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2.前町
 前町には、中町とは異なる建築的な発達過程を追うことが出きるようである。明治期を迎えるが、明治2年(1869)4月16日の「ボサマ火事」や同じく明治2年5月14日の「久一火事」という大火を期にして、近代的な要素を取り入れた耐火建築を建てるようになった地区であった。「上原聡家住宅(上原呉服店)」や「松井和雄家住宅(マルチ薬局)」、「鳴海誠二家住宅(マルニ商店)」や「北山二郎家住宅(北山組)」などをみると、そのようなことがおもいあたる。それは一番町通や市ノ町にみられるスクラッチ・タイルを貼ったものとほぼ同時期のものであり、近代化の波が押し寄せたあかしでもある。このようなことは、中町では僅かに「岩谷歯科医院」にそれをみるだけであろう。
 しかしながら、このような近代化ともいえそうな建築のある前町においても、それらのなかには「こみせ」をもっているところもあり、「奥谷了太郎住宅」や「中村保弘家住宅(中村印刷)」や「鳴海育造家住宅(喫茶 蔵ほか)」などには古い町家や土蔵も残されて「こみせ」も付いており、「木村和弘家住宅(入重・木村商店)」も、すばらしい雰囲気を伝えている。
 また前町においては、家を改造するときなどには、主屋とともに「こみせ」も一緒に考えていて、きちんと直しているのが目に着く。例えば「工藤専蔵家住宅」や「福地貞一家住宅」などある。「工藤勇家住宅(旅館工藤)」では、折子障子の桟をガラスに入れて「こみせ」の前後に掲げているのも、その好例であろう。
 家を新築する場合でも同様で、鉄骨の柱を立ててラチス梁を架けてまでも「こみせ」を造ろうとしている様子は、相当に根強いこだわりを示しているようである。それは中町の一郭にある素木柱で建て上げの高すぎるような建築に比べると、はるかに優れた意気込み力減じられる。中町とは、一見異なる景観のようにみえるかもしれないが、商店建築に「こみせ」を付けて、そこを人間たちが通って行くという一種の「都市機能」としては、中町とまったく変わらない一緒のものであった。
 いま、「こみせ」を目玉とした「伝統的建造物群」の指定を考えるときに、この前町のこだわりをはずしてはならない、とかんがえる。
(1)商家屋敷割の現況
 前町における商家の屋敷割は、それほど大きくは変わっていないようである。間口が意外に狭く取られて、奥行が長い、城下町における町家の屋敷割に変わらないようだ。ただし、ところどころではあるが、地主が居なくなったりして、大きな建物がそのまま奥に残されており、前面だけを小さく割って貸家としているところもみられる。
 前町では、近年まで営業していた商家がやめてしまい、その商家も壊して引っ越ししたところが多く、それを駐車場にするか、そのまま空地にしてしまっているところが多い。跡継ぎがいないとか、商業的に売り上げが伸びないとかという理由が考えられるが、ぽつりと空いてしまっている土地の活用法は十二分に考慮しなければならない。
(2)商家外観の現況
 前述のように、近代化が行われた時期があって、商家の正面ファサードが近代的なものになっているものが多い。そのなかでも、古い建築の正面だけを近代風に替えているところもあるようだ。
 前町には、鉄筋コンクリート造の建築が多い。銀行、新聞社、生命保険会社(現在は引き上げて、黒石地区労働基準協会とか黒石法人会などが入っている)などの建築は、単に修景といってもできるものではなく、将来の課題としてきちんとしなければならないであろう。
(3)「こみせ」の現況
 中町と同様のいい状態の「こみせ」をそのまま残して、使わしているところがあるかと思えば、「こみせ」部分にまで商店として使い、商品を並べているところもある。しかし前町の大部分の商家では、「こみせ」が古いときのままの姿をとどめている。
 だから、中町のようには「こみせ」が続いてこないのである。そして空地や駐車場があると、続くことができずに、ぶつりと途切れてしまう。これは、前町の現状としては致し方の無いところではあるが、将来に向けて、なんとかしてもらいたいところである。
 しかし、前町の人たちが造っている「こみせ」では、最近のものではあるが、鉄骨の柱にラチス梁を載せた「こみせ」もあり、また、折子障子の骨組みをガラスにはさんで「こみせ」の両側に掲げているところなどを見ることができ、「こみせ」に対するこだわりには感じ入るのである。
(4)商家遺構の概要
[1]木村和弘家住宅(木村入重・木村商店)(図3-63)
 前町の東側にあり、いまだに古い姿を示している。ご主人によると、大正7年(1918)に、以前からあったものを買い取ったものだといい、その時は、手前部分のみを買ったのだ、ということである。奥の土蔵も大正7年のものである。その後、昭和28〜29年(1953〜54)に手前を改造し、車庫をコンクリートにし、一番奥にある倉庫もその時に建てたものである。車庫の奥にあるトイレは、平成2年(1990)に造ったものであった。
 一階のほとんどが商売に使われており、事務室から応接室、土蔵、車庫となら、その奥に倉庫が3棟も造られている。二階は住居部分であり、前面の座敷には床の間や棚のほかに仏壇も置かれている。階段を上ってすぐのところが洋間になっており、その奥に台所と食堂があり、屋上庭園を渡って離れの住居にゆけるようになっている。二階の座敷部分には、すばらしい細工が施されており、すばらしい空間を造りだしている。
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図6-63 木村和弘家住宅 平面図
[2]鳴海育造家住宅(喫茶・蔵)(図3-64)
 これも東側に建っており、昭和19年(1944)に買収したものだといい、それ以前は、呉服屋を営んでいたところだと聞いている、という。それからは、瀬戸物屋や洋品店もしていたようだが、昭和10〜62年(1936〜87)まで、食料品の倉庫として使っていたという。また奥にある土蔵は、隣の家の土蔵を持ってきたものともいい、現在のような配置になったのは、その土蔵を移してすぐのことであった。
 現在は、一階で喫茶店を営み、他に隣室を綾結の店に貸しており、二階には36畳の大広間を取って百人劇湯と称して、いろんな催しに貸している。
 ご自分たちは、すぐ隣の土蔵に続いて建つ住宅に住まいを構えており、現在は、舅さんと3人暮らしである。さらに奥の土蔵の前にも独立した住宅が耐っているが、こちらは空家である。
 喫茶店を営む土蔵部分には、これといって見るものはないが、以前は、通りに面した部分には戸が立てられており、その戸袋にあたる石製のものが未だに残されており、見る者の心を和ませてくれている。
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図3-64 喫茶・蔵 平面図
(5)道路と地物
 前町の道路には流雪溝が通っている。これは中町には無いものである。雪の多く降る冬期には有効なものであるが、伝統的建造物群としての指定を考えると、自動車の通行とともに取り除かなければならないものであろう。流雪溝の建設当初は、中町に設置されていないことからすると、中町は「こみせ」がよく残っており、将来の伝達群指定が見込まれたのに対して、ここ前町が「こみせ通り」とみなされていなかったのかもしれず、伝建群の指定も考えられていなかったのかもしれない。








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