記念講演
ろう教育の新しい姿を求めて
国立特殊教育総合研究所
小田 侯朗
1.石川のろう教育の始まりと19世紀のろう教育
何度もこの集会に出ていますので、今さら記念講演をさせてもらっていいのかなという気持ちもしますが、名誉なことなので精一杯お話をさせていただきたいと思います。
20世紀から21世紀になりましたが、20世紀はいろんな努力があったと同時に、いろんな間違いもあった世紀でした。その過ちを正しながら未来に向けて進んでいくのが我々の責務です。大げさな始まりになりましたが、この講演も訂正から始めます。レジュメに間違いがありますので、その訂正をしながら話に入ります。
金沢盲唖学校が明治14年に設立されたとありますが、これは間違いで、石川県の教育長さんの祝辞にあるのが正しく、明治41年に設立されました。先駆的な学校と言いながら、あまり早くないではないかと思われる方もいらっしゃるでしょうが、これも教育長さんの話にありましたが、明治13年、非常に早い時期に京都の盲唖院に遅れること2年ぐらい、一瞬輝くような形でろう学校ができています。私立の金沢盲唖院です。この設立に努力されたのが松村精一郎さんというろう者です。1849年生まれで、明治13年には31歳の若い方です。6歳の時に庖瘡で耳と口と足が不自由になったと記述している資料と、12歳の時に病気でろうになったという資料があります。いずれにしても、我々の先駆者であることには変わりありません。勉強がお好きで東京に遊学され、中村敬宇先生に師事していろんな勉強をされました。地元に帰り、ろう教育の必要性を感じたのでしょう。京都盲唖院に行って勉強したり、ろう教育の必要を説いた文章を出したりしました。ろう教育に対する理解のなかった時代で、親が子どもを学校に入れることを考えなかった時代でした。そんな中で経済的な苦労もあって、明治15年に金沢教育社に経営を移管しました。その後、金沢教育社自体も解散し、明治20年には金沢盲唖院は廃校になってしまいました。機能したのは短く、生徒もそう多くはありませんでした。
その後20年近く石川のろう教育は空白の時代があり、新しくできたのが私立金沢盲唖学校です。それが明治41年です。設立に努力したのが上森捨次郎さんで、10年ぐらい小学校の先生をされた後、金沢市市会議員になって各地を視察する中で盲ろう教育の必要性を感じたようです。こういう組織は公的であるべきだという信条でしたが、なかなかそれが進まず、結局私立で立ち上げました。その後公立に移管されましたが、開校時は先生たちも十分技術を知らないので、1ヵ月ぐらい京都のろう学校で研修し、開校時のあいさつを上森さんは手話でされたそうです。昨日金沢に着き、石川のろう学校に電話を差し上げたところ、校長先生がいろいろな情報をくださいました。盲学校を紹介していただき、盲学校の校長先生とお話ししました。昨日レジュメの間違いをお詫びするとともに、この教育へのご尽力に敬意を表して上森捨次郎さんのお墓参りをしました。
川北病院の裏手に堅正寺というお寺があり、そこに立派なお墓があります。ここから歩いていけます。昭和50年ぐらいに、当時ろう学校の先生だった方が堅正寺の住職になられたきっかけもあり、卒業生が毎年お盆にお墓参りしているようです。石川のろう学校、盲学校は歴史を大切にする学校だと感じました。ろう学校、盲学校の校長先生にこのことを教えていただき感謝いたします。
この金沢盲唖院という松村さんが努力された学校ができ、その亡くなる前の1889年、明治22年に、石川倉次という人が,ある文章を残しています。明治22年、当時のろう学校の先生がどんなことを考えていたか、将来のろう教育についてどんな希望や使命感を持っていたか、よく表われていると思います。「明日への希望」という文章で、「第1に通意術を授けたまえ、第2に自活の法を教えたまえ」と書いてあります。コミュニケーションの方法と社会自立の方法を教えてくださいという2つが最初にあります。そのあとには普通の聞こえる人の話し言葉や文章を間違いなく私たちが知ることができるように教えてください、それから私たちが考えたことを聞こえる人に間違いなく伝える方法を教えてくださいと、コミュニケーションの受容と表出の両面について書いてあります。それから最も少ない時間で最も覚えやすく教えてください、自分で分かることはわざわざ教えてくれるなと書いてあります。最後に、情報を伝えてもらうだけでなく、自分で学んでいける方法を教えてくださいと書いてあります。この内容は、今私たちが考えることとほとんど変わりません。聞こえる人とのコミュニケーションが中心になっていて、聞こえない人同士のコミュニケーションとか、いろいろな立場のコミュニケーションに広げてもいいのではないかとは思いますが、基本的には、今我々が取り組んでいるろう教育と全く一緒です。逆に言うと、まだ解決していないということも言えます。こういう願いが、19世紀の最後、20世紀に入る直前にありました。
もう1つ、1898年にアレキサンダー・グラハム・ベルが来日し、これからのろう教育のあるべき姿について勧告というか話をしました。それを見ていただきます。1つは、ろう学校の教員の養成機関を作るべきだということ。盲教育とろう教育を分けようということ。協会を作って、ろう教育について社会に刺激を与えること。ろう学校に口話法を採用すること。口話法はベルの主義でした。5つ目に、ろう者の社会的地位の向上と社会の理解を広めることを言ったわけです。これらを見ると、ベルの価値観とか主義主張への賛否は別にして、20世紀後半である現在のろう教育はそれを実現してきました。その意味ではベルは先を見ることのできた人なのかもしれません。
ベルが言ったこと、その前の石川倉次もそうですが、このあたりから幾つかねらいの基本が見えてきます。1つは、ろう者が聴者と同じ能力を身につけるよう努力すべきだという考え方があったと言えます。聴こえない人たちは聴こえる人たちと同じ、あるいは非常に近い能力を持つように努力していく、そのために教育も努力していく方向性です。それを実現するために2つのことがあります。専門性を確立すること。教育の領域として、ろう教育独自の深い専門性を持つべきであるという考え方です。盲学校とろう学校を分離しようというのは、盲教育とろう教育は違った専門性を持っているということです。2つ目は、そのための教育体制を整備すると言っています。このあたりについては、先ほどの松村精一郎も、建白書というか「盲唖院設立の議」という文章の中で、教育機会の均等や、ろう児の社会自立の援助を書いており、ベルとか石川倉次と通じるような意見を持っていました。
アレキサンダー・グラハム・ベルの勧告
1898年(明治31)11月12日
東京盲唖院主催講演会にて
1.聾学校の教員養成機関を設置すること
2.盲と聾を分離して各県が必ず1つの盲学校と聾学校を設けること
3.協会を設け、聾教育について社会に刺激を与え、公衆の感情を興起すること
4.聾学校において口話法を採用すること
5.聾者の社会的地位の向上と社会の理解を広めること
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