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◎竹籠から飼育籠へ◎
 二、三十年前まで島原半島のあちらこちらでこれを見かけたという。農家の庭先、屋敷の片隅、野山の所々に置かれていた。夏の強い陽射しを避け、冬の寒さをしのぐために枯れ草や稲藁をその上に載せることが多い。それが点在した様は、この地で育った中年以上の人たちにはふるさとの原風景といえるものだろう。
 ハチに刺された話、爺チャン、オヤジの飼っていたハチの話、蜜を絞った後のかすの甘かった話、分蜂群を追って走りまわった話など眼を輝かせながら話をしてくれた方が多かった。そして、それを目にしなくなったともいった。
 使われる材料、形状から他の地域では見聞することのできない飼育法である。それの原型ともいえるものについて多くの方々に尋ねてみた。
 まず自然発生説。土、水、石、木、竹、稲藁と材料は手近にあり、すぐ加工できる 年数をかけて改良されただろうという。
 次にショイ(醤油)籠説。占来、醤油は家庭で造られてきた。桶やカメのなかの醤油と粕を仕分けるために使った竹籠だという。高さが三〜四尺、直径が一尺のもの。高さを半分にすると、すぐ飼育用に使える。
 かつて、この竹籠養蜂が行われた地域についても尋ねてみた。有明海を隔てた熊本各地や長崎県北高来郡高来町、多良岳(太良岳)周辺、大村市の山間部では見られなかった。諌早市内では行われていた。半島を中心に、その付け根にあたる地域にまで分布していたといえる。
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宮下さん宅の作りかけのハチ籠
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宮下さん宅にあった醤油籠
◎醤油籠から飼育籠へ◎
 二〇〇一年一月、北有馬町原山の高木彰治さんから電話を頂いた。森山町の古い知人宅の庭先にミツバチの入った竹籠が置いてあるとのことである。
 一月二十九日、教えていただいた森山町本村名の前山定義さん宅を訪れた。庭先に七つの壁土塗りの竹籠が置いてある。いくつかの巣門には冬の日を受けてニホンミツバチがたむろしている。想像したより大きなものであった。そして迫力がある。壁土塗りの表面の滑らかさと黒ずみは想像していないものだった。台の平石の大きさには圧倒される。
 昼に農作業から帰られた前山さんに話を聞いた。その後も数回、ハチの話を聞かせて頂いた。
 前山さんとニホンミツバチとの関わりは五十年ほど前、小学四、五年生のころからだ。祖父が飼育する様子を側で見ていて習い覚えた。
 冬の間に養蜂用の道具や竹籠を手入れして春に備える。巣分れは三月末から四月いっぱいおこる。庭の植木の高所に下ったハチをつかまえる。その年は七、八つ分かれ、四つ収めることができた。巣分れが一段落した五月下旬、小麦の花のころミツを採る。巣の中のミツは全部採る。
 一つから一升から一升五合採れる。ハチミツは貴重なもので薬どうよう大切に扱う。自家用に使う。その後、ハチが集めるミツで営巣を十分やっていける。
 巣に近づく虫に気をつける。ナメクジ、アリ、ドウムシ、キナメなどの虫を取り除くようにしている。
 ハチが来ると家が栄えるともいい、反対に逃げると縁起が悪いといわれる。
 本年八月、近くに住む前山さんの友人宮下一市さん宅を訪問した。
 昨年、前山さんから一群を譲り受けた。家の増築のために置き場所を二、三回変えた。ハチが混乱しいなくなった。
 作りかけの竹籠が置いてある。市販されている家屋建築の壁土を使っている。もとになる竹籠は、奇数月に吾妻町の阿母崎で開かれる牛市で出店していた籠屋に注文をし、作ってもらった。数年前まで使っていた昔の醤油籠を見せてもらう。長い間使いこまれたものだろう。黒光りしている時代ものである。
牛市の籠屋に注文して作ってもらった竹籠
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◎消えゆくハチ籠養蜂◎
 島原半島でえいえいと営まれてきた養蜂をテーマにしたレポートを昨年八月、玉川大学ミツバチ科学研究施設発行の「ミツバチ科学」第二一巻三号に発表した。それを書いた時点では、ニホンミツバチ飼育用の竹籠の呼び名を聞くことができないでいた。その後“ハチ籠”と呼ばれていることを知った。多くの方々にとって忘れられていた呼び名だった。
 現在、この地にニホンミツバチの分布がきわめて少ない。自然環境が彼らの生活にふさわしくないとも思えない。人々の営みや考えだけでなく、目に見えない変化が自然界に起っているのだろうか。
 現在、ハチ籠でのニホンミツバチ飼育は、森山町で二人の手によって行われている。十群ほどの数である。
 日本各地で行われている平板を使った角ドウ養蜂に較べ、ハチ籠養蜂はあまりにも煩瑣だし、重労働を伴う。興味で養蜂をやりたいと思う人たちが、たじろぐほど強力なエネルギーを要する飼育法だろう。
 島原半島通いを始めてから、この地にも大きな事件がいくつも起こった。
 前山さんの自宅から北に六キロほどのところに諌早湾干拓地の水門がある。この水門の開閉はをめぐっては、環境、農漁業の分野をクロスオーバーし、また、各地域の思惑も異なり大きな政治問題となっている。
 一九九一年九月、雲仙普賢岳が噴火し、多くの犠牲者を出した。現在でも、深江町内の国道五七号線を走りながら見る西側の風景は灰色一色である。噴火によって吐き出された火山灰によるものである。しかし、いたるところで着実な復興が進んでいる様子が見られる。
 十数年の間、精力的にハチ籠を探し歩いたわけではない。どちらかというと、ダラダラと島原半島をまわっていたことになる。名勝旧跡を訪れ、博物館や資料館を覗き、寺社仏閣に立ち寄り、海を眺めるのを続けた。今、楽しいばかりの思い出である。しかし、早い時期に、熱心に探していれば、もっと早くハチ籠に出会えただろう。
 ハチ籠を探して歩き回る間に多くの方々に会い、貴重な話を聞かせて頂き、いろいろと親切にしていただいた。深く感謝するだけである。








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