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第2章 黒石市の概要
1.黒石の地理
 黒石市は、青森県中央部に位置し、面積の80%が山岳地帯で八甲田連邦に連なり、市域は西部に偏在、黒石台地崖上に発達している。浅瀬石川の河岸段丘面とその用水地域、そして十川流域は水田地帯で、南を十和田湖北西の櫛ケ峰(1,516.5m)に源を発する浅瀬石川(全長44.8km)が黒石温泉郷をぬいながら西へ流れて平川・岩木川に合流する。東は青森市、西は田舎館村・常盤村、南は平賀町・尾上町、北は浪岡町に隣接する。
 市役所は、東経140度35分・北緯40度38分に位置しており、面積は、東西に23.3km、南北に17.5kmで216.96km2となっている。うち水田が23.8km2で全面積の11%。畑が17.1km2で7.9%、この大部分はリンゴ園。国有林が41.4%を占めている。地質は第4紀沖積層が5.8%、洪積層が6.7%で、他は第3紀層である。
 平成10年の気象は、平均気温10.4℃、最高気温30.8℃、最低気温−10.4℃、降水量1,268 mm、最深積雪213cm。
 人口は、平成12年現在11,630世帯39,060人。うち男18,212人・女20,848人。1世帯あたり人口3.35人。1km2あたりの人口180人。合併直後(昭和30年)の6,722世帯・39,452人・1世帯あたり人口5.78人からみれば、核家族化が進んだことが分かる。
 市章の「まんじくずし」は、黒石藩が旗印を替紋に用いていたもので、明治22年から黒石町が町章に用い、市政施行後もそのまま採用した。市の文化財としては、昭和48年に国の重要文化財に指定された中町の高橋家が、江戸中期の商家のたたずまいをみせており、中町界隈は今では全国的にも珍しい「こみせ」の町並みである。県の文化財に指定されているのは、大川原の火流し、黒石ねぷた、上十川獅子踊、法眼寺の本堂・鐘楼堂、妙経寺のカヤの木、黒石神社の太刀拵、明暦の検知帳などがある。
 また、日本3大流しの一つとされる黒石よされ踊りは、江戸中期頃から盛んになったとされ、現在、回り踊り、組踊り、流し踊りが、8月15日から17日。ねぷたが、7月30日から8月5日まで行われている。開藩以来、文雅の道をたしなむ武士・町人が多く、黒森山の文学の森を中心に、市内各所に句碑・歌碑がみられる。十和田湖の西の玄関口に位置する黒石温泉郷の津軽系温湯(ぬるゆ)こけしは、伝統こけしを継承し、その工芸的な美と簡素な造形と素朴な色彩は人の心を魅惑する。また、近くの中野神社にある紅葉山の観楓は、北国の嵐山といわれるように秋を見事に彩る。
2.黒石の歴史
(1)黒石の原始・古代
 考古学的に調査された黒石の歴史は、縄文時代より始まる。前期は板留(2)遺跡、中期は花巻遺跡・地蔵沢遺跡、後期は一ノ渡遺跡・長坂(1)遺跡、晩期は石名坂遺跡などがある。
 弥生文化は、平坦部の田舎館村・尾上町・平賀町にみられるが、黒石市には現在のところ発見されていない。浅瀬石遺跡から、31軒の竪穴住居跡が検出されたが、そのうち数軒が奈良時代に構築されたものである。
 浅瀬石川をはさんで対峙する牡丹平南遺跡は、黒石中心部より10.4km離れ、国道102号線と東北縦貫道が交差する地点で、標高84m前後の河岸段丘上に形成された平安時代後期の集落跡である。特色は、鉄製に関係した人々の居住地である。
 高館遺跡は、土師器が多いが、ここでも鉄製品の出土が多く、製鉄・鍛治が行われたものと推察される。また、米作のほか、麦・豆・大麻やひょうたんらしきものの栽培も行われていて注目される。出土した白磁が、宋の「いんちん」(青白磁)小皿破片であることから、11〜12世紀とみられる。
 平安時代の津軽は、安藤氏によって支配されていたとみられるが、内容は不明である。市名の文献上の初見は、興国4年(1343)6月20日の工藤貞行妻しれんの譲状にみられる「久ろいし」である。
(2)黒石の中世
 鎌倉時代末期の元享2年(1322)から嘉暦3年(1328)にかけて、安藤一族に内紛がおこり、嘉暦1年、幕府は工藤祐貞らを将に討伐軍を派遣した。この祐貞が建武の新政に活躍する貞行の父とみられるが、さだかでない。貞行は元弘3年(1333)末からよく建武1年(1334)にかけて戦われた大光寺合戦に宮方として活躍、恩賞として「山辺郡二想志郡」「田舎郡上冬居郷」の地を得た。山辺郡の実態は不明だが、「津軽郡中名字」によれば、浪岡町と黒石北部を含む地域である。鎌倉室町期に領主工藤貞行のいた黒石館は、現在の境松の川原田にあった。
 貞行は延元3年(1338)に没し、その妻は尼となり、しれんと号した。その娘加伊寿(かいず)で、根城南部氏の南部信政に嫁ぎ、信光(幼名 力寿丸)を生んだ。興国4年(1343)黒石の所領は加伊寿御前に、石名坂はその妹の「ふくしゅこせん」に譲られたが、翌5年、尼しれんは孫の力寿丸に黒石郷と政所職を譲り渡している。黒石郷に対する根城南部氏の支配は、康正・長禄の頃(1450年代)まで続いたという。
 応仁の乱後・天下争乱の世となり、文明8年(1476)、外ケ浜野尻にいた根城南部の南部雅楽頭信忠は家臣三代利右衛門に殺され、その後、三戸南部氏がこの乱を征圧したため、津軽は三戸南部の支配に入った。三戸南部に従って来往してきた千徳氏が汗石に築城し、汗石・山形を領した。最初、浅瀬石に来た領主は不明だが、一戸系の千徳政光は永禄4年(1561)に没し、同地の神宗寺に葬られている。また、千徳守氏の子の政実は、文安4年(1447)田舎館に分知されている。千徳氏は、政氏が大浦為信と盟友関係を結び、為信の津軽統一に寄与している。「津軽藩旧記伝類」によれば、天正13年(1585)に「城下の町家700軒」とあり、かなり大きな城下町であったといえよう。津軽統一後、為信は津軽為信と名乗る。
 しかし、政氏没後、政康の時代になってからの慶長2年(1597)、浅瀬石城は津軽為信に攻められ落城し、約50年後の慶安1年(1648)には、わずか108軒の村落になっており、逆に黒石村は314軒の郡中一の大村に発展していた。初代領主信英の黒石分知は、これから8年のちの明暦2年(1656)のことである。
 天正5年以来、黒石が南部に通ずる要所を2ケ所抱えているため、為信は重要地点とみなし、境松の古城跡を改築し、外浜地方を支配すべき総代官所を置き、晩年には自らも居城した。
 為信がこのように黒石を重要視したので、浅瀬石付近の住民も続々移住してきた。明暦の検知帳によれば、明暦2年の分知の時点で、12ほどの町が成立し、5カ寺も存在していた。町名は本町・古町・寺町・浦町・おいた町・上町・新八町・横町・徳兵衛町派・留兵衛町派・甚兵衛町派・派町で、寺院は浄土宗の来迎寺が正保元年(1644)、浄土真宗の感随寺が正保4年(1647)、曹洞宗の保福寺が慶安元年(1648)、妙経寺が承応元年(1652)、地蔵院が承応3年(1654)に創建されていた。
(3)黒石の近世
 明暦1年(1655)11月、3代弘前藩主信義が江戸神田の上屋敷で急病に倒れ逝去した。享年37歳の若さである。翌2年(1656)2月、幕府は信義の長男信政を、条件付きで4代目藩主として認めた。その条件とは、信政がまだ11歳なので、叔父の信英(のぶふさ)を後見人とすることと、信英に弘前藩4万7千石のうち5千石を分知することであった。
 5千石の内容は、黒石・山形領(現在の袋井、境松、西馬場尻と二双子を含めた六郷地区全部に浅瀬石川の南側の地域を除いた領域)2千石、外ケ浜の平内領分(現在の平内町)の千石、それに上州(現在の群馬県新田郡、佐波郡にある新田町、尾島町、境町)の大館村ら6カ村の2千石であり、正式に決定したのは8月初旬である。
 信英は、明暦2年4月幕府の許しを得て幼君信政を江戸に残し、10年以上留守にした津軽に出発した。時に36歳である。弘前城に到着後ただちに政務を開始し、5千石の領地問題を解決した後に、黒石領、平内領3千石分の検知を実施し、すでに町の様子をなしていた黒石に陣屋(現在の市民文化会館、御幸公園、黒石神社にあたる)を築造すると同時に、すでにあった町並みに侍町(内町、市ノ町)や職人町(大工町、鍛冶町)と商人町(前町、中町)を加えた新たな構想の町割りを行ったのである。「こみせ」は、この時に作られたといわれる。
 黒石領の年貢は、田方が6公4民、畑がだいたい5公5民で、小物成は野手役・役油・夫役・立木代・莚代・山漆実代・役綿之代・役麻之代などで、米や銭で納められた。
 また、黒石領主は、江戸においては旗本として働き、馬上の火事場見廻り、館林在番などをつとめた。さらに所領の米の津出しや家計は、宗藩に伺いをたてその裁量に従った。
 明和3年(1766)1月28日の暮れ六つ過ぎ、津軽地方は大地震に襲われた。これが有名な明和の大地震である。被害は潰(つぶれ)寺5、焼失寺1、潰家は侍屋敷町33、町家は焼失とあわせ460、在方潰家82、橋破損34、潰死103、焼死61という大きな被害を受けたのである。この時、家老の境形右衛門(初代)は、直ちに米蔵を開いて各家に一俵ずつ配り、5月には、江戸屋敷の方から金子(きんす)二千両と米一千俵を融通してもらって被災者に米を分け与え、さらに被災者に2%の低い利息と4年の長期返済で金を貸し付けた。領民は大いに喜び、震災の復旧は急速に進んだのである。一方、家臣に対しては、俸禄を一人1日4合の扶持米だけにして支出を引き締めた。「あっぱれ形右衛門」の評判は、旅行者が書いた津軽見聞録によって江戸まで伝わり、弘前の人たちからも羨ましがられて「黒石に過ぎたるものは二つある、前の小堰と境形右衛門」と狂歌にまで詠まれた。
 天保10年(1839)には、公設の黒石火消組5カ組が結成された。従来、盆踊り、七夕祭りの行事を通して自然発生的に作られた施設の消防組が、正式に行政的に編成されたのである。
 消防組名と組織町名は、次のようになっている。
・山形町組〜山形町、坂の上、前町(東並)
・鍛冶町組〜上浦町、下浦町、前町(西並)、寺町、馬喰町
・中町組〜横町、浜町、中町、株梗木丁
・上町組〜大工町、後大工町、徳兵衛町(甲)、寺小路、下町、上横丁、油横丁
・元町組〜元町、茶屋町(元町下)、後小路、百姓町、徳兵衛町(乙)
 天明2年から4年(1782〜84)にかけて、津軽で8万数千人が餓死したといわれるが、黒石ではあらかじめ対策を講じていたためか弘前よりは被害が軽かったようである。しかし、治安は乱れ、町内に物売人が群集し、他国へ去る者も多かった。妙経寺記録に、「宗檀家死絶へ250軒余」とある。家老の境形右衛門(2代目)は、衰微した町勢を回復するため、5月の馬乗り(競馬)、7月のねぷた・盆踊りを盛んにさせた。
 これらの娯楽には、近郷の村からも多くの人が集まり、町が賑わいをみせた。この振興策に弘前藩は異をとなえたが、領民の参加を抑制できなかったようである。
 この盆踊りは開放的なことで知られ、陣屋を解放して「廻り踊り」をやらせたり、武士も身分を隠して町人にまぎれこんで踊った。この時だけは、身分や格式を忘れ、日頃の憂さが晴らせるということで、領主も形右衛門も統治上良策だと考えたと思われる。
 黒石の積極政策は、宗家たる弘前藩との間で経済的な問題を引き起こしたが、6代目領主寧親(やすちか)が宗家の9代藩主を継ぐことになって関係が改善されている。その他黒石津軽から弘前藩には、9代目順徳(ゆきのり)も宗家弘前藩の11代藩主となっている。
 また、文化6年(1809)8代親足(ちかたり)の時、蝦夷地警備により弘前藩が10万石に高直りすると、弘前9代藩主を継いだ寧親より、蔵米6千石の支給を受け、1万石の大名となり、黒石藩が成立した。
(4)黒石の近代
 黒石藩は、維新の変動期にも宗藩と行動をともにしている。戊辰戦争には、南部勢に備えて葛川・二庄内・大川原を固め、さらに平内に出兵した。足軽が不足したため町方から若者を取り立て、在方からは農兵を徴発したほか、火消組みにも待機命令が出された。10月19日、南部勢は官軍に降ったが、11月4日、函館を亡命した官軍の清水谷公考が浪岡の玄徳寺から黒石の感随寺に移り、家臣は来迎寺・法眼寺に分宿した。各藩兵は、このあと2ヶ月間も黒石に駐屯した。翌明治2年正月、清水谷一行は、青森に転陣した。4月18日、函館戦争において黒石一個中隊は、千代ケ台の津軽陣屋奪回戦に参加した。5月21日、松前の幕軍は降伏し、8月13日、黒石11代藩主津軽承叙(つぐみち)は、藩知事に任命された。
 明治4年7月廃藩置県によって黒石県となったが、9月に弘前県に併合され、さらに青森県となった。明治6年、大小区制が施行されて、黒石は二大区五小区に属した。11年、郡制がしかれ、第二大区は南津軽郡となり、黒石町に郡役所が置かれた。
 黒石は藩政時代から繁栄をみせていたので、近代になっても文化的水準を保っていた。大正11年(1922)、誕生した黒石革新青年団は、政治研究会黒石支部創立と進み、やがて南津軽郡下に農民運動・無産運動を展開させていった。
 このように黒石は、政治・経済・文化すべての面において先導的役割を果たし、南津軽郡の中心であった。
 昭和29年7月1日、黒石町、浅瀬石村、山形村、六郷村、中郷村が合併して黒石市が誕生した。
 しかし、初代領主信英公が黒石に来て以来、家老境形右衛門等の働きにより近郷・近在から多くの人たちが集まって繁栄してきた商業活動も、明治20年代に奥羽線を黒石に通せなかったことから、交通機関の発達による産業経済の近代化に乗り遅れた感は歪めないのである。
 一方、文化財保護の立場からすると、近代化により、他の地域で「こみせ」が姿を消していく中で、黒石市は、中町を中心に「こみせの町並み」が風情を感じさせ、江戸時代からの歴史と文化を今に伝えている。








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