レポート[1]
地域で学びあい生きる
梶原 桂子(石川県聴覚障害者協会)
我が家の兄慶順は県立寺井高等学校2年生、妹翠は市立国府小学校3年生です。 二人の子はろう者です。とても明るくて、毎日、元気で地域の学校に地域の人と仲良く通っています。
私たち家族は手話を第一言語としています。
兄は石川ろう学校に、教育相談から小学4年生まで、小松の家からろう学校まで私の送り迎えの車で通っていました。バス、電車で通うと遠回りして2時間かかります。車では30分です。
地域の子供と隔離され私たちは遠くの学校にいって学ぶのです。何のために地域の人と隔離されてわざわざ遠いところに通うのか。差別です。
国府小学校へ行って校長先生と相談して、また小松市役所に行って教育委員会と相談しました。
初めての地域の学校ではTT教育で、息子にもう一人の先生が付きました。その先生は手話が少し出来る先生でした。息子がわからないときには手話で教えてもらいました。地域の子供と障害児が一緒に学び、大きくなって当たり前に、共に暮らすようになりたいです。
後で知ったのですが、統合教育は末だ広まらなくて私たちが初めてでした。一つ一つ壁を壊していくみたいでした。本当に大変でした。
娘は、はじめから地域の学校に通っています。けれども、地域の子供たちと一緒に地域の学校で、就学時健康診断を受けたとき再検査になりました。再検査の結果やっと地域の学校に入学することが出来ました。けれども再検査は、交通費は自己負担で市役所の近くの公会堂へ行って、障害者ばかり集まっていろんな検査を受けたことでいやな思いをしました。これは差別です。
娘の担任の先生は、よいコミュニケーションをすごく考えてくれました。そして、週に1回手話コーナーを設けて先生、生徒とも手話を学びあいました。
娘がはじめから地域の学校に通っていることで、娘の生き方は私たちが体験しないようなことを健聴者と一緒にたくさん学んでいるのがわかり、うらやましいと思います。
また娘はろう学校へ行かないおかげで、自然に手話を使い、知識を高めてきました。私たちは驚きながら見守っています。私たちろうあ者の自然な言語は手話であること、手話は言語であることの証になっていると思います。娘の手話は日進月歩で上達し、知識を高めて日本語を獲得しています。文法のあやまりもありますが、第二言語の習得に見られる特徴であり、文法構造の再構築で直せることです。言語の欠陥は障害の立証でなく、聴覚の有無に関わらず人間の言語学習能力を表しています。外国人がうまくない日本語を話すときと同じことです。
息子がろう学校2年のとき、担任の先生に勧められ、東京に行って「‘94年母と女性教職員の会」に参加し、「もう一人、先生がいれば」という運動がなされていることを知りました。以来、「障害児を普通学校へ」全国連絡会の県の大会、市の大会が毎年開かれていて、担任の先生も参加しており、よい方向に進んでいて嬉しくなります。
子供の聴覚障害が発見されたときから親は、手話を習得して子供の手話の環境を整えるよう努力します。
また、映画「陽の当たる教室」では、息子が暴れ出したのがきっかけで、医者に勧められた口語主義とわかれ、息子のために親が手話を覚えていきます。それだ。そうだと思います。聞こえない子供の自然な言語は手話であり、ここから確実な知識の吸収が始まるのです。統合教育では、TT教育を採用、手話の出来る先生のもとで学びます。数学、理科、社会は、手話で。ここは生徒による知識の習得が重視されるべきです。日本語を教えるのは国語の授業に限ればよいと思います。
去年、小松市で、娘の担任の先生が、同和教育研究大会に「手話と出会って」という題で発表しました。私は聞いていて、すごく嬉しく感動しました。これからもっと活動を広げたいなあ?と思いました。ぜひ、「手話と出会って」の文を読んでみて下さい。
資料 手話と出会って〜Mさんから学んだこと〜
国府小学校 本田 守
出会い
昨年4月、聴覚障害をもつMさんの担任をすることとなった。そのときの自分の気持ちとしては、積極的にというよりは、やむをえず引き受けた、という方に近い。彼女のことは昨年から知っていたが、2年生の担任になること自体予想外だったので、全く心の準備ができないまま出会いの日を迎えた。1年生のときの担任の森中先生から、とてもいい子だから安心して、と言われたが、障害をもつ子を自分のクラスに受け入れるのは初めての経験だったので、自分に何ができるのか不安でたまらなかった。
最初の日の彼女の様子は、担任が男の教師ということもあってか、さすがに緊張していたようだった。次の日はリラックスした様子だったが、私の話が聞こえないせいか、退屈そうに見えた。3日目からは次第に表情も明るくなり、少しずつ私に話しかけてくれるようになった。
できたことを
始業式から1週間もたつと、彼女本来の活動的な姿が見られるようになった。私は手話を少しでも覚えようとしたが、忙しい毎日の中で、なかなか頭に入らない。覚えたつもりでも、いざ彼女の顔を前にすると、頭の中が真っ白になってしまう。しかし、ありがたいことに、そんな私にはおかまいなく、彼女は休み時間のたびに私に話しかけてくれるようになった。友だちが困っているとほうっておけないので、気になることがあると必ず私のところへ言いに来る。話しかけられると一瞬、ドキッとする。「Mの言っていることがわかるだろうか?」一生懸命私に向かって話しかけるのだが、私がなかなか理解してくれないので、「こりや、だめだ」と思うのか、私の手を取ってその場所まで連れて行く。そこではじめて、ああそうだったのかとわかる。そんなことの繰り返しであった。彼女の言っていることがほとんど分からず、こちらの言うことも彼女にどの程度伝わっているのか、確信が持てない・・そんな毎日の中で、途方に暮れていた私だったが、明るく元気な彼女の姿にずいぶん励まされた。
甘いかもしれないが、自分自身がつぶれてしまわないように、あれもできない、これもできない、という考え方ではなく、小さなことでも「今日はこれができた」と、自分ができたことを数えていくことにしよう、手話ができなければ、筆談でもいいし、いっしょに行動することでもいい。全部わからなくても、なにか一つでもいいから、わかるまで、伝わるまでやってみようと考えるようになった。
「知らない」ことは「悪」にもなる
1学期のたてわり活動のときのことである。上の学年の男子が二人、Mさんに話しかけている。しばらく様子をうかがっていたが、うまく発音できない彼女の言葉を面白がっているらしい。二人をつかまえて「本当にこの子と話したいと思っているのか?どういうつもりだ!」と、きびしく叱りつけた。
しかし後から考えると、彼らにしても、彼女のふだんの姿に接し、聴覚障害について知っていれば、あんなことはしなかっただろうな、と思った。
世の中には「知らなかったから、しかたがない」で済まされることもあるが、「知らない」ことが、相手を傷つけ、相手の人権をないがしろにしてしまい、結果として「悪」につながってしまうこともあることを、あらためて感じた。
私自身も今までは聴覚障害について知らなかったことだらけである。彼女の母親から頂いた資料や、「どんぐりの家」「わが指のオーケストラ」などの劇画を読んで、聴覚障害やその教育の歴史について、わずかながらではあるがやっと理解できるようになったのである。
彼らだけを責めるわけにはいかない。彼女のことや聴覚障害について、もっと学校全体に広めていかなければと思った。なんとか彼女を全校児童の前で紹介したいと思い、その機会を探っていたが、その機会は思ったよりはやく訪れた。
全校児童の前で
私の勤務する学校では、始業式や終業式に「児童代表のことば」というコーナーがある。学年の代表の子が全校児童の前で、がんばったことや、めあてなどについて発表するのである。2学期の始業式は私のクラスからその代表を出す順番になっており、その代表に彼女がなったのである。そのことについては連絡帳で家庭にも知らせ、内容について考えておいてもらうことにした。
彼女が代表になりたいと手を上げたときには、本当に驚いた。一瞬ためらったが、しかしすぐに「できないことではない。願ってもないチャンスだ」と思い直した。私の一瞬の動揺を子どもたちには悟られまいと、すぐに何くわぬ顔で「それじゃ、つうやくしてくれる人は?」と呼びかけていた。
さて、夏休みも終わり、始業式当日。彼女が2年生の代表として前に立ち、まず私が、今から彼女が手話を使って発表することを簡単に紹介した。そのあとクラスの友だちに通訳をしてもらいながら、夏休み中の楽しかったこと、2学期にがんばりたいことなどを発表した。彼女はかなり緊張していたようだったが、それ以上に私の方が緊張していたかもしれない。1分足らずの短い発表が、とても長く感じられ、終わったときは「やった!」と心の中で叫んでいた。
この経験が彼女の自信となったのか、2学期は授業中の発表などもこれまでよりも増えてきたように感じられた。
言語訓練
前担任の勧めで、彼女は週に1回加賀八幡温泉病院での言語訓練に通っている。夏休みにその様子を参観させてもらう機会があった。言語療法士の先生の指導で発音と、唇の形から言葉を読み取る訓練をしていた。カードを使ってゲーム感覚で行われていたが、1時間近くもやっているとかなり疲れるのではないか。そして、いくらきれいな発音ができたとしても、それは彼女には聴こえない。周りの人の反応を見て確かめるしかない。ろう教育では過去に手話が禁じられ、口話教育だけがおこなわれていた歴史があったそうだが、それが子どもたちにとっていかにつらいものであったか・・・ほんの少しわかったような気がした。
それでも一生懸命取り組んでいる彼女の姿に、本当に胸が突かれる思いがした。彼女が私たち聴者とのコミュニケーションをとるためにこれだけの努力をしているのに、私たちはどうなのか?自分の中に「障害児教育の専門家ではないので本来はしなくていいことなのだが、がんばってやっている。だから、できなくてもしかたがない。」という意識はなかったか?何か「してあげている」というような意識はなかったか?そんなふうに問われたような気がした。障害をもつ人だけに努力を要求するのではなく、人と人が互いに分かり合おうとするならば、互いに努力することが必要なはずである。
手話による表現とコミュニケーション
最近、教室で興味深い光景を目にした。仲良しの二人の女の子(二人とも聴者)がいるのだが、その二人が少し離れた座席にいて、互いに身振り手振りに手話や指文字を交えて、何かを伝え合っているのである。教室の中はうるさいくらいにぎやかだった。たぶん、おとなしい性格の二人は、そんな中でも大きな声を出すことを好まず、手話や指文字を使ったのだろう。二人のしぐさが、とても微笑ましかった。その場面を見て、手話は聴覚障害の人だけのものではない、と感じたのである。
また、全校の子どもたちに手話を少しでも知ってもらいたいとの思いから、2年生が全校児童の前で歌を歌う機会には手話を使いながら歌うようにしてきたが、その歌の指導をしていて感じたことは、手話があるのとないのとでは、子どもたちの歌への「のり方」が違うのである。手話を使って表現する場合、普通の音声言語よりも表情が伴うことが多いので、手話を取り入れると必然的に気持ちが入ってくるようである。
私には、手話という言語は、単に聴覚障害の人たちの為のものにとどまらない、不思議な可能性を秘めたコミュニケーションの手段ではないかという気もしている。さらに関わりを広げて クラスの中では、子どもたちが、障害のことで笑ったり馬鹿にしたり、ことさらに避けたりということは、私の見る限り全くない。これは前担任の森中先生の指導のおかげである。しかし、それで私が安心してしまい、クラスの中での関わりをさらに広めていくための働きかけが弱かったように思う。
昨年度は別のクラスだった子もおり、彼女とのかかわりが希薄な子もいる。特に男子との関わりが特定の子だけに偏り、冷静に見れば男子はそれほど積極的に関わってはいないことに気がついた。また、これまでは彼女の隣に誰を座らせるかを配慮してきたが、それがかえって交友関係を狭めてしまったようだ。もともと積極的に人との関わりを求める子なので、機会さえあれば、もっと友だちとの関わりは広がるはずである。そこで3学期からは席替えはくじびきで行うことにした。
さらに、朝のスピーチでは全員が手話にチャレンジすることにした。「せっかくMさんと同じクラスになったのだから、少しでもいいから手話をおぼえよう。明日から、朝のスピーチは手話にチャレンジしてみよう。」と呼びかけると、子どもたちからは「ええ?っ!」という反応が返ってきたが、まんざらでもなさそうな顔もあちこちに見えた。まだ、1文か2文の短い手話であるが、ほとんどの子が思ったよりも上手にできている。これまではスピーチの時間には彼女は眺めているだけのことが多かったが、手話のスピーチが始まってからは、スピーチに対する質問や手話についてのアドバイスもするようになった。
2学期の終わりごろには、クラスの保護者の方が世話人となって、「親子手話教室」か発足した。先生はMさんのお母さん。地域の公民館を会場として月に1回行っていく予定である。今後も息の長い活動を続け、地域に定着してくれることを願っている。
「役に立つ」ことよりも豊かなものが
障害をもつ人と関わることで、「いろいろ勉強になるだろう」という言い方をされることがある。手話を勉強していると、「役に立つね」と言われることもある。確かに勉強にもなり役にも立つのだが、今の自分はそういう言葉を聞くと、何かちょっと違う、という気がする。
ろうの文化は私にとっては異なる文化。異なる文化に接しそれを吸収することは自分を豊かにすることである。立場や考え方や文化が異なる者どうしが関わりあう中で喜びを感じられることがあるのは、たぶん互いに自分の人生がなにかしら豊かになったと感じられるからだろう。勉強になるとか、役に立つという理由からではない…そんな気がしている。
まだまだ効率優先の考え方が横行する社会では、目には見えないが、失われるものはとても大きいように思う。多様な人が混ざり合い、関わり、時には衝突もしながら、共に生きていく。たぶんそれが自然で、幸せな状態なのだろう。障害をもつ人と、そうでない人とが、日常的に触れ合うことができないような状態は決して良いとは言えない。
ある講演会で「障害をもつ人が笑顔で暮らせない社会は、健常者にとってもいい社会ではない。」と言っていた人がいた。
これまでは「障害」の問題を自分とは縁遠いものにしてしまっていた私だったが、この1年間の彼女との関わりを通して、今この言葉が実感として受け.止められるようになってきている。
共同研究者:安藤(全日本ろうあ連盟)
地域の学校で周りの人や先生に支えられて子どもが成長するのは大変良いことだと思うが、なぜろう学校でなくて地域の学校なのか。地域の学校に入った経過を聞きたい。
レポーター:梶原(石川県聴覚障害者協会)
子どもは小さい頃は口話主義のろう学校に通っていた。子どもが生まれて聞こえなかったので、ろう学校に行くと、以前と何も変わっていない。新しい変化がなく昔のままであることに不満がつのった。家の中でも口話の勉強をすべきと言われたが、私自身は教えることができない。口の形だけでいいと言われたが、私はそれだけでは嫌。やっぱり手話がいい。キュードスピーチもあったが、私は読み取れないし分からない。小学部1年の時、手話をしてほしいと言ったが、小学2年、3年になっても変わらない。私は、子どもに「耳が聞こえないのだ」とはっきり言って、その上で友達と交流してほしいと思っていた。卒業したあと社会人になったら、必ず聞こえる人達と一緒に生活していくわけだから、地域の小学校がいいかなと思うようになった。息子は自分から地域の学校に行きたいと言った。理由の1つは地域の友達がほしいということ。もう1つは、ろう学校は人数もクラブ数も少ないが、普通学校はたくさんあり、挑戦できる場がほしいということ。要望が息子からあった。下の娘に息子が「途中で普通学校に変わったのは大変だった。最初から地域の学校に入ったほうがいいよ」と自分の経験から言ってくれ、娘は最初から地域の小学校に入学。友達ともずっと一緒なので、手話でコミュニケーションしている。それで問題ないと思っている。
花畠(大阪)
私はろう学校を卒業し、普通大学に通った。レポート発表を聞いて、確認したいことがある。「ろう学校に行かなかったお陰で、スムーズに手話を身につけられた」というレポートを読み、おかしいなと思ったのだが、説明を聞いて納得した。ご両親が手話を教えたのですね。娘さんは、自分が聞こえないことを理解しているのか。
レポーター:梶原(石川県聴覚障害者協会)
娘は自分の耳が聞こえないということは分かっている。小学校1年の頃に、娘が「お母さん、わたし、耳が聞こえないの?」と言った。「そうよ」と答えると「家族みんな聞こえないのだよね」と言う。また「そうよ」と答えると「分かった。それでもいいよ」と言っていた。「聞こえる人はいいね、便利だね」とも言っていた。