鬼畜か道化師か
―私の進駐軍体験―
井上 太郎(いのうえたろう 一九二五年生)
先年来日したダライ・ラマ十四世のインタビュー番組で、「なぜ人を殺してはいけないか」という質問が話題になっていた。私はこれを聞いて、今の若者の口からそのような問いが出たということに驚いたが、これと対極的に「なぜ人を殺さなければいけないのか」という問いがある。これは軍人にとっては絶対口に出せない問いであろう。軍人とは敵の人間を殺すことが責務だからである。
戦争とは本来軍人同士の殺し合いであり、日清・日露の戦いまではそうだった。しかし太平洋戦争になるとそうではない。米空軍は焼夷弾、爆弾、さらには原子爆弾により、軍人でない老若男女を数十万人も殺したのである。
当時東京に住んでいた私は、ここはまさしく戦場になったと思った。米軍機は市民を一人でも多く殺そうと毎日やってくる。私を狙って撃ってきた戦闘機の機銃弾の流れが、あと一メートルずれていたら、私は即死していただろう。ところが軍人ではないから相手に歯向かう武器はない。つまり一方的に殺戮の対象とされていたのだ。
そのような体験をして敗戦を迎えた日本人が、進駐してくる連合軍に不信の念を抱いたのは当然だろう。なにしろ「鬼畜米英」とされてきた相手である。戦争に負ければ男は奴隷にされ、女は凌辱されると本気で言う人さえいたくらいなのだ。ところがジープに乗ってやってきた進駐軍は、日本人よりも頭一つ以上も高い大男が多かったが、実にあっけらかんとしていた。彼らを暗い不信の眼で迎えた日本人に手を振り、笑いかけさえしたのである。彼らは戦争に勝ったというよりも「人を殺す」という責務から解放されたのが何より嬉しかったに違いない。しかし当時の日本人にとって、その気持ちを理解するほど難しいことはなかったのである。
当時二十歳だった私の日記には、八月二十四日を最後に日本機は姿を消して二十五日から米軍機が「我物顔で百メートル位の超低空で飛び、星のマークがはつきり見へる」とある。連合軍の進駐は最初八月二十六日の予定だったが、悪天候のため四十八時間延期され、二十八日になった。その日の日記には「全く感無量」の言葉に続いて「飛行機を望遠鏡で見ると乗つてゐる奴まで見へた」とある。ところが総司令官マッカーサーが厚木に降り立った三十日に私はなんと日響(今のN響)のコンサートの切符を銀座に買いに行っている。
九月四日の日記には「もう米軍がぼつぼつ東京に来てゐる」とあるが具体的には六日に「渋谷でヂープ二台を見る。米兵は銀座で三人見た」という記載が最初で、九月二十日の夜九時から始まったラジオの「実用英会話」については「今迄英語排斥甚だしかつたのに比べて百八十度の転換である」としている。
十月十四日に埼玉県の田舎に疎開してあった荷物の一部を取りに行った時「大宮迄の電車はまさに殺人的で」川越線では客車が無く有蓋貨車に乗ったとある。帰りに大荷物を背負って雨の夜道を十キロ余り歩き、大宮に着くとホームは人と荷物で一杯だった。「しかし帰りの車中、米兵が二人乗つてきて片言の日本語をしやべり大いに車中の人を笑はし、面白かつた」とある。日本人の警戒心はもう解けていたようである。
私は当時、旧制高校理科の二年生だったのだが、十月十九日の日記にはこんな記載がある。「物理学の授業中に米軍の少しぬけているのが一人入って来て、ふざけて弱った。その後MPが来て我々の研究室を見てゆく」と。
これには若干の説明がいる。拙著「旧制高校生の東京敗戦日記」(平凡社新書)にも書いたように、私は海軍のロケット戦闘機「秋水」の燃料研究の助手をしていたのである。終戦と同時にその設備はこわしてしまったが、MP(米軍の憲兵)はそれが残っているかどうか調べに来たに違いなく、その前にやってきた軍人はどうやら日本人の警戒心を解くための道化役だったらしいのだ。
私が初めて進駐軍と言葉を交わしたのは翌一九四六年(昭和二十一年)一月六日のことである。栃木県の田舎から疎開荷物を運ぶのと食料の買い出しに行った時だった。東武線で宇都宮まで行ったはいいが、そこから先の国鉄の切符は翌朝の五時からでないと売り出さないという。空襲で焼かれた街はバラックしかなく、駅前の飲み屋で一夜を過ごすことにして中に入ると進駐軍が一人「こたつ」にあたっていた。「話しかけてみたら結構通じた。顔をスケッチしてやつたら大喜びし、煙草や真白なパンや缶詰めのサラダをもらつた」とある。
この旅の帰りに荷物を担いでくれた田舎の少年を東京に連れてきたのだが、そこで思いがけない体験をした。それは一月十二日の日記にある。銀座尾張町から日比谷へと歩き、第一相互ビルの占領軍総司令部の近くまで来たら「MPやGIや日本人が群がつているので行つて見ると、マッカーサーが出かけるところらしい。二十分ほど待つて、黒めがね姿で出てきた彼は自動車に乗つて行つた。初めての見る姿はさすがに立派だつた」と。
その日、初めての東京見物に目を丸くしっぱなしだった少年が、大勢のGIとすれ違った時に「おとなしいものですね」と言った言葉が今でも忘れられない。