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◎都城造営の規範◎
 話をもとに戻し、北京城の設計思想について述べてみよう。元代以来、規範として仰がれたのは儒教の経典「周礼」であった。よく知られているように、「周礼」考工記の規定は旧時代、都城が造営される時に必ず参照されたが、先にも少し触れたように全ての都城がこの規定を遵守したわけではない。立地その他の現実的な条件がそれを実現させなかったケースの方がむしろ多かったのである。その規定は次のようにまとめることができる。
一、王城は一辺九里の正方形で、東西南北の各城壁に各々三門、合計十二の城門を開く。
二、東西軸と南北軸にそれぞれ三本、合計九本の幹線道路を通し、城を巡る環状道路を城壁沿いに造る。
三、南面する王宮から見て、右に社稷壇(土地と穀物の神を祀る祭壇、上に屋根はない)、左に宗廟(王室の先祖を祀るおたまや)を造る(左祖右社)。
四、王宮の前に朝(政務を執る所)を、後に市場を造る(面朝後市)。
 まず一から云えば、都城が方形であり、城門が各々三、計十二門という点について北京城はクリアしている。ただ、厳密に云うと、北門は中央に門を欠いているので合計十一門になっている。これは一説に、北から侵入して来る(=殺)気(災厄をもたらす邪悪な気)を防ぐためであるという。
 ついでに云っておけば、旧時代の中国の都城は城壁で囲まれていた。中国も西欧と同様、城壁によって内外が截然と区画されていたのである。河南省の鄭州などに行くと、驚くべきことに土で固めた殷の時代の城壁の一部がまだ残っている。「城」とは城壁のことで、二重に囲う場合、内側の壁を「城」、外側のそれを「郭」という。現在、ほとんどの都市は交通の障害になるので城壁を壊して撤去している。北京でもその跡地が広い幹線道路になっていて、内城ではその下を環状線になった地下鉄がぐるぐる回っており、かつて門があったところには必ず駅が造られ、門の名がそのまま駅名になっている。撤去したといっても西安のようにかなり残しているところもあるし、北京でも歴史建造物として城門や城壁の一部を保存している。往時、北京は、外城、内城、皇城、大内(紫禁城)と合計四つの城壁が入れ子状に築かれていたから、紫禁城は四重の城壁によって護られていたことになる。内城の城壁は高さが二〇メートルを越え、幅も上部で六メートルあったという。昔の北京を知る人は、高い城壁で囲まれた北京は別世界のようだったと云い、また、城壁によって自分の位置が確認できたし、安心感も与えられたとも語っている。京都のような盆地に暮らす人と山との関係を思い浮かべれば、少しは実感が湧くかもしれない。城壁がなくなっても「城市」=cityとして現代中国語に生きており、「町へ行く」というのを「進城」とか「進城市」、城壁の中に入る、というふうに表現する。
◎聖なるライン―南北軸◎
 「周礼」の二番目の規定に戻ると、道路を棋盤の目のように敷設するという点も北京は忠実に守っている。ここで重要なことは都市の中心軸という問題である。規定の三において「南面する王宮」とあるのは、王者は南面して臣下は北面する慣行を前提にしている。ここから推せば、王都の中心軸は南北ということになってくる。元の時代に北京城(大都)が造営された時、まず都市全体の中心点を決定したが、これは従来の都市造営にない新しい試みだったと云われている。その中心点になったのはその名も「中心閣」という建物で、そこを起点にして南北に軸線を引いたはずである。明清時代になると、紫禁城をやや南へ移して新しい宮城を営建するが、南北に走る中心軸という設計思想は継承された。明代には南に外城が築かれ、そこにも南北軸が貫通されたからいっそう南北の中心軸が強調されることになった。
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王城図(戴震「考工記図」より)
 元の中心閣があったあたりに、明清時代には時を知らせる鼓楼と鐘楼が建てられた。両者は互いに接近したところに現在もそのまま残っているが、北京の南北軸の北限がこの鐘楼で終わっている。私は一九九二年の北京滞在中、崇文門近くの宿舎から自転車を漕いで鼓楼(南寄り)と鐘楼(北寄り)まで行き上に昇ってみたが、南北を貫く広い道は鐘楼で終り、北にはごちゃごちゃ密集した民家と胡同が広がっているばかりであった。これは真北に門を開かなかったからなのか、他に何か理由があったのか、よく分からない。元の中心閣の場合はどうなっていたのか、これについてもまだよく解明されていないらしく、北へと道を伸ばしている復元図もあればそうでないものもある。ともあれこの南北軸は北京城の聖なるラインであって、後述するように紫禁城の重要な宮殿は全てこの線上にあり、現代でも、人民英雄紀念碑や毛主席紀念堂(毛沢東の遺体を収める霊廟)もこの軸線上に建てられている。
◎「周礼」の規定とモンゴルの人々◎
 改めて「周礼」の三の規定に移るが、南面する王宮の右に社稷壇、左に宗廟というのも北京はそのまま従っている。ただ、元の時代には両者とも宮城の外、東と西の端に置かれていたが、明代になって今の位置に建てられたという。宗廟は王室の先祖代々の位牌を収めて祭祀を執り行なう建物で、今に残る明・清のそれはきわめて重厚かつ壮麗なものだが、私が訪れた一九九二年には、内部は何の遺物もなくガランとしていた。北京の社稷壇は「五色土」といって壇の上が五色の砂で色分けされている。中国全土を五行思想に則ってシンボライズしているのである。
 「周礼」に依拠し王宮の前方左右に宗廟と社稷壇が設置されている都市として、他にソウルが挙げられ、朝鮮王朝時代のものが彼の地に現存している。特に宗廟は、わが京都の三十三間堂とほぼ同じ全長約一〇〇メートルの横に長い建物で、かつて建築家白井晟一が「東洋のパルテノン」と絶讃を惜しまなかった端正な建物である。北京と違ってその内部には今なお歴代の王や王妃たちの位牌が安置され、毎年全州李氏(朝鮮王朝を創建した家)の末裔達によって盛大な祭祀が催されている。
 「周礼」の四の「面朝後市」であるが、元の大都では宮城の北に市場があったと云われている。
 以上のような意味において私は北京を「規範都市」と呼んだのだが、しかし一方で、元の大都の営建に際してフビライをはじめモンゴルの人々には「周礼」の規範を厳守せねばならないという考えはなく、むしろモンゴルのオルドウの制度を導入したとする説もある(村田冶郎「中国の帝都」)。いま私は、現存する明・清の北京城を元の大都に重ねて見すぎたかもしれないが、しかし元の大都が「周礼」と全く無関係に建てられたとは考えにくい。むしろ私は、異民族として敵地に乗り込んでしたたかな中国人を支配せねばならなかったモンゴルの人々の、中国文化に対するやや過度な適応をそこに見たいのである。
◎都市造営の理論的根拠としての「易経」◎
 ところで「易経」は占いのテキストとして広く知られ、「易」というと種々の占いの総称としても使われるが、その一方で本書は儒教の陰陽哲学と宇宙論の原典でもあった。中国人が建造物であれ何か抽象的なシステムであれ、何物かを構築しようとする場合に易の理論を借用することが多い。易は宇宙を記号化したものと信じられ、また儒教の筆頭に置かれる権威ある経典であったから、易を取り込むことはそのシステムに宇宙の真理と権威を賦与することになると考えられていたのである。元について云えば、そもそもこの王朝名も「易経」の「大なる哉、乾元」に由来するが、これから述べることは明・清の北京に関わっている。
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明清時代の祭壇
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明代北京城示意図(17・天壇 18・地壇19・日壇 20・月壇 21・社稷壇)(一丁ほか 「中国風水与建築選址」より) 先矢図(「周易本義」)
 北京の南郊に天壇という皇帝が天を祀る壮大な宗教建築があることはよく知られているが、実はこれは、城外にある他の三つの壇、すなわち地壇、日壇、月壇の三つとセットにして考えられるべきものなのである。この四壇は北京城を守護するように四方に配されていて、往時、皇帝は冬至には天壇で天(昊天上帝)を、夏至には地壇で大地(大地を神格化した皇地祇を、春分には日壇で朝日を、秋分には月壇で夕月をそれぞれ祀ったという。現在この四つの壇は、北京の重要な観光スポットである天壇はもちろんのこと、全て公園になっていて市民に開放されている。私は四つとも見て回ったが、天壇以外は観光客もほとんどやって来ない、静かで広い緑地であった。
 問題はこの四つの壇の配置であるが、これは図のように易の先天図という方位と一致する。この、天壇が南に地壇は北にという配置は、宮城の南の天安門と北の地安門(今は名のみで門は消滅)という、宮城の門の配置ともパラレルになっている。設計者は易の方位図を意識して壇を造り門のネーミングを考えたに相違ない。
 ここから問題は意外な方向に転回してゆく。現在我々が目にする北京の地図は、上が北で下が南になっている(これは、もとより北京に限ったことではないが)。ところが先天図を下敷にすると話は逆になってくる。先天図は古いテキストでは、乾=天=南が上に、坤=地=北が下になっているのである。考えてみれば、この方が天地自然の姿に合致する。それかあらぬか、中国の占い地図の中には南が上で北が下になっているものも少なくない。
 そこで私はこう考えたいのだが、明清時代の人々は(設計者も含めて)北京城の図面を、いま我々が見ているような凸型ではなくて帽子を被ったような逆凸型として見ていたのではないだろうか。そのように発想を一八○度転換してみると、南北の中軸線が北の(つまり下方の)鐘楼で終っているのも何となく分かるような気がする。というのも、人間の心理として意識は図の上の方、つまり天の方へ向かって下方へは向かわないから、鐘楼で終っていても、そこが起点となりこそすれば行き止まりという閉塞感は生じないのではなかろうか。
 このような意識のベクトルからすれば、鐘楼の対極にある外城中央南端の永定門は図面では最上段になるから、北京城はそこで終るのではなく、さらに上方へ天へという上昇感と開放感とが見る者の心理に生じ、ここに北京城は天界と連続して来ると考えるのはうがち過ぎだろうか。一説に、北京城が凸字形になっているのは、下の外城が上の内城をしっかり受け止めることで国家が安定するという願望が呪術的に表現されているのだとも云われるが(メイヤー氏)、もし当時の人々が逆凸字形として北京城をイメージしていたとすればこの説はたちまち根拠を失ってしまう。ただ、残念ながら上が南になっている逆凸字形の北京城図は今までのところ発見されていない。








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