戦争体験の「明」と「暗」
三輪 誠(みわまこと 一九一八年生)
はじめに
私は満州桂木斯市の職場で召集令状をうけ、北陸方面を主とする応召兵を加えた約二千名の関東軍残留部隊で編成され、家村大佐を長とする独立混成第二五連隊第一中隊の擲弾兵となった。九月中旬、老兵の応召兵が大半でも、関東軍の精鋭ということで戦艦「山城」「扶桑」に分乗し北ボルネオ戦線へ向かった。ボルネオ西海岸ラブアン島で機帆船に乗り換え、目的地へ向かう途中、サンダカン沖で空爆を受けて船は沈み、辛うじて任地タウイタウイ諸島サンガサンガ島へ着いたのは十一月初旬であった。北ボルネオ唯一の飛行場をもつこの島を本部直轄の分遣隊四十八名とともに昭和二十年(一九四五)二月、ボルネオ本土へ撤収する迄の約四ヵ月、守備についた。この南海の小島における駐留体験を「明」の部として記し、更に昭和二十年二月この島を離れてボルネオ本隊に加わり、ジャングルにおける死の行軍に参加した体験を「暗」の部として、それぞれ忘れられない事実をとりだし記すことにする。
「明」の部―ガンポンスクール(森の学校)の思い出
敵機動部隊は、われわれの守備する島々が点在するこのスール海峡にいつ押し寄せてくるかわからない。一見わが軍に好意的にみられる現地人モロ族の動向もわからない。近くのシブツ島に駐留していた十名の警備隊が現地人に全員虐殺される事件もあった。ほとんど毎日のように隊長と私のもとへ遊びにくるジュマデルというその男の正体もわからない。彼はスワレスを長とするゲリラのスパイかもしれぬ。われわれは島民の心を何らかの方法で掌握する必要があった。そこで私は小隊長に提案し、私が教師となって島民の子供たちのために寺子屋式の学校をつくることにした。子供たちの心をつかむことに成功すれば、われわれを警戒し疑いをもつ島民の信頼を得ることができる。さっそくジュマデルと相談した。
十一月末、兵舎から約二キロ離れている集落ヘジュマデルと乗りこんだ。彼が集めてくれた十歳位から十四、五歳位までの八人とまず一人一人握手した、みんなで唱うことから始めた。彼らは歌が大好きなのである。一番早く覚え好んだのは「浜辺の歌」であった。常夏の南海の小さな島々に生きている彼らには文明のにおいは感じられない。自分の年齢さえわからない彼らに一体何を教えたらよいのか、はじめは迷った。私の願ったテーマは Who is good Filipino?(よいフィリピン人てどんな人のこと?)であった。私はいつ戦いで死ぬかもしれぬ。島民のゲリラに明日殺されるかもしれない。何かを残したい。彼らの心に日本人の心(あるいは私という人間といった方が適切かもしれない)を伝えたい。そんながむしゃらな願いで一杯であった。
二週間程毎日単身で集落へ通った。子供たちと唱い、算数の初歩を教え、彼らと遊んだ。歯を黒く染め唇を赤くぬったモロ族の母親たちは、私の行動を警戒しつつ物珍しそうに眺めていた。日が経つにつれ次第に彼女たちや男たちの間にも好意的な笑顔が見えてきた。子供たちは自分たちの家へ私を案内してくれた。やぐらの上に造られた薄暗い小屋のような彼らの住み家に入るのは、何となく気味が悪い。しかしそんな気持ちとは裏腹に彼らは椰子油、タピオカとバナナで作った菓子でもてなしてくれる。彼らの中には手足の潰瘍がひどくただれ、その傷口に群がる蠅を追い払っている様子がみられる。私は見るに見かねマーキュロやヨーチンを持参して治療してやった。兵隊たちからは煙草を入手することを頼まれたが、私は島民から求めることは一切なすべきでないという信念を通した。鈴木隊長は身の危険を案じ、護衛のために兵隊を一人つけることを主張した。しかし私はそれを断り、わざと武器も持たなかった。
十二月下旬、父親たちが兵舎とトミキパシャン(正確にはトビバサクだとジュマデルが教えてくれた)集落の中間地帯に、ガンポンスクールを作ってくれた。無論、校舎とは名ばかり、彼らの住居の材料となる椰子の葉をくんだものである。掘っ建て小屋でも彼らの集落に学校ができたことは大変なできごとだったろう。子供たちはビンタという小舟で海岸沿いにやってきた。私の通学の足どりは軽くなった。南国の陽は照りつける。それを避けるため緑の大木をぬって歩くと、極彩色のオウムや猿の群に出会う。十五、六名に増えた子供たちとすっかり親しくなった。そのためか、折々夕方になると兵舎へ母親たちであろうか、マンゴーやバナナが届けられるようになった。
昭和二十年二月三日、サンガサンガ島から撤収する日がきた。ガンポンスクールを閉鎖し親しくなった可愛い子供たちと別れなければならない。朝、別れを告げるため校長格の鈴木隊長と二人で出かけた。どうしたのか子供たちは一人もいない。すると木々の間から「わあ一」と一斉に飛び出してきた。いたずらっぽい子供たち。最後の授業をやり、学校はしばらくの間休むことを告げ、再会を約束して校歌にしていた「浜辺の歌」を皆で唱った。丁度、ロッキード二機が上空で偵察を始めたが爆音は歌声で消されていた。一番なついていたゴンドラ少年は“You will go to Japan. Why?“(あなたは日本へ行くんだろう。なぜ?)と言い、頭の良いオンマル少年は彼らしく“You will be shot by American soldier...“(あなたはアメリカ兵に撃たれるだろう……)とはっきり、これからの私共の運命を予言した。
サンガサンガ島でのこうしたモロ族の子供たちとの温かい交わりは、その直後の北ボルネオ戦線における「死の行軍」の暗い悲惨な思い出とは対照的に、いつまでも明るい南海の思い出として私の胸を去らない。
今日フィリピン政府にとってモロ族は中々厄介な種族で、一九七一年武力による分離独立を宣言したイスラム教徒反政府の中でもモロ・イスラム解放戦線を組織して原理主義を掲げる過激な集団であると報じられている。私はオンマル少年らを思い出さずにはいられない。
「暗」の部―北ボルネオ死の行軍
戦局はフィリピンのレイテ湾に米軍が上陸し、日本は急速に敗戦の色を濃くしてきた。この状況に伴い、私の駐屯部隊は昭和も二十年二月ボルネオ本土東海岸タワオに移動し、二月六日、タウイタウイ諸島から集結した二千人を越す連隊の全兵員が西海岸のゼッセルトン、現在のコタキナバルへ向けて大転進を開始した。
この日から北ボルネオの奥深いジャングルと湿地帯、高峯キナバル山麓地帯を抜けて西へ進むいわゆる「死の行軍」が始まった。マラリヤ、デング熱の高熱で動けなくなった日々、食料の欠乏や脚気、ゲリラの襲撃、身体いたるところに吸いつくヒル、時には象やオランウータンなどの野生動物との遭遇に脅えた。落伍者や死者の続出、倒れる戦友に手を貸すこともできず、まとまった行軍などは不可能となり二、三人でかばいながら力の限りを振り絞って歩いた。幾度か死の渕をさまよいながら六月中旬、心身共に消耗した無惨な姿で四ヵ月余かけてようやく目的地ゼッセルトンに辿りついた。
タワオを出発した四十名のわが戦友中二十六名が命を落し、二千人余の連隊中千二百人余が死んだ。なおサンダカン捕虜収容所からラナウまで同行した二千余人の豪英兵の捕虜のうち到達したのは三分の一以下だったことも後日判った。陰惨で鬼気迫る地獄の様相を呈した「死の行軍」の体験は五十数年を経た今日なお私の心に大きく残る。
昭和三十四年(一九五九)九月、北ボルネオに散った日本・オーストラリア両軍と現地住民の霊よ安かれと、敵味方の恩讐を超えた日豪合同慰霊場が高野山につくられた。連隊の生存者が中心となり戦友遺族が浄財を出し合って「家村部隊戦没者供養塔」「北ボルネオ戦没者慰霊塔」「豪州軍、北ボルネオ住民殉国之士供養塔」の三つの塔が平和を誓い建立され、毎年慰霊祭が催されている。