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腹が減っては戦はできぬ
 ―主計の任務―
鈴木 源次郎(すずきげんじろう 一九二〇年生)
 
 単純に考えるとなんと馬鹿げたことをしたものとも考えられるが、日本の国の成り立ちから歴史的の事実を追ってゆくと、これまた一理あるとも言える。
 どん底から這い上り、またどん底へと、そしてやっと立ち直っての今日の姿は皆、争いの要因でもあり、またいつ戦争の口火ともなる可能性を秘めている。
 物質的繁栄、そして精神的荒廃。この繰り返しを断ち切らなければ人類滅亡である。そして鼠ゴキブリの天下となる。
 そこでこう言う心配症の老人もいるので、我々「新老人の会」のメンバーが立上り、キリスト、釈迦になったつもりで次世代の人のためにも役立つ事をやらなければならない!! この項、誇大妄想老人の言!!
 それには戦争体験者である我々が永い沈黙から目覚めて、だんまり戦術は止めて、大いに大いに発言しましょう。但し興奮のあまり悪意の発言はよしましょう!! 老人の智慧!!
 悪いは悪いで慚愧懺悔し、良いは良いで参考にしてもらい、次世代の人に話して理解納得してもらわなければ、改革々々と叫んでもなんにもならない。
 また我々無名の発言は弱いので、体験情報等話ししても、そんな事があったのかくらいですまされてしまうので、公的機関等出来得る限り内部情報を公開してもらい、外務省の機密費のような事はないようにしてもらいたいものである。戦時中の臨時軍事費の様なやりかたは、まっぴら御免なさいです。
 そこで「新老人の会」が出来て折角我々にも発言の機会を与えてくださっているので、大いに発言して次世代の人々のためにお役に立てていきましょう。但しピント外れのお節介はだめ。
 前置きが長くなりましたが本論テーマの「戦争をこう考える」ということについて私見を述べていきます。
 戦争はどうして発生したのかというと、歴史的背景があってこそ始まっているのです。
 当りまえのことです。まあ痴人の戯言としてお読み下さい。
 我々世代は生れてこの方「ノノサン、ナムナム」で神様仏様を絶体崇敬の的とし、また理想像として民族国家を守ることは神様を守ることであって、天皇陛下は神様(現人神と称した)であると教えられ、育ってきた。終戦とともに天皇陛下も人間に格下げになられて、全くお気の毒のことですが、我々も天皇陛下に命を捧げる事は名誉この上なしの観念が染みついていたので、死などはおそれなかったが、今となってはやはり命は惜しいですね。しかし三つ子の魂百までのとおり「ノノサン、ナムナム」は百歳まで背負っていくという運命はあると思っているので、余命は未だ二十年あることになってしまった。人生最終ラウンド、なんとか世のため人のためと考えていたところ「新老人の会ヘルスリサーチボランティア」がとびこんで来た。全くありがたいことです。
 動物学的に人間の寿命は百二十歳だそうですから、未だ四十年は大丈夫(但し理論的にです)。そこで第三の人生八十歳から百二十歳の青春が始まったわけです。そこで「ヘルスリサーチボランティア」、また聴覚障害者として聴障幼児の視覚音楽の問題。これは作曲家佐藤慶子主宰の「響の歌ワークショップ」の幼児組一年生の私も所属しています。そして聴障者として情報保障のための要約筆記の問題等やる事が残されていますので、仏様がそれがすむまでは迎えに来てくれない。
 どこかで脱線して、戦争をこう考えるが私の人生観になってしまいました。
 そこで話をもとにもどして、戦争はどうして始まったかというと、シナリオライターがいてシナリオを書いた。それに基きその影響で色々の事象が発生してきた。戦争はその事象の一つである。我々もその事象の中で踊っていた一人である。踊りすぎて命をおとしたり障害者になったり、全く気の毒の限りである。しかしこの歴史的事実の前にシナリオライターは誰だったかも不明である。
 今教科書問題で戦争のことが論議されているが、踊り子の事が問題になってシナリオライターの事はあまり騒がれていない。もっと真剣に討議してもらいたい。悪いは悪いでも決して自虐ではない。反省の資として、また良いは良いとして大いに参考の資として、次世代に伝えなければならない。さもなくば、我々戦争時代人は全て悪人であると考えている人もおる。
 その背景を尺貫法「戦争時代人」とメートル法「戦後時代人」の思想の相違で説明しても理解しがたい。よく若い人がなぜ戦争に反対しなかったのですかと言い、私達ならデモでもなんでもして反対すると言われます。特高警察、憲兵政治の実態を知らないし、ハンセン病の障害をもっている人は皆非国民として扱われていた事なぞは教えられていないので、無理からぬところであるが、そういう事も教えてあげねばならない。
 戦争時代は神も仏も居なかった。皆幽閉されてしまって戦争一辺倒だった。
 今私は本当の宗教を知り、在家仏教団の一人として生老病死苦の尊さを知り、戦争で負った負の財産、即ち精神的荒廃、肉体的の荒廃を如何にして救うかという事を考えるようになってきた。
 金はなし、体力はなし、知識はなし、しかし四百四病の身体と少しばかり知慧があるようだ。「虎は死して皮を残す。偉人は死して名を残す。俺は死してカルテを残す(!!)」で行こうと決め、霊魂不滅の法則に則り、霊界より後世人のためならと今から「反魂丹」(落語に出てくる魂をよみがえらせる薬)でも飲むかと考えたところです?
 私はもともと陸軍糧秣本廠の技術者として文官であったが、昭和十七年(一九四二)兵制改革で武官に転官、関東軍の東部国境防衛の第二十軍の野戦貨物廠に配置され、戦闘用糧食備蓄管理、現地自活のための自営工場の運営、食糧その他必要資源確保のため開拓団の指導、現地住民と農業技術を通しての友交保持(五族協和の実践)等専門分野を生かして、軍唯一の技術将校として活躍させてもらった。
 勿論この間経理部将校として補備教育はなされ、国境守備隊として第一線に配置されておった精鋭秋田の歩兵十七連隊、また東京都の小平にあった陸軍経理学校において厳しい訓練を受けたことは現在でも生活の上で役立っている。
 そしていよいよ、国も本土決戦の決意をかためた為、我々若手将校は本土決戦部隊へ抽出されて、二十年四月に懐しの故郷山梨県甲府の連隊へと配置されたのである。今にして想えば実に運が良かった。これも、仏意のしからしめるところかなと思っている。
 本土決戦となれば郷土は郷土人で守った方が良いという方針(これは定かでない)で、甲府で育った私は、甲府で育った関係で甲府連隊で編成した取っておき最後の決戦部隊二〇一師団歩兵五〇二連隊に配属された。
 この連隊は将校、下士官全員弾丸の下をくぐってきた実戦経験の強兵であった。兵は十九歳の体力旺盛の甲種合格の現役兵ばかり、そこでこの食糧不足の折から食い盛りの若者の体力を維持して戦闘力を如何に保持するかが問題である。
 腹が減っては戦は出来ぬ。食の確保は主計の任務、健康確保は軍医の任務というわけで、軍医と緊密な連携をとりながら悪戦苦闘した。これまた戦後耐えることへの下地ができた原因である。ちなみに当時の軍医は有名な東京帝大の木本外科の医局長だった羽田野茂軍医大尉であった。おかげで私も戦後病院で良く面倒をみてもらった。
 また食糧確保にも問題があった。よく軍は横暴だったと言われているが、師団経理部からは食糧調達に関して民需を圧迫するなとの厳命がきていた。軍にもこういう配慮を持ったところもあった事を認めてもらいたい。
 そこで困ったのは主計であった。歩兵連隊の四千三百人、砲兵連隊の二千人をどうして喰わしていくんだと責任感じても、死ぬに死なれず、明日にでも死地に赴く若く喰い盛りの者が空腹を抱えてひたすら厳しい戦闘訓練に耐えている姿、主計として涙なくして見ておれん、と言っても、この現実をどう突破するかで頭は一杯だった時、救世主が現われた。それは農業会の大立物、勝又春一代議士だった。窮鳥懐に入ればの譬でないが、勝又代議士の所へ飛び込んだところ、よくきたな、まああがれと迎えてくれた。全く地獄で仏に会ったようであった。
 ところで農民も大変だ。男は皆兵隊にとられ、若い者は勤労奉仕で狩り出され、その上供出の割当てで自家用さえ欠乏している状態だ。しかしなんとかしなければいけない。充分の事はできないが、とにかく出来得る限りするから、国のため頑張ってくれと言われた。
 おかげで連隊としての練度維持もでき、私も主計としての任務を遂行でき、そして終戦を迎えたわけ。おかげで命拾いをした。
 後日譚だが、戦後、静岡県御殿場初代市長に勝又代議士がなった時、米軍が東富士演習場に駐留して御殿場(北駿十一ヶ町村)の財政根拠である山林が被弾により壊滅状態になって財政が極度に逼迫した時、勝又代議士の要請で東富士農民再建連盟の勝亦敏和幹事長に協力し、補償問題の解決に微力ながらお手伝いできたのも戦時中の御恩返しでした。
 また当時協力して頂いた農家の人々(今七十五から八十歳位の方々)には今もって感謝しております。実は私の家内の実家も当時面倒をみてくれた農家でした。








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