2.私の経験
私自身は生まれつき聞こえないのではなく、小3の初め頃までは聞こえていました。そういう面では中途失聴者です。9才頃から手話で話をしていました。聞こえなくなった後、普通の小学校からろう学校に転校しました。ろう学校では、周りの友だちも先生も手話で話をしていました。その頃、幼稚部では、口話教育、口話で話をしていましたが、小・中学部では手話で話をしていました。初めは、手話ができなくていじめられました。「おまえは、男か女か?」と手話で尋ねられ、「女」と答えて笑われたこともあります。でも、少しずつ手話は覚えていきました。ろう学校のクラスは二つに分かれていました。たとえば国語の朗読。口話クラスは、教科書を口話で読みます。手話クラスは、手話で朗読します。どうしたら上手く手話で表現できるか考えることが必要でした。でも、休み時間は一緒に過ごしました。ですから、口話だけのクラスの人も自然と手話を覚えました。
私の小学校時代は、まだテレビはなくラジオの時代でした。今で言うテレビドラマと同様にラジオのドラマがありました。例えば、「君の名は」「鐘の鳴る丘」など、毎日連続しているラジオドラマでした。子ども向けの番組もありました。放課後なんかに、その番組の内容を先生が手話で説明し、小・中・高関係なく、集まってその話を聞いていました。そのため、子どもの時から口話・手話ともに違和感はありませんでした。
先生に怒られた経験が2回あります。同じ先生にです。1回目は、先生に□話と手話で話をしたためです。私は口で話せたので、手話はいらなかったのです。2回目は、手話クラスの友だちと話をするときに、口話だけで話しかけてしまったためです。口話で話すのは、相手に失礼だと叱られたのです。
聞こえる人との関係では、私が聞こえなくなった時、小学校の友だちが来てくれても私は会いませんでした。会いたくなかったので、押入れの中に隠れていました。聞こえなくなって恥ずかしい、前の友だちとは会いたくないという気持ちでした。
ろう学校では、地域の小学校との交流がありました。私が入学する1〜2年前から交流が始まり、7〜8年続きました。50人〜60人くらいの子どもが地域の小学校へ移り、しばらく通い上手くいけばそのまま、上手くいかなければろう学校へとなりました。
地域の小学校では自由なおしゃべりができず、3時か4時に学校が終わってからろう学校に帰り、そこでいっぱい話をする。そして、次の日にはまた地域の小学校へ行っていました。中学校でも同様に、それがあたりまえでした。聞こえる人の中では話が分からないので寂しい思いがありますが、ろう学校では手話で話をして元気になりました。
一番のびのびできたのは小学校の時です。中学校では「みんな聞こえる人で寂しい。」、高校では「自分はなぜ聞こえないのか、孤独だ。」などと日記に書いてあります。小学校の時は、体を動かすことが多いので、それなりに付き合うことができました。中学校では、言葉のおしゃべりが増えてきます。グループを作っておしゃべりをすることが多くなります。でも、その中にはなかなか入れず寂しいので、ろう学校へ行って手話で話をしました。それに、中学・高校はいわゆる進学校だったので、高校・大学を目指すのがあたりまえで、それなりの競争がありました。友だち同士ではあっても、距離があったと思います。
小学校は大阪の東成区で、韓国・朝鮮人が多い場所でした。クラスの半分くらいは在日韓国・朝鮮人で、日本名に変えていますが、戦争に負けた直後で差別がひどかったです。まだまだ差別の多い時代ではありましたが、韓国・朝鮮の子と日本の子が仲良くするにはどうしたらよいか、学校でも考え、差別をなくそうと努力もしていました。そこへろうの子が入ってきたわけですが、そういう状況だったこともあり、それほど差別というものは感じませんでした。ですから、すべての差別をなくす取り組みが、ろうの差別をなくすことにもつながると思います。
私が子どもの時にどんなことをやっていたかを改めて言いますと、中学の時に甲子園の大会に出ました。種目は鉄棒です。今はお腹も出てきましたが、その当時はがっちりした体型でした。なぜ鉄棒かといいますと、100%個人競技だからで、やはり団体スポーツはやりにくかったのでしょう。
家ではどうだったかと言いますと、家と学校が離れていて、電車で通っていました。ですから、家の近くの友だちと遊ぶことはなく本を読むだけでした。今は貸しビデオですが、当時は貸し本がありました。普通一泊二日で1冊8円、よく借りたのは「明星」「平凡」という雑誌です。映画や歌手のアイドルが載っていましたから。
途中から聞こえる学校へ行くことになったので、歌の話題が多くなりました。本を読んで歌手のことなどを覚えるのが楽しかったのです。話題ができるからです。今でも懐メロなどをテレビで見ると、懐かしく楽しいです。リズムはわかりませんが、歌詞は覚えています。
最近、ろう文化に歌は関係ない、手話だという考えがありますが、視野を広げていくことは大切なことだと思います。外国人から見ると、刺し身を食べる日本人は、生きた魚を食べるので残酷だという意見があります。一方、中国では動物の脳を使った料理があります。日本人はそれを見て残酷だと思いますが、中国人はおいしそうに食べています。これは、お互いの文化が違うからです。外国人もおすしを食べるようになってきました。牛の脳みそも食べてみると案外おいしいのでは…とも思います。ある考えを誇示して、他の考えを寄せ付けないのはどうかと思います。
高校では孤独感を感じ、ろう学校へ行くことが多かったです。しかし、決しておとなしい子ではなく、教室の机を前後あべこべに向け、いつも通り先生が入ってくると生徒はみんな後ろを向いている、そうしたいたずらが好きだったようです。自分では覚えていないのだけれども、同窓会に行くと友だちがいろいろ言ってくれるのです。
ろう学校も普通学校もどちらも大切な母校で、クラス会などには必ず出席しています。ただ、勉強はろう学校で3年、後は普通校でしたが、普通校の先生が言われることはほとんど分かりませんでした。連絡事項は隣の子が書いてくれましたが、たまに忘れることもありました。衣替えの連絡があった時に一人だけ違う服で登校したこともあり、母親は「間違えてもいいじゃない。」と言いましたが、私は気が小さいので、恥ずかしくて学校を休んだこともありました。
今は丸くなりましたが、子どもの時は意地っ張りで、人に頼るのがいやでした。だから、小・中・高と先生の授業をノートに書いてもらうことをお願いしたことはありませんでした。それでも、大学の時に一度だけお願いしたことがあります。きれいな女の子に会うきっかけとしてノートを書いてもらうことをお願いしました。9月に実は交際したいんだと打ち明けましたが、別に好きな人がいるということで、そのあとノートのお願いはやめてしまいました。学校では、教育権は保障されていなかったわけですが、今後変えていく必要があると思います。とにかく、二つの学校が自分にとっては大きな経験となっています。少しはましな人間になれたように思います。