4.新しいろう学校の専門性
20世紀最後のところで、ろう学校の変化を考えると、ろう学校自身がもっと柔軟になっていかなければいけないということ、それから学校が親や地域とつながっていかなければいけないということが出てきました。もう1つ、ろう者の力を学校に取り込んでいかなければいけないという考え方が出てきています。この中で揺れているのが、今のろう教育だと思います。揺れているのは何かというと、今言った変化の中で3つの専門性がそれぞれお互いに関係を調整し合うというか、どう共存するか、あるいは戦うかという状況が生まれているのです。
3つの専門性の1つは障害をおぎなうという今までろう教育が作り上げてきた専門性を維持しつつ、更に発展させていこうという考え方。ろう者の社会参加を支えてきた従来の専門性をしっかり受けつぎ、発展させようとする流れです。その中には口話法、聴覚法もあるかもしれません。過去には新しかったものでも今は定着しているもの、従来からのものをもっと発展させようという流れがろう学校の中にあります。今の時代に昔のレベルから落ちてきているのではないか、ろう教育が積み上げてきた専門性が落ちているのではないか、どんどんなくなっているのではないかという不安があります。それを何とかしなければいけない、せめて維持しよう、できれば発展させようという考え方があります。
2つ目は、今まで既にある専門性ではなくて新しいろう教育の専門性を確立していこうという流れです。新しい専門性とは何か。代表的なのは手話を使った指導、バイリンガル教育に代表されるものかもしれませんが、今まで十分に考慮されてこなかった、ろう者らしさ、ろう者の力を教育の中で発揮していくための専門性をもっと確立していかなければならないという考え方です。
3つめには、ろう教育の枠組みはこのままもたないのではないのか、ろう教育の考え方自体を壊して、もっと広い領域でものを考えていかなければならないと言う人たちがいます。特殊教育全体ではそういう流れが結構あります。個々の障害領域に対応した専門性よりはさまざまな障害に対応できる力を教員が持たなければいけない、あるいは学校はさまざまな障害に対応できる力を持たなければいけないという考え方も、特殊教育の世界にはあります。
今、ろう教育、聴覚障害教育の中で専門性を考えるとこのような3つの流れがあって、それがさまざまな形でぶつかったり一緒になったりします。それが結果として現れているのが口話法と手話法の対立の形だったり、ろう学校での教育とインテグレーションの教育であったりします。単純ではない変わり方を、我々が今後どんなふうに受けつぐか、あるいは方向を定めていくのか、難しいところです。ここまでが、「ろう教育の新しい姿を求めて」の前説として、古いろう教育と今のろう教育の話です。
ろう教育という専門性をきっちり作っていこうとしてきた中で、ろう者の社会参加の仕方、教育全体のあり方が変化してきて、教育そのものも変えていかなければいけないという揺れが出てきました。未来のろう教育は一体どうなるのかと考えると、50年とか100年先にどうなっているかは想像ができません。今の流れが続くのであればということなら考えられますが、100年後はとても考えられる問題ではありません。ろう教育という専門領域が果たして今のままあるかどうか分かりません。ろう教育というか聴覚障害教育と言ったほうがいいかもしれませんが、今、聞こえない人たちの教育として一本にまとめようとしているものが、将来はもっと細分化しているかもしれません。ろう教育と難聴教育が全く別な教育になっているかもしれません。それから、「盲」と「ろう」の2つの障害がある人たちの教育がもっと充実して独立した専門領域を持っているかもしれません。その他ろう重複と言われている人たちの教育がもっと深くなっている可能性もあります。その子の生活環境の違いで全く違った教育が設定されるかもしれません。
今、我々がここに集まり、ろう教育とは何だろうと考えている内容が、どんどんそれぞれの関心事で分かれていって、全く別の専門領域になっている可能性もあります。逆に別な統合のされ方があるかもしれません。今、我々はろう教育を障害児教育の中に位置づけていますが、場合によっては100年後には民族教育とか異文化教育の領域で論じられる教育になっていて、障害児教育とは切り離されることがあるかもしれません。とにかくずっと先のことは分かりません。
学校教育という体制にしましても、100年後にはこのまま残るかどうか分からない面があります。子ども達が学校に集まり、同年齢で分けられ、教科で分かれて、同じような期間を経て卒業していく。1人の教師が大勢の生徒を教える一斉授業を基本としている。当然ここで作られる集団がいろんな意味を持っているし、子どもたちの発達に影響を与えていきます。いい影響もあるし、十分な影響を与えてないこともあるかもしれません。しかしながら、時代がかわりインターネットなどでの学習が導入されたり学校の役割がかわっていくと、何も学校に行かなくても学習はできるじゃないかという考えが出てきたり、学校ではなくて地域や任意の団体が教育力をもっと発揮していったりすることがあるかもしれません。今は教育については国のレベルである程度の責任を持ちつつ、徐々に各都道府県や市町村の特色あるいは学校自体が特色を出していって、さまざまでいいよという時代に変わってきたわけです。大きなところでは変わらないけれども、その中で柔軟性を保っていくというのが今の変化です。しかし100年後はどうなるかわかりません。
さらに、日本語とかリテラシーという言葉――読み書きの力ですが、日本語を操る、あるいは日本語に関わるさまざまな力を操っていくことを考えた場合、日本語とかリテラシーの機会が変わっていくかもしれません。日本語自体が時代とともに変わってきています。今出てきているのは、手で字を書くことがどんどん少なくなっています。キーボードで入力するような活動が増えているし、インターネットとか、電子媒体で供給されたり、やりとりしたりするような言語が増えています。我々が言葉を学習していくプロセスとか、やりとりするプロセスが従来の方法と変わってくる可能性があります。そうすると日本語の形は今と同じなのだろうか。ろう者にとっての言語も、今の延長で考えていいのだろうか。そういう疑問もあります。100年後どうなっているか、そういう意味でも不安なところがあります。そういう大きな変化を考えると、ろう教育の未来はどうなるか、なかなか言えません。
このようなことですので、ごく近く、数年後、十数年後ぐらいを考えながら、こうなるのじゃないか、あるいはこうなってくれるといいなということを少しお話して、終わりにしたいと思います。
まず、21世紀、これからの時代、ろう学校のあるべき姿とは、常に社会とのつながりで考え、ろう学校に在籍する子どもたちがどういう教育を受けたらいいかというのは、ろう学校の先生だけではなくて、まずろうの子どもたちの期待や希望、それから親の希望、期待、その子たちが多分将来一緒に暮らしていくだろう地域の人たちや地域のろうの成人たちの願いや希望を集めて、議論をする必要があるのではないかと思います。
21世紀の特殊教育の在り方について
第1章 今後の特殊教育の在り方についての基本的な考え方
第2章 就学指導の在り方の改善について
第3章 特別な教育的支援を必要とする生徒への対応
第4章 特殊教育の改善・充実のための条件整備について
なぜそう考えたかというと、10年ぐらい前にアメリカでカリフォルニアのフリーモントというろう学校を見学したことがあります。ちょうどその時、スクールバリューすなわち学校がどういう目標に向かうか、学校はどうあるべきかという、学校の価値をみんなで話し合っていました。まずは学校の先生たちが集まり、この学校をどういう学校にしたいか、みんなに意見をどんどん出させました。先生たちは自分たちの学校はこうあってほしい、こうなるべきだという意見を出していきました。それと同時に、子どもたちがこの学校でこうしたい、自分たちはこの学校にこうなってほしいという意見をまとめていきます。地域の人たち、あるいは地域のろうあ協会の人たちが、我々はこういうろう学校であってほしいという意見を出していきます。専門家が集まり意見を出します。こういう意見をずっと集めて、私たちの学校はこういう学校としていくという学校目標とか学校の使命を明文化する作業をしていました。アメリカから帰る時にはそれが終わっていました。一緒に子どもたちを育てていくのだ、育った子どもたちは自分たちと一緒に生きていくのだという思いをみんなが共有しながら学校のあり方を考えていくのは、とても大切だなとその時思いました。ただ、困難もたくさんあります。先生だけで決めると楽です。似たような考えが出るのでまとまりやすいです。親や子どもや地域の人たちの意見が入るとまとまらなくなる可能性があります。それぞれの問題点、それぞれが抱えている困難な部分を学校が引き受けなくてはいけなくなるかもしれません。学校がお願いするだけでなく、地域から出る問題、親が抱えている問題、ろうの集団が抱えている問題を学校側が一緒に解決していく責任を負わなければいけないかもしれません。連携でメリットがあるだけではなく、連携での困難も同時にあります。でも、それを超えて何かの形で進んでいく必要があると思います。
それから学校の主体性をもっと考えていかなければなりません。地方分権一括法の話をしましたが、校長先生が民間から入ることも可能になってきたり、学校が独自のプログラムを作ったりすることに関しても、より柔軟な対応がされるようになりました。財政的な問題は解決していませんが、柔軟性は増しています。その中で学校は自分たちの特色を出していく、そして親や子どもたち、社会にアピールすることが大切だと思います。実際にやっている学校もあります。学校開放講座のような形で非常に特色のある活動をしている学校が全国にいっぱいあります。これからそういうことをもっと考えていかなければいけません。それから、教育評価をもっとしっかりやっていかないといけません。今までろう学校も、我々研究者もそうですが、AとB、どちらの方法がいいだろうという研究が多かった。例えば口話法と手話法ではどちらが効果があるか、非常に大きなテーマの研究です。現実に学校がうまく機能することを考えると、例えばある学校で手話法が非常にいいという結論が出たところで、他の学校がそのとおりやればいいのかというと、なかなかそうはいかない部分があります。方法論だけで考えていると、現実に学校の中で動かないこともあります。結局、学校の目標は何か。子どもたちがどうなったら学校としては目標を達成したと考えるのか。子どもたちにこうなってほしいという目標を、実際にどうしたら実現したか分かるような目標に言い換えていく。それを実現するために何が必要かをみんなで考えていく。同時に、どうしたらそのことが評価できるのかを考えていく。そしてフィードバックしながら、学校がちゃんと機能する体制を作っていくことが重要だと思います。他のところでこの方法がうまくいった。だから自分のところも使ってみようということだけでなく、今いるその学校の特色を考えた上で教育評価をすることがとても重要だろうと思います。