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私のビルマ戦記
水元 健治郎(みずもとけんじろう 一九一八年生)
その一、捜索五六連隊――快速進撃
(1)応召入隊―出征 私は昭和十五年(一九四〇)二月十五日第一補充兵として召集され、福岡県久留米の騎兵十二連隊(留守隊)第二中隊に入隊した。定員二名の幹部候補生選抜で乙幹となり、一年半経った昭和十六年十月三十一日陸軍軍曹、現役満期。翌十一月一日付で予備役編入、引き続き臨時召集となり、除隊にはならなかった。私は応召下士官として連隊本部付を命じられた。大東亜戦争勃発一ヵ月前のことである。この時期、連隊も乗馬部隊から機械化装備の新部隊に生まれ変わって、騎兵十二連隊は捜索五十六連隊と改称され、新設の第五十六師団司令部の隷下に入った。乗車二、軽装甲一中隊と通信小隊一が基本戦力であった。兵器も車両もピカピカの新設部隊で、新任連隊長の下で、現役中心の元気な兵士たちは活気にあふれて、日夜の猛訓練に励んだ。
 第五十六師団(竜兵団)は昭和十七年(一九四二)二月十五日門司港を出港した。途中、サイゴンに寄港した時、私は第二中隊に復帰を命じられ、指揮班要員となった。爾後、私は本部への報告や命令受領のため中隊と本部間を往き来する仕事が多くなった。
 シンガポールに仮泊したとき、初めて兵団の行方はビルマであることを知らされた。昭和十七年三月二十六日、陥落直後のラングーンに上陸した。
(2)緒戦の思い出 兵団の任務はビルマ公路の制圧と進出中国軍の退路遮断であった。ビルマ公路はラングーンから中国雲南省昆明に至る二千三百キロ、二車線舗装道路で、蒋政権が延べ五十万の労務者を投入して昭和十三年(一九三八)に完成した戦略物資輸送の大動脈であった。
 連隊は先遣部隊となって、上陸の翌日から行動を開始した。緒戦はビルマ公路上、トングー付近の高地による敵陣地の攻略であった。中隊は夜間攻撃を敢行して敵陣に迫ったが激しい抵抗にあった。私は攻撃開始直前、命じられて、状況報告のため隊を離れ、本部と行動を共にし、中隊に復帰したのは夜明け後であった。そして、戦死者三名のことを知った。戦友の亡骸のそばに立ったとき、「生死は紙一重」という実感が湧いてきて、「ああ、これが戦争だ」という思いで、キューンと胸が締めつけられるような気がした。上陸後三日目の緒戦の思い出は今も鮮やかに蘇る。
(3)進撃戦 四月一日、わが部隊は依然、師団の右翼先遣部隊となって進発、敵の妨害を排除しながらシヤン高原を北進して、四月二十九日師団の主力と呼応して、中緬(ビルマ中部)交通の要衝ラシオを占領した。
 次の日、ラシオ出発、北緬(ビルマ北部)の重要拠点たるバーモを目指して進撃した。夕刻、公路上の要害による敵陣両部隊と遭遇し、夜間、退路を遮断して白兵戦となり、鹵獲トラック四十九輌、砲五門、敵死傷多数の戦果をあげたが、中隊も小隊長二名を失った。
 三日夜、直進すれば雲南、左折すればバーモというモンユー三叉路でも遭遇戦。バーモ方向から転進してきた敵車輌を炎上させて敵少将と女一死亡、女一と英軍将校一を捕えた。英将校は師団へ、女は部隊長命令で雲南への道を教えて、逃がしてやった。その通訳を私がした。
 次なる敵車数輌が接近、先頭車が停止したと思いきや、手榴弾を投げてきた。破片がわが中隊長の腹部に命中して、惜しや、後送されて、戦死につながった。
 夜明けを待たずに出発、約五十キロ前方のイラワジ川支流に懸る、ナンカンの長さ百メートルの大吊橋を爆破寸前に強行突破したのは、第一中隊の先兵隊の大手柄であった。その日の夜は目指すバーモを指呼の間にして、明日に備えた。
 昭和十七年五月五日、市内各所に発生した火炎に煙る北緬の要衝バーモに突入して、無血占領した。緒戦の地、トングーから千二百キロ、一日の平均進撃は四十二キロ、(「世界戦史にもまれ」と新聞報道されたが)、大きな戦果のかげには、中隊長以下十七名の尊い犠牲者と多くの負傷者を数えねばならなかった。
 数日後、兵団主力は雲南省怒江の線まで進出して、ビルマ作戦の目的は達成された。わが部隊は怒江南岸、クンロンに移駐して警備態勢に入った。私は再び連隊本部付になった。昭和十七年六月、捜索五十六連隊は、第十五軍司令官から感状を授与された。
その二、南方軍特殊情報部―暗号解読とビルマ撤退
(1)芒市機関へ 昭和十八年の暮れ、私は師団司令部に行って、参謀長の指示を受けるように命令された。雲南省芒市にある司令部に着くと、参謀から近くの雲機関に行って、仕事をするように指示された。雲機関は、南方総軍特殊情報部の出先機関で、師団に協力するために派遣された、芒市機関という少人数の暗号解読部隊であること、当面の動きを知る敵の暗号通信は、概ね解読に成功していること、また現下の情勢については反攻態勢が急速に強化されて、その編成はすでに十六個師に達していることなどを、そこに行って初めて知らされた。そして、芒市機関の任務の重要なことや、多忙になったことも分かってきた。
 私は昭和十四年(一九三九)に上海の東亜同文書院を卒業した。中国語はそこで学んだ。当面の私の仕事は、電文の翻訳であったが、次第に解読の手伝いもするようになった。
(2)雲南遠征軍の総反攻に関する作戦命令電報の傍受 昭和十九年四月末、私達は、ついに雲南遠征軍の総反攻に関する作戦命令を捉えた。それは、部隊の編成、攻撃要領から遊撃部隊の行動と任務に至るまで詳細に指示した長文の電報であった。引き続き、怒江の渡河開始日を五月十一日と決定の電文傍受で、目前の敵総反攻作戦の全容が明らかになった。敵は命令通りに行動してきた。もちろん、わが軍は満を持してこれを迎え撃ち、衆を恃む敵の進出を阻止した。敵は制空権をつかみ、補給力を増強して、陸空両面作戦によって、執拗に攻撃を繰り返し、雲南全戦線に、彼我の激戦が展開された。
 しかしながら、一対十五という絶対的な兵力の差は如何ともしがたく、九月に入るや前線の拉孟、騰越の守備隊は死闘の末、玉砕するという悲報に接した。わが芒市機関も改編されて、東郷部隊となり、主力は転進して、私達は高山中尉を長とする芒市推進班として残留、空爆と砲煙の下で、地下壕にもぐって、昼夜の別なく作業を続行して、師団に協力した。
(3)芒市撤退 十一月十七日深更、遠征軍の芒市総攻撃を十九日に開始するという電文を捉えた。師団司令部は芒市機関の転進を指示してきた。私達は月明の下で、銃砲声を耳にしながら、トラック二輌に分乗して芒市を後にした。二十三日、ラシオの本部に着いた。
 昭和二十年三月、東郷部隊は第三十三軍司令官から感状を授与された。
 茫々五十余年前の戦記である。記憶は薄れ、思い出は風化して、脈絡をなさない。連隊の記録や推進班長の手記に助けられて、いくらか体裁を整えることができた。「戦争に負けてはならない」と頑張ったのは事実だが、自分にとって戦争はなんであったかという問いに対しては、未だに解答が出せない。








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