5 戦争観
生き残った者から
寺田 豊子(てらだとよこ 一九一九年生)
はじめに
「私はあの戦争をこう考える」ということについて、今や遠くなった記憶を私の若き日の記憶をとり戻すためにしばし振り返ってみよう。
歴史的には第二次世界大戦とか、太平洋戦争とか、遡って日中戦争とか言うが、私は大東亜戦争と口をついて出てしまう。
昭和十六年(一九四一)十二月八日。それは暁の夢を破って挑戦的なチャイムで始まった。―大日本帝国は戦争状態に入れり―と。既に戦争に向けてもう数年前から徐々に生活の窮乏は迫っていた。でも私たちは文句一つ言わず国策に沿ってきた。
昭和十七年、私は恋をしていた。後に夫となる彼は、大学の卒業を繰り上げての徴兵検査であったが、眼の患いの為に丙種合格(直接の兵役は逃れられる)であり、あのニュースに出て来る学徒出陣には入らなかった。其の後、直ちに軍属として日本放送協会(今のNHK)の技術部に入る。そして、日本中が涙にくれた八月十五日の天皇の詔勅録音のメンバーだったのである。
その頃、私はすでに数年前から保姆をしていた。幼児を預る施設、幼稚園とか保育園はみな戦時託児所という名称に変り、当時、疎開できない幼児を十数名預っていた。運動場の真ん中に掘った防空壕に空襲警報が鳴るといち早く幼な子を駆りたててそこへ身をひそめる。真上をあのB29が鈍い音からだんだん高い音になり、キーンと近づくと生唾を飲む。やがて去ったことが確認できると子どもたちを外に解放する。そんな生活であった。
そして、昭和二十年五月二十五日の空襲で夫の家も私の勤務先の託児所も跡かたなく焼け落ちてしまった。当時、夫の家族は疎開していて空っぽであったため、自動的に私たちは住むことになってしまっていた。結婚式も指輪も誓いの言葉もないままに。
神風は吹かなかった
明治時代、日清・日露の戦争で勝ちを誇り、第一次大戦を通り抜けると日本の国は図に乗り出したのか、富国強兵へとどんどん進んでいったらしい。私が物心ついた頃より五・一五事件、盧溝橋事件、二・二六事件(雪のさ中、女学校への登校を阻止され家に戻されたのをありあり覚えている)が起り、私も何か少しずつ不穏なものを感じてはいたが、やがて、シンガポール陥落万歳と提灯行列で有頂天になったのも風景として覚えている。
真珠湾以後、我々の眼や耳にする報道は落ち目落ち目であるかに思えたが、国民に本当の戦況なんか伝えていなかった。負けの報道は伝えない上意下達が徹底していたのだろう。特高(特別高等警察)というものが眼や耳を光らせていたから、国家に楯つくことはできなかった。それでも神風が吹くと信じていたなんて、思えば悲しい思い出。
そして原爆の洗礼。もはや力尽きたと思われるのに、まだ信じきれない権力者もいたらしい。紙一重で命を失った人。今思っても無念さがこみ上げてくる。幸運にも生き残った私は申し訳けなく思う。
とり戻した市民生活
一九四五年八月十五日。この日を境に戦後が始まった。電燈を掩っていた燈火管制の黒い布をはずした時のほっとした気持。屈辱・安堵・不安の入り交る中で、厚木飛行場に下り立ったマッカーサー元帥という人が印象的であった。敵は「鬼畜米英」ではなかった。やがて混乱の中から民主主義が与えられ、何より私たち女性は参政権というものを手に入れ、初めての投票をした時は、これぞ一人前のおとなになれたと胸を張ることができた。
しかし、現実はきびしい限り。雑居生活の大人数の胃袋を賄う苦労は並大抵ではなかった。闇物資はあったが、とびつくわけにはいかず、母と日々の買い出しに出てはその日暮し。藷やすいとん、雑炊の日常。本当に辛いことの連続であったが、いっかこれとても半世紀以上たった今は忘却の彼方に去った。
今、あの戦争から学ぶ
戦いすんで日が暮れて、更に途方に暮れたあの日から、あっという間に数十年が経ってしまった。一九一九年生れの私にはただ夢のようだ。今こうして思い返してみると、見えてくるものがある。その一つ。
戦いは全く生命を粗末にする以外、何ものでもない。そして今、二十一世紀に入った今日も、過去とはちがう方法で生命を粗末にしていることは、日々のテレビ・新聞が教えてくれる。
戦前は自分の生命が言わば人委せであったが、今は自らの愚かさが生命を粗末にしている。
痴呆という病気で、丸六年の闘病の末、昨年の春、私は夫を亡くした。その間、私は生命というもののすがた、生命って何だろう、生命のあり方、いのちとは、健康とは、生きるとはと様々に考え続けた。
そして一つ思い当った。戦禍の中で、あれほど粗末な食べ物で大ていの人々は生きてきたではないか、此の頃のグルメブームは身体をこわしているのではないかと。今、私の日常は、あの頃を思い出し、物を欲ばらず、基本を守って腹七分位の食生活を心がけている。
戦後、寿命が延びてきたのは年々数字が教えてくれる。私もそろそろその一員に加えてもらう時がきた。夫を先に見送った私は、これからは自分一人の責任で生きていかなければならないと覚悟をきめた。ここまで何とか無事に生きてきた生命を、最後まで悔いなく生きたい。
六年間の介護を終えて、ようやく私にもいろいろ考える時間が与えられた。その矢先に眼にとび込んできたのが「新老人の会」というものだった。何か一つの安心感が生れてきた。戦争をくぐりぬけてきた人間のありのままの姿を子や孫に伝えていこう。そして、いずれ近づく自分の生命の完結を静かに迎えたいと思う。
―外地で、戦地で、原爆で、たくさんの空襲で、
戦争のために生命をなくされた方々へ深い感謝の祈りをこめて―
―生き残ったものから―