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◎北京城の原型―フビライの大都◎
 北京が依拠した「規範」について述べる前に、順序としてまずその立地に触れておくべきであろう。北京は大まかに云って三方を山に囲まれ、南ないし東南は平野に向かって開けている。市内にいると山は見えないが、紫禁城(故宮博物院)の背後にある景山に登ると、三方の山並みが視界に入ってくる。ちなみに上海はもっと平野であって、市内のどこから眺めても山は見えないし、何時間も車を走らせて郊外に出ても、ポコポコした小さな丘しかない。だからよく冗談で、上海で山を見ようと思えば豫園(明代に創建された名園)へ行けと云われたりする。そこには、巨石で組み上げられた仮山(築山)があるからである。
 北京の立地に関して、ます南宋の大儒・朱熹(朱子学の開祖)の言葉を引いてみる。彼は風水地理説にもとづいて「冀州」を次のように位置づけている。
 冀州の都は、天地のどまん中に立地しためでたき風水のところで、その山の脈は雲中(大同あたりか)から発して来ている。雲中はちょうどその高い尾根のところに当っていて、尾根より西側の水は西流して龍門付近の黄河に注ぎ、尾根より東側の水は東流して海に入っている。冀の都の前方には一筋の黄河が巡るようにして流れ、右には華山が聳え立って虎をなし、華山からの山脈が中ほどで嵩山となり、それが前の案山の役割をつとめて、そのまま進んで泰山となり、右に聳え立って龍となる。淮南の山々は第二の案山であり、江南の山々は第三、第四の案山をなしている。
「朱子語類」第二・83条
もっとも、ここで云う「冀州」が北京を指すかどうかについては諸説があって、明の丘濬などは北京だと主張しているが(「大学衍義補」巻八五)、彼は北京が自己の王朝の首都だからそう考えたかっただけであり、伝説上の帝の都とするのが妥当であろう。というのも、朱熹の当時、北京はの陪都・南京(九三八年営建)から金の中都(一一五二年営建)が置かれた時代に当っており、「夷秋は人と禽獣との中間的存在」と云って憚らなかった彼が異民族の都城を讃美するはずがない。風水説は地形を解釈する術であり、しばしばそれは後追い的に由緒正しい都城のオマージュとして利用される。ただその一方で、右のようなマクロな地勢観は風水の得意とするところであったことも云っておかねばならない。
 中国の場合、風水を看て都城の立地を選ぶというより、都市が造営されてから風水によって土地の意味づけがなされるケースが多い。北京の風水的讃歌としては、朱熹の語よりむしろ次の例が適切であろう。
 幽燕(北京地域の古称)は昔から雄勝の地として聞こえる。南に向かって左には滄海(渤海)がぐるりと弧を描き、右には太行山脈を抱擁し、南は黄河・済水を襟と成し、北は居庸関を枕としている。蘇秦(戦国時代の遊説家)の云う天府百二の国であり、杜牧(唐の詩人)の云う王者が王者とならざるを得ぬところである。
「地理人子須知」巻一
 都市としての北京は、戦国時代の春申君の封地にまで遡るという伝承があるものの、近代に入るまで江南の一寒村にすぎなかった上海などに比して遥かに長大な歴史を背負っている。戦国時代、燕の国が今の北京の近くに都城を築いたのが北京の原点とされ、北京の雅称「燕京」もそこに由来する。その後、や金といった北方の異民族が今の北京の外城西端に都城を築いたが、今日の北京の原型は元の世祖フビライによって建設されたものである。南京からここへ都を移した明は、宮城の位置をやや南にずらして新しい紫禁城を造営し、ついで外城を築いたが、同じくここを首都と奠めた清から現代に至るまで、基本的には元の大都を継承している。
 都市考古学という学問があるかどうか知らないが、北京はこのように燕の時代以来、ニ○○○年に余る都市としての歴史が堆積しているわけである。中国文化の形成や現代の北京を考えてゆく上で、とりわけ今の北京の原型となった元の影響力をもっと重視すべきだという声もある。都市論から少し話が逸れるが、言葉を例に取って云うと、現代中国語では鉄道の駅を「站」と云って「駅」という語は使わない(「駅」が現役なのは日本語と韓国語のみ)。ガソリンスタンドなども「加油站」などと云う。この「站」はモンゴル語のJam(ジャム)から来ている。モンゴルでは旅人が泊まったり馬を取り換えたりするところをJamとかJamci(ジャムチ)と云ったが、「站」は似た発音をもつ漢字を当てたもので、中田語の「站」には「立つ」という意味はあっても元来ステーションの意味はなかった。また、北京では車の往来する表通りに対して裏通りや横丁を「胡同」と呼ぶが、この「胡同」もモンゴル語のhuddug(ホッタック・井戸)の音訳と云われている。
 ちなみに胡同は、これを抜きにしては北京市民の日常生活を語れない大切な場所で、北京ではどんな短い胡同でも必ず名前が付いており、壁に赤地に白抜きのプレートが貼ってある。上海では「弄」とか「弄堂」とか「里弄」などと云う。平家が多い北京に対して上海は集合住宅が多いから横丁の雰囲気が全然違う。と云っても、筆者がかつて半年暮らした上海にはここ五年ほど、三カ月過ごした北京には十年近くも行っていないから、横丁の光景も随分様変りしたことだろうと思う。以前はソウルでも、人々は網の目状に発達したコルモッキル(小路)に面して暮らしていたが、近年の大規模開発の波に押されて消えつつあるらしい。








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