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レポート[2]
障害の捉え方で親が変わる 〜親は子どもに何を望むか〜
岡本みどり(全国ろう児を持つ親の会)
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はじめに
 親は子どもよりも先に障害の告知を受ける。その心理状態は複雑だ。しかし、子どもの将来の姿となる成人ろう者に出会うことで、その受け止め方が微妙に変わる。また〔ろう〕をどう捉えるかでさらに認識も変わり、意識も変化する。子どもたちの豊かな心と生きる力をはぐくむために、親達は何をすればよいのか。また親の心理的な作用が、子どもたちにどんな影響をもたらしているのか。これらについて、その経験や〔親の会〕での聞き取り調査などから、その一端を明らかにしていきたい。
そして、子どもたちの生の声から、いまろう教育に望んでいることを述べてみたい。
1.告知から受ける親のダメージ
 まず医療機関、ろう教育機関で行われている告知や、親への支援方法に疑問を感じている。その告知のほとんどが「残念ながら耳が聞こえません補聴器や人工内耳をつけて訓練すれば、しゃべられるようになります」というものである。さらに
・現代の医学ではどうしようもできません
・今後、聴力はさらに落ちる可能性があります
・音声でしゃべられないと社会に出てから困ります
・手話は社会では通用しません
・残存聴力を使って教育しましょう
などもよく言われることだ。
 これら一連の説明で、親は〔聞こえない事〕つまり〔ろう〕を否定的に捉え、音声言語だけが人間の言語だと思い違いをすることが多い。告知後の親の気持ちを聞くと
 「目の前の我が子が、かわいいと思えなくなった」
 「子どもに何を言っても通じないんだと思うと悲しくなった」
 「将来の姿が分からず不安でいっぱいになった」
 「聞こえる子が羨ましく思え、なぜうちの子だけが?・・いったい誰のせいなのだと途方に暮れた」
 「人生を怨み、笑うことさえ忘れていた」
 「これからは何から何まで私が教えなければと、すべてを一人で抱え込み、つぶれる寸前だった」など
 ここから出発する親の心理は、すべて「聞こえない」というマイナスのイメージでしかない。そして不安ばかりが先行し固まっている。子どもも自分が一番大好きな親から、受け入れられていないことが直感で分かる。この期間が長ければ長いほど親子の心理に影響を及ぼし、子どもの生きる力、豊かな心の形成を阻むものになりやすい。〔ろう〕を否定的に捉えることは〔ろうとしてこの世に生を受けたわが子〕を否定することにつながる。何十年も続いているこの悪しき告知方法を何とか変える手だてはないものか。そこで医療機関、ろう教育機関全般にわたる視点の相違に着目をしてみた。
2.視点の拡大
 医師、専門家は「科学、専門性」と「心」を切り離してしまっているのではないか。これについては耳鼻科に限らず、いろいろな分野で問題とされているようだ。【資料1医学会からの報告】医の原点である一番の目的は救命であるが、その救命には生物学的、量的な命を救う局面と、その人のクオリティー・オブ・ライフ=生命、生活の質を救う面とがあるそうだ。つまり現代医学は患部だけを見つめ、その細胞組織を突き詰め、DNAにたどり着く医療といった「科学、専門性」のみ突き進み、人間とは何かという「ホリスティック」(全体論的)な発想からくる「心」の医療が見落とされている。これをあてはめれば、現状の告知は聞こえないことを人間の一部としてどう捉えるか。ろう児、ろう者はどう生きていくかといった実態にまで及んではいない。内耳という部分だけを、「科学、専門性」の観点から述べているに過ぎない。確かにそれも必要だが、それだけで終わっている方法には問題がある。例えば告知と同時にろう者を紹介し、ロールモデルに会わせることで未来を展望させるなど、親の気持ちが前向きになるような告知が必要ではないかと考える。医師、専門家に望むことは、〔ろう〕として暮らしている人々のことをもう少し知って頂きたい。そして同時に、親の心理をケアーするカウンセリングなども必要性ではないだろうか。あらゆる視点の拡大のためにも、全国のろう者に協力を求めたらいかがであろうか。ろう者と親と一緒になって医師会に申し入れをしたい。マイナスのイメージだけの告知は、一日も早くやめていただきたい。「聞こえない事は残念なことではない」実際にろうの我が子を育ててみてそう思う。聞こえない子というよりも「耳を使わないで生活していく子ども」「視覚が発達した子ども」と言った方が適切だ。
3.豊かな心と生きる力に必要なもの
 医師、専門家に限らず、親も視点を拡大する必要があるのではないか。子どもを障害者というより、ひとりの人間として捉え、その人間というものの全体性を見た場合(ホールネス)、発想の転換が図られる。親達も耳だけに捕らわれ、言葉の習得を子どもの目標と考えていなかっただろうか。もっと視点を広げて考えてみよう。すると親が子どもに何を望んでいるのかが見えてくる。それは、「ひとりの人間として人格を完成し、社会の中で真理を見極め、健康で自立した人間になって欲しい」ということである。それがつまり豊かな心と生きる力を得るということではないだろうか。人間が家庭や社会の中で他者と関わりながら人格を形成し、人間性をはぐくみ、豊かな心の成長を遂げるには、言語(母語)、文化、コミュニティーは不可欠なものだ。これらを基盤として成り立っていると言っても過言ではない。ではろう児にとっての言語、文化、コミュニティーはいったいどんなものかをさらに視点を拡大して考えてみたい。
 
1)子どもの言語(母語)に関して世界の言語学者の説を引用すれば、子どもに入る情報が個別言語として一つひとつ確実であれば、その脳内にある言語能力によって、自然言語を生み出していくそうだ。言語(母語)は、教えるものではなく自然に習得できるものであるという。そこから考えると聴覚口話法はいつも曖昧で不透明な個別言語しか入らない。だから能力も生かしきれずに母語さえも持ち得ないセミリンガルになってしまうのは、ある意味当然とも言える。ろう児が人間として本来持っている能力を100%生かし、さらに自然言語の文法を備えているものは何かと考えた時、当然のように視覚言語の「日本手話」にたどり着く。(先天性ろうの場合)
 
2)ろう者と一緒にいると、様々な場面で聴者と違うなぁと感じる場面に遭遇する。良い、悪いという次元ではなく、行動様式の違いなのだと強く感じる。これは日本手話という共通言語をもつ人々が必要に応じて生みだし、受け継いできた文化であろう。聴者とくらべて少数者としての彼等の文化はとても貴重に思う。アイヌ文化を保護するように、「ろう文化」も保護、継承する必要があるのではないかと。そう考えると、ろうとしてこの世に生を受けた子ども1人ひとりが、その担い手として重要な役目を担っていることに気づく。
 
3)「日本手話」「ろう文化」を基盤とした文化的集団として確立していれば、目的によって様々な「コミュニティー」を形成することができると思う。例えば全国的な規模で、ろう者への理解を深める活動を目的としたコミュニティーは就職、政治活動、ろう者が関与する学校、福祉機関などの改善を求める字幕や手話通訳の必要性、聴者と同等の情報保障、手話やろうの歴史への社会的認知、欠格条項の改正などが含まれるであろう。
 言語(母語)、文化を習得していればその文化集団内において、他の人間のすべての文化と同じように個人の基本的欲求は満たされる(モノリンガル、モノカルチャー)。それが確立されることによりバイリンガル、バイカルチャーヘと発展できると考える。さらには、己(ろう者)を知ることで相手(聴者)が見えてくる。その違いを見つめ、それがきっかけで精神を高めることもできる。そこから異文化との真の交流が始まるであろう。そんな大袈裟に言わないまでも、90%は聴親の元に生まれ、幼いときから聴文化にさらされているし、文字の日本語もあちこちあふれている。子どもたちは、もうとっくにその基盤を持っている。
 ろうとして生まれた自分を慈しみ、無条件で愛してくれる親を持ち、聴者の大勢いるこの日本で生きていく。ろう者として誇りを持ちながら、自分らしく生き抜くために「日本手話」「ろう文化」「デフコミュニティー」は欠かせないものであると考える。その基礎を作る場所こそがろう学校の役割ではないだろうか。
4.その実践と成果の一部
 私はいままで、以上のような情報を知らずに、ろうの娘を聴覚口話法で育ててきた。2年前より新しい方法を取り入れ、同時にインテグレーションをやめ、バイリンガル、バイカルチャーを実践している。ろう児のためのフリースクールに通い親も日本手話を勉強中。この2年間の娘の変化に驚き、喜んでいる。
[ビデオ資料1][プリント資料1]
5.ろう教育に望むこと
 家庭内で聴覚口話法、キュードスピーチ、手話単語を取り入れた会話などいろいろと実践してきたが、やはりろう児の母語は「日本手話」なのだとつくづく思う。今ろう教育界は混沌とし、変わる兆しを見せてはいるが、本人や親が望んでいる方向に進もうとしているだろうか。もう一度、親、本人、教師とで原点に戻って話し合う必要を強く感じている。ろう児が人間として必要な言語は「日本手話」であり、それを共通言語として生活できる学校、その上で個人のニーズに合わせて、口話、聴覚口話、発音の誘導にキュードなどを選択できる環境が望まれる。バイリンガル教育を望む親子の選択肢も作っていただきたい。ろう児の教育には、聴者の教師とろう者の教師が絶対に必要な事をご理解いただきたい。そのためには、ろう者教員を採用できる制度確立に向けての努力を惜しまない。親も手話を覚え、子どもが大きくなっても、いろいろなことを心おきなく話し合いたい。
おわりに
 我々はろう児と共に生活し、さらに自立するまでの長期間、継続して接することができる。つまり様々な側面からろう児を捉えることができる重要な実践者の1人であると思っている。過去の過ちや、足らない部分を補いながらその教訓を生かしてきた。学校などと違い体制に縛られない分、良かれと思ったことはすぐに実践できるメリットもある。なにより子どもの成長は待ってはくれないので実践するしかないのだ。今後もこのような我々の試行錯誤を医療機関、教育機関の助言を頂きながら「子どもたちの豊かな心、生きる力をはぐくむために」何が必要かを、一緒に探りたいと思っている。医療機関、教育機関、親そして本人が対等な立場で情報を交換しながら、討論できる関係を作っていくことが今後の課題ではないだろうか。
 10年前、「残念ですがお子さんは耳が聞こえません」と言われ途方に暮れていた親も、たくさんの情報と生き生きとした成人ろう者に出会うことで、今は異文化にふれる喜びをかみしめながら、子育てを楽しんでいる。ろうを知り、ろう者に出会い、ろうの歴史を学ぶ。そんな中から聴者の親も認識を新たにしてきた。これからもろう者に学んでいこう。我が子がろう者として、また人間として誇りをもって生きていけるよう心から望んでいる。
 
【参考資料】
・深層心理学・河合隼雄その多様な世界
・1990日本救急医学会総会資料
・スティーブン・ピンカー言語を生み出す本能
・ノーム・チョムスキー言語本能類似説
・ろう文化
・聴覚障害者の臨床心理
・アメリカのろう文化
・デンマークのバイリンガル教育
 
 
請井(静岡)
 私は聞こえない子の親であり、手話通訳者。先程のアンケートはいつ頃のものなのか。今は手話が一般的に広がっていて、告知を受けた時のダメージも以前より少なくなっていると思う。今は明るく子育てしている人が多いように思う。ろう学校の中で手話が重視され、私も手話の必要性を感じている。岡本さんのお話には同感。でも、アンケートには昔のイメージを感じた。
 
レポータ:岡本(全国ろう児を持つ親の会)
 アンケートは5年前から今年の夏までのもの。つい3週間前にも電話があり、「昨日病院で告知を受けた。すごくショックで,どうやって生きていったらいいの」と言われた。今は昔と比べればインターネットなどがあるが、やはり情報が少ない。告知を受けた時の気持ちは、今も昔も変わらない。ろう学校の中できちんと手話が教えられているだろうか。手話を導入しているろう学校に実際に見学に行ってみると、手話言語として取り入れている学校は1つもない。ろう者の先生のクラスは自然な手話だが、聴者の先生が単語を覚えて教えていても、文法的には手話言語と違う。そこが課題だと思う。聴者の先生だけではろう教育は無理なのだ、聴者の親だけでは無理なのだということを早く自覚して、ろうの先生やデフファミリーの親達と一緒に子どもを育てるのだということに目覚めないと、子ども達がかわいそう。
 子ども達には教育を受ける権利がある。手話の単語だけを教えるのではなくて、きちんとした手話を身につけてほしい。差別法が改正になっていろいろな資格を取れるようになっても、ろう学校でそれだけの学力を付けられなければ問題である。子ども達には能力がある。普通の子達と同じだけの力があり、それ以上の子もいる。その能力が、なぜろう学校で育てられないかということを、ろう教育は基本のところから考え直していくべきではないか。社会の理解は広がっている。ろう学校は手話で教えているのでしょうと言われる。しかし、実際きちんとした手話を言語として教えているところは少ないのが現状である。








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