる事と同じように感じとってきた。
二月、三月は家に居ることが多い。そうするとどうにも息が詰まって来る。ふっとどこかへ行きたくなる。
浅草寺境内で寝泊りしていた時期があった。昭和天皇の下血と崩御のあおりで高市が無い。
境内に車を置いて山谷や向島をうろついていた。
高市が無くても日曜日の平日が使える。わずかでも金が入った。
週末近くその金が底を突くようになると、山谷へ飲みに行く。山谷は浅草の半分の金で飲み食いができる。
間口一間の立ち飲み寿司屋があった。
カウンターが道路に面していて客は道路に立つことになる。ここのしめ鯖がやたら旨い。
界隈には同じような店が二軒あった。
しめ鯖の旨い店はおやじが片目だ。最初から片目つぶってくれているので安心して食える。こういうのは旅の醍醐味だ。
浅草には行き付けの酒場があった。観音温泉裏の藤棚の下、表が全部ガラス戸で外からのぞくと、チヨちゃんがカウンターの中から出て来る。
朝は六時に店を開け、夜八時か九時になると閉めてしまう。ここでよく境内を仕切る甲州屋のYさんと隣り合わせた。
Yさんは北海道出身で、いや家出して若い頃から日本中を渡り歩いた。それがいつの間にか浅草に居着くようになった。
ちょうどこの頃、大変な事になった、手板を預かる事になってしまったと酒場の私たちに告げた。
場末の酒場で、常連は手配師やオカマ、カプセルホテルに逗留している夜逃げ中の男、時には木馬館の大衆演劇の座員まで紛れ込んで来る。
皆で大喜びした。
手板とは繰り人形の紐の付いた板の事で、高市では所場を書き込んだ巻紙を指している。
手板を預かることは、高市を仕切るのと同じ事なのだ。
別の日、Yさんが又話しかけて来た。
「飴屋さん、私は昔から不思議に思っているんだよ。あの旨くもないソース焼きそば、埃だって入っているだろう。
山の中じゃあるまいし、外(境内の)へ出れば中華料理屋いくらでもあるじゃないか。」
「露店には遊戯性がある,
露店から食べ物を買うのは単に腹を満たすだけの事ではない。
露店は飾り立てた小さな舞台で、
それが並んでいる高市に客は金払うのではないだろうか」
と解説すると、首をかしげている。
まあ景気良く焼いている若い衆が、ひょっとすると紋々入ってるかも知れない
客はテキヤがヤバイ世界に居ると思っている。
テキヤも客にそう思わせるように振舞う。
「PTAの人が焼いてたら特に浅草の客は買わないんじゃないですか。」
そういう風に答えるとうんと頷いた。
そこには犯罪への共感がある。これは山口昌男さんの受け売りになる。
旅にはこんな休息がある。
こういう時は意外な収穫もあるものだが、失ったものも多い。
たとえば私はメモを無くしている。
カメラも二台いつの間にか紛失した。
失ったものも多いけど、その分、何かを得ているのかも知れない。
以前にも少し書いたが、そんな事を強く感じたのは、
数年来続いている一家のタイでの新年会の時だった。
早朝、バンコクのホテルから見下ろす古い街の一角から、
ラウドスピーカーの音楽が流れてくる。
意外にもアラブの音楽で続いてコーランと思える大音量。
ホテルの入口には黄色や赤、毎日新鮮な花で埋め尽くされる仏塔がある。
道端には不浄が闇に紛れたように、露店が夜通し商売をしていて、
線香の香りの食い物を売っていた。
このGというかなり大きなホテルには、
イスラム圏からの男の客が多く逗留している。
独身者が多いと思われるのは、兵役や一夫多妻の国があるからで、
あるいは逃げて来たのか、つかのまの休息を楽しんでいる。
白人を見る事はまず無かった。
日本人は我々だけで、フロアーを借り切る王族のノリで、
メードもボーイもたんまりチップを貰えるのだからここでは歓待されている。
他のホテルに泊まると否な視線を感じるのは、イスラムの客も同じなのだろう。
タイとイスラムと日本の間道が交錯している。
それにしても一般の旅行者があまり来ないところを見ると、この国ではそうした情報をどこかが流しているのだろうか。
女性の客を見る事も無かった。欧米の客はどこへ泊まっているのだろう。私は二年続けてこのホテルに逗留していた。
バンコクから車で数時間のリゾート、パタヤの町には
百人以上も収容できるおそろしく長大なカウンターのバーが、仮設的な歓楽街を形成している。
ここで投宿する白人は多い。ふうむ、こういう所に居たのだ。
歓楽街は、ベトナム戦争の米兵が休暇を取るために発展したと聞くが、
繰り返されるらんちき騒ぎがその余韻をジャングルにばら蒔いていて、
双頭のべトちゃんドクちゃんこれでもかとあらゆる奇形を造り上げた。
歴史は多くの困惑を抱えながらすべてを飲み込んで行く。
考えて見ればここは王国で、困惑についても寛大に振る舞っている。
見世物小屋の旅へ出発前に、どうしてももう一度バンコクのホテルに戻っておきたい。
飲み込まれていく快感というものがある。
地下のバーの事も以前少し触れた。たむろする女たちはホテルになにがしかの金を払っている。
その元手を取り戻すまでは地下に居る。
御一行様の中にはチェックインしてそのままここへ降りる強者まで居るのだから、地下であるので見下げたものというところだ。
この強者は他家名の客で、もう一人、地下に女が待っている男が居る。
この話を聞いた時、前者の強物もあるいは同じような心理なのかと思えた。
地下の女は体を売るためにもう一人の男を待っているのではない。男の部屋でただ眠るために男を待っている。
男は若い頃からの薬物で体があまり利かないのだから、女に部屋を使われるために地下へ降りるという事になる。
夜になると女は仕事に出かける。明るくなるとメードに鍵を開けてもらって部屋へ入る。
女が部屋を使えるのは男が滞在している間だけであるし、男も部屋に女が居るのはこの間だけのことだ。
暗黙の共感がある。金があったらずっとタイに居たいと男は私に話した。
旅はとうとうここまで来た。こんな女とテキヤを見ていると行き着いたという感がある。
それならばこのような場所から見世物小屋の一員として間道に踏み入れたことを回想するのに、どんな意味があるのだろうか。
地下に飲み込まれて行く事の方が、よほど私には順当ではないだろうか。回想は堂々巡りの円環を回る事なのかも知れない。
 
もういいかげんにしたいという気分が強い。
おそらく一九七二年、あるいは翌年、とにかく良く晴れた日に全長一二メートルもある灰色のトラックが、
府中市分倍河原の蝋人形のアトリエから出発した。
トラックは旧式のもので同じ灰色のスピーカーも運転席の屋根に取り付けてあった。
荷台の横腹には秘密の蝋人形館と横書きしてあって、バラの花が描き添えてある。
積み荷は鉄パイプ製の見世物小屋天幕一式、開けばそのまま展示できる蝋人形の箱、洗濯機、冷蔵庫など長旅に必要と思われる道具類、
荷台の下には三羽の鶏を入れたケージまで取り付けてあった。
満載で少しのへこみでもぐらりと車体をよじる、この異様なトラック、それに蝋人形のすべては、大学の先輩、
松崎二郎氏の作品として世に問われたのだという事が、当時の美術手帖に取り上げられた事で解る。
日大獣医科から東京芸大と、解剖学から彫刻の道へ進んだ彼の蝋人形は、マダム・タッソウを上回るものだと彼は言っている。
アトリエには義眼や耳の切れ端、性器の石膏型などが乱雑に転がっていて、アルギン酸やリンシード、油絵具の臭いが充満していた。
二人の助手が日がな一日、眉毛や恥毛を植え付けて行く。
ある注文書はレポート用紙十数枚で、几帳面な文字が入っていた。
全身から局所に至るまで連綿と要望が述べてある。
歯の大きさと色、唇の形、開きかげん、年齢、体型、横たわる足の角度。
不老不死の女性の実現を求める倒錯が、老人である注文主のレポートには漂っていた。
松崎さんはこういった仕事に飽きていたようだった。ふっと違うところへ行きたくなる。それで見世物の旅を思い付いた。
松崎さんは高市で有利に場所をとるために、大頭龍本家吉本力氏の若い者になっていた。
準備はすでにほとんど整っていて、人だけが足りない。そこで当時食うに困っていた私に電話があったのだった。
私がはじめて見世物小屋を見たのは小学生の時だ。中央線武蔵小金井駅の踏み切り脇の草地に、ある日突然見世物小屋が建った。
電車から見掛た父が私を連れて行った。
あまり大きくない汚れた天幕小屋の外には裸電球が光っていた。
天幕と同じ様に汚れた男がなにやらわめいていて、私は目を丸くしていたと思われる。
六尺の大鼬という見世物だったらしいが、ほとんどの事は覚えていない。
高市ではなかったようだ。小屋はぽつんと青草の中にあった。
翌日だったのだろうか、踏みしだかれた青草のあたりに、点々と血糊があって小屋は無くなっていた。
父にその事を告げると、サーカスが町にやって来るという絵本を買ってくれた。
見世物小屋の旅に出ると告げると、父は妻子の事を聞いた。私は自分が死ぬ事もあるまいと答えた。必ず帰ってくる。
すると父は、眼鏡を上に上げて涙を拭いた。それがなぜかは私にも解った。
家を出ること。私が旅に出る事は子供の頃から決まっていたように思えた。
小学生の高学年になって画用紙に浜で西瓜を売る絵を描いた。大人の男の絵だ。
府中の暗闇祭りには、この頃自転車で行っている。一時間以上を全速力で走った。(つづく)
〈飴細工師〉








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