レポート[3]
滋賀県立聾話学校で学んだこと
安井 悠子(日本福祉大学2年生、全日本ろう学生懇談会)
1.はじめに
私は、幼、小、中、高を経て滋賀県立聾話学校で育ちました。私の家族構成は父、母、祖母、兄、姉と私で、六人家族です。兄と私は聴覚障害者で、父、母、祖母、姉は聴者です。私と家族とのコミュニケーション方法は兄との会話では手話で、父、母、祖母、姉との会話では主に口話とキューサインでやっています。それが私の環境です。今からはなす事は聾学校で学んだ中で自分の障害どう見つめてきたのか、時代に分けて自分なりに感じた事を話していきたいと思います。
2.小学部時代
〜自分の障害を否定し、自分そのものも受け入れなかった頃〜 小さい頃は、補聴器をつけていることや私に対するコミュニケーション方法と周りのコミュニケーション方法が違うということで、姉とはちょっと違うな、と思うぐらいでした。
3年生ぐらいのとき、しつけでいつも怖い顔を見せていた母が姉と楽しそうに話しているのを見ていて、姉に対してコンプレックスを抱いていました。そこである日、姉と喧嘩して、母が姉に何かを聞いて、姉が何かを言って話していたのですが、私にはその会話がわからなくて、さらに不愉快な気持ちになっていて、「私は悪くない!」と意地を張り、喧嘩した理由を言おうとしなかった私に母は怒り出しました。その後、私は母と姉との会話がわからないことで、寂しさが沸いてきて、私の耳がきこえないからなのだ、と障害を責めていました。それから、どうして私は耳がきこえないの!?きこえない私なんかいらない!こんな思いするのなら死んでしまいたい!!と自分の存在を否定していました。
何かあるたびにそのように一人で部屋にこもって泣いていました。当時、そのような気持ちにならなかったのは聾学校で仲間と一緒にいるときだけでした。
3.中学部時代
〜自分を受け入れるようになったが、まだ障害のことを恥ずかしく思っていた頃〜
小学6年の頃に手話を学んでいたが、中学部に入ってから本格的に学ぶようになりました。それは周りが手話で会話していて、自分も手話で話したい、伝えたい、という気持ちがあったからです。中学部に入って、初めて聾教師と学ぶことになりました。それから、私の中に「可能性」という言葉ができました。「私もできたから君もできる。」というある聾教師の一言が私の背中に羽がついたのです。学級活動や生徒会活動や部活活動を通して自分がやってきた事が達成できたことで、自分に自信がつくようになりました。しかし、活動をしていくにつれ、電話のできる人、聴者と口話で会話できる人というように、聴覚障害者にも様々な人がいるという事を知り、その人たちと電話ができない、口話も上手くない自分と比べてしまうときがたびたびあり、自分の障害のことを恥ずかしく思っていたときがありました。また、周りの人に対して自信を持って自分の障害の事を話すこともできなかったし、聴者に対して堂々と手話を表すことはできませんでした。そして、補聴器を人前につけることが嫌になり、補聴器を外すようになりました。
そこで、口話も上手く、電話もできるある人を傷つけるような事件を起こしてしてしまいました。以前話したある聾教師とその事件について話し合うことになり、先生の問いかけに私は「あの人は電話ができる。でも、うちにはできない。それがくやしい。私のほうが友達多いし、みんなをまとめる事はできる。だから傷つけた。」と言うと、先生は「そのくだらないプライドは捨てろ!」と私に怒鳴りつけました。それが自分の障害認識への一歩でした。
4.高等部時代
〜自分が聾者であるということを誇りに思えるようになった頃〜
高等部に入って、全国ろう学生の集いや全日本聾学校陸上大会という全国規模の大会に行くようになり、全国には、他にもたくさんの聴覚障害者が居るという事に実感し、喜びを感じたことがあります。それから聾学校にいる聾教師たちや聴覚障害者に対して理解のある先生たちから雑談や共通言語という授業の中で、聾学校の歴史やろうあ運動の話聞いて知識が拡がり、もっと知りたいと思うようになり、地元の滋賀県聴覚障害者協会や滋賀県立聴覚障害者センターに遊びに行ったり、全日本ろう学生懇談会近畿支部の企画に行ったりしました。そこで、いろいろな人に出会いました。その人たちとふれあう中で、聴覚障害者はいろいろな聴覚障害者は今もなお、聴覚障害者の人権を守るために運動や活動を続けている、そして、「その活動で得た事は大きいものだ。」と、ある聾者が笑顔満面で言ったそのときの笑顔が忘れられませんでした。
聾学校卒業式間近の中、近畿ろう教育フォーラムが滋賀で行われ、参加しました。その締めくくりが「聾ということに誇りを持てる子どもに育てよう。」でした。そこで自分が探していたものが見つかったのです。聾者である自分に誇りを持つ事でした。
そして、今までを振り返り、聾学校で育った事を思い出され、聾学校で得たものが浮かびました。それは仲間たちです。先生達、後輩達、先輩達、クラスメート達でした。聾者でなかったら、仲間達に出会えなかったかもしれないと思ったのです。聾者に生まれてよかった、手話に出会えてよかった、聾学校に通ってよかった、と心からそう思いました。その気持ちがクラスメートと同じ気持ちを持っているということを知ったときはさらに嬉しかったです。その気持ちを卒業式答辞に表しました。
聾学校を通して、いろいろな人と、ふれあっていく中で障害認識できたのです。
5.今、思うこと
今は、聾学校の先生を目指し、日本福祉大学で生活しています。そこでも、いろいろな出会いがあります。出会いがあるたびに、聾者でなかったら、ここには居なかったのだ、と感じられ、聾者であることに嬉しく思い、生きているという事に実感してしいます。
そして、今、改めて聾学校で学んだことを振り返ると、自分の障害に嫌悪を持っていたのは、まだ手話を身についていない頃、周りと上手くコミュニケーションできなく、障害をコンプレックスの塊にしてしまったのではないかと思います。その塊が解けるのに15年もかかったのです。聾学校はその塊を溶かすためにあったといっても良いぐらいです。
要するに私にとって、聾学校はかけがえの無いものなのです。聾学校があったから障害認識できたのです。又、家族が手話を身についていたら、自分がもっと早く手話を身についていたら、と思うことがあります。
障害認識には、本人のみにならず、家族や先生達の周りの人たちにも必要になると思います。でないと、一人でもがき、障害という殻の扉が開かれないのです。
私は生きるという事を喜ぶというのが障害認識ではないかと思います。
そして障害認識しないと、生きる喜びを感じられないかと思うのです。
比嘉(沖縄)
大変いいレポートだった。ろうのお兄さんはどういう意見をもっているのか。
レポーター:安井(日本福祉大学)
兄はインテグレーションで、4年の時に普通学校に変わった。手話を覚えたのは、筑波技術短大に入ってから。兄の気持ちはよく分からないが、手話で自分の言いたいことを伝えられることは喜んでいるようだ。
和田(長野)
普通学校に通っていたら、障害認識ができたと思うか。
レポーター:安井(日本福祉大学)
障害認識が持てなかったと思う。自分の障害がもっと嫌いになっていたと思う。私の両親は健聴者。手話が分からない。ろう学校で手話を身につけて、自分でも自覚が持てた。普通学校では、自分の障害認識はできなかったと思う。
花畠(大阪)
話を聞いてよく分かる。本当に同じ気持ち。ろう学校の教師になりたいという夢は、とても大切。現在のろう学校の様子を見て不満はないのか。
レポーター:安井(日本福祉大学)
私は小学校まで口話教育を受けていた。もっと早く手話を身に付けていたら、自分の障害を認められたのではないか。両親が手話を身に付けてくれていたら、もっといろんなコミュニケーションができたのにと思う。友人にもキュードをやっている人がいるが、手話を身に付けてくれたらもっと話ができるのにと思う。