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あの戦争から得た教訓
菊池 浩(きくちひろし 一九一二年生)
 
 過日の某新聞の記事によれば戦前の一日、日本の某外交官が仏国のクレマンソー(一八四一−一九二九)と会談した際に、彼は太平洋を中にして対峙する日米は将来必ず戦争に到るであろうが、日本は絶対に交戦すべきでないと忠告したそうである。その理由は、幾つかの戦闘では勝つ事もあろうが、その生産・工業力では十倍以上ある米国には到底勝ち目がないからだと言ったそうである。今にして思えば誠に大局を達観した大政治家の言であると感嘆せざるを得ない。こうした外国の軍人政治家を偲びつつ戦前・戦中・戦後の我が国の陸・海軍の軍人及び軍人政治家の言行を思い出し、あの戦争の有り様を追憶してみたいと思うのである。
 満州事変の発端となった柳条湖事件(昭和六年[一九三一年]九月十八日)、満州国の建立、そして日中戦争の発端となった蘆溝橋事件(昭和十二年[一九三七年]七月七日)等はすべて、唯我独尊ともいうべき、中央の指揮・命令に従わぬ巨大な関東軍が作り出したものであった。
 当時の斎藤実内閣の内田康哉外相は議会で「国を焦土と化すとも満州国を承認する」と言って、焦土外交と内外の批判を浴びたが、計らずもこれが後日実現したのは何たる皮肉であろうか。
 こうした事を背景にして、リットン報告を受けた国際連盟が満州に於ける利権の縮小・放棄を迫るや、当時の東条陸相は「靖国の英霊に対して申し訳ない」という美辞麗句を以て、関東軍そして全陸軍の主張を支持し、万一の日米開戦の場合の敵機襲来を懸念しての問いに対しては「敵機は一機も入れない」と何等の根拠のない空理空論の豪語を以て答え、これに反する万一の場合の懸念を開陳する政治家・民間人は、非国民・売国奴ときめつけて、憚らないのであった。
 思うにこうした頑迷・固陋な言動は全陸海軍にはびこつていたので、そのよって来る根源は誠に根深い物であった。その幾つかを挙げてみたいと思うのだが、それが結局勝つ見込のない戦争に引きずり込み、ややもすれば一億全国民をも犠牲にしょうとする寸前にまで立ち至ったと思うのである。
 二〇〇一年という新世紀を迎えるに際し、各方面で前世紀を振り返り、個人的には自分史を編む試みが数多くあったようだが、二十世紀は戦争の世紀という人もある程、戦前・戦中・戦後の難行・苦行が話題に乗っている。その中で戦争を体験した人の多くは戦前の我が陸海軍の有り様を述べている。私は幸か不幸か軍隊生活の経験はないのだが、友人・知己の多くは陸海軍の所謂「赤紙召集」を受け、軍隊生活の呪うべき古参兵による体罰横行の地獄図を語っているのである。
 しかも彼ら古参兵は二言目には、陸海軍大元帥である天皇の御名を濫用して、己が言動を弁護し、得意になっていたのであった。然も日米開戦近くになると、全陸海軍が天皇は、現御神とか現人神と称して、人間である天皇を故意に神格化して、陸海軍の言動はすべて天皇の御意志であるが如く強調したのであった。
 また軍隊には明治十五年、軍隊に下された軍人勅諭と称する条文があり、軍人は政治に関与せずに、忠節・礼儀・武勇・真義・質素を旨とすべき事を説いており、これは極めて適切な教訓で、我々も中学時代にその五箇条五行を覚えたのであった。ところがこれには、そのそれぞれに詳細な敷衍・説明が長々と文語体でついており、全文は一読するのも大儀な程難解な代物であった。そして戦争前後には、なんびとの発議か知らぬが、この全文を暗記せしめたのであった。幹部候補生として近い将来に少尉任官を希望する者は勿論、その他の者も、この全文暗記に苦しめられたのである。実に馬鹿らしい無益の頭脳労働で、これが当時の軍隊の実態の一部であった。
 しかるに更に驚くべき馬鹿らしさは「戦陣訓」という戦争中の心得なる物を作って「虜囚の辱め」を受けざるよう説く録音盤を全国に配布までした。要するに陸海軍の要職者は、新しい世界の軍備状況に目をやらず、その古い頭の切り替えが出来なかったのであった。
 その一つに、開戦の翌年の昭和十七年(一九四二)四月十八日(土)の、ドウ・リットル米将の率いる空母から発進した空襲がある。損害軽微と発表されたが、数百の犠牲者が出たという。この超低空襲撃に備えた軍の防備は、その後東京湾周辺に見られたアド・バルーン様の防空壁であったが、勿論これは後日のB 29による超高度の写真撮影や終戦年の空襲には何の効力もなかった。
 なお我々民間人が強制的に整備を命じられた各戸必備のバケツ及び火たたきがあったが、これは後日の空襲に対しては何の役にも立たなかったのは周知の通りである。後で知った事であるが、軍の薦めた防火の為のバケツや火たたきは、江戸時代の防火の絵図面に残されている物と殆ど同じであるのを見て唖然としたのであった。
 敗戦濃厚となった昭和二十年後半に入っても軍は依然として徹底抗戦・一億玉砕を主張し続けたが、結局その強硬な軍も終戦せざるを得なかった直接の原因は、広島・長崎に落とされた二発の原子爆弾であった。だから原子爆弾こそ終戦をもたらした神風であると言う人もある。核爆発による大量破壊の理念はいち早く日本の科学者も着目し、我々素人もこれによって、或いは最後の勝利がもたらされるのではないかと、一縷の望みを持っていたが、いずくんぞ知らん、日本の原子科学者は既に理論的には完成していたが、その開発・実施に要する膨大な費用の出所がなく、断念した事を軍当局に具申していたのであった。
 一方米国では、ユダヤ人の故でナチス・ドイツにより故国を追われたアインシュタイン等の原子科学者が、無限大の研究費用と絶大な庇護を受けて、終にこれを完成し、二十年八月に所有していた僅か二発が有効に使われたのであった。
 当時日本では、誰が発意したかは知らぬが、風船爆弾なる物を案出して、おびただしい女性を動員して、東京の有楽町にあった日本劇場で、昼夜兼行の物凄い強制労働奉仕の結果、何機かを、風向きの良い日に、飛ばしたそうだが、テキサス州辺りの無人の荒野に落ち、牛を一匹殺したそうである。今聞けば笑い話のようだが、この計画を聞いた時に、実に馬鹿らしい、無駄な事だと思ったのは私ばかりではなかろう。然しこれを口にすると、忽ち非国民のレッテルを貼られ、親・兄弟・勤務先にまで迷惑のかかった時代であった。
 現に私の友人に戦況等をいち早く入手する者が居たが、隣組の会合の時にその一端の戦況不利を漏らしたところ、憲兵の耳に入り、捕らえられ尋問の苦痛に堪えきれず、自殺を図ったが果たさず、勿論勤務先は追われ、田舎に落ちのびた者がいる。戦後その友人の言は全く真実であった事が判明したのであった。
 当時は既にガソリンは無く、軍の命令により松根油の製造が各方面に課せられた。長年農夫として田畑を耕作し、筋骨たくましい小生の親戚の一人もこれに従事したが、盤根錯節式に入り組んだ松の根の採掘は実に難事業で、こんな骨折り仕事は初めてだと言って困っていた。さてこの松根油は飛行機を飛ばすに役立ったであろうか。
 要するに陸軍は日清・日露の戦果を忘れ得ず、迫り来る敵前上陸も、一億玉砕の水際作戦で最後の勝利を得るという考えを捨て切れなかったのであろう。
 また海軍は日本海大海戦の勝利を忘れ得ず、大艦・巨砲主義を最善・最高と信じ、戦艦「大和」・「武蔵」の活躍に望みを託したのであろう。
 我々素人でも思いつく、開戦時のハワイ沖真珠湾の襲撃、マレー沖の英戦艦「プリンス・オブ・ウエイルズ」と「レパルス」の撃沈でも示された飛行機の援護・活躍を忘れたのは何故であろう。冒頭に述べたクレマンソーの言「生産力の優れた米国とは戦うべからず」を思い出さざるを得ない。あの戦争で得た物は旧陸海軍の消滅である。








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