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聞き書き― 一中国人の光と影
守山 君江(もりやまきみえ 一九三六年生)
 
 これは戦中戦後の激動の時代に日本と深い関わりを持って仕事をし、 生きてきた一中国人が私に語った半生の要約です。
 
 私は中国の名門清華大学を卒業後、奨学金留学生として法律を学ぶためにドイツに留学をしました。単身で、シベリア鉄道の長距離列車に乗って十二日間をかけてソ連、ポーランドを経由してベルリンに着いたのです。
 一九四一年、法学博士の学位を取得した後、再びシベリアを経由して中国に帰国しました。その後、中国内の大学で教鞭をとること五年、一九四七年に中国政府から中国駐日代表団の法律専門委員として日本で勤務することを任命されました。当時、中国は同盟国の一員でしたのでGHQの中心的な占領工作に関わっていたのです。
 私の任務は日本新憲法を実施するに当って、情況や地方自治の実況を考察し研究することにありました。時にはGHQのメンバーたちと地方に旅し状況を視察に行くこともありました。宿泊所は各地にある米軍将校の宿舎が用意され、専属のコックは殆んどがフィリピン人でした。マッカーサー元帥の官邸もコックはフィリピン人だったと聞いています。
 中国代表のメンバーは清華大学の同窓生が多く、戦争犯罪者、いわゆる“戦犯“を審判する軍事法廷での中国代表の判事と検察官は清華大学の出身で、共にアメリカ留学の経験者でした。彼らの英語は流暢でした。そのメンバーに英語もドイツ語も話せて、しかも法律専門家だった私が選ばれました。勤務が終って宿舎に戻るとまるで、同窓会のようで楽しく、異国での淋しさを紛らわすことができました。
 一九五一年、サンフランシスコ講和条約の締結によって日本と同盟を結んだ国の占領は正式に終止符が打たれました。
 一九五二年、中国代表部は中国大使館と改められましたが、この時期に中国大陸の情勢が激変したのです。中国代表団としての任務が終って帰国したくても、その変動によって実際には出来ませんでした。そのためしばらくの間日本に留まらざるをえませんでした。生きていくために身分を貿易商に変えて、東南アジアとの貿易の仕事に従事することにしたのです。そして二十一世紀の今日まで生き抜いてきました。








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