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戦時下の乳児の世話
武藤 静子(むとうしずこ 一九一〇年生)
 
 戦争中東京に住んでいたにもかかわらず、炎の中を逃げ惑う経験もなく、父は年齢のせい、兄や弟は体格のせいで、戦場にも行けず、従って戦死者も戦傷者も出さず、肩身狭い思いを禁じ得なかった。親族は田舎に住んでいたので戦災にもあわずに終戦をむかえた。
 当時、私自身は麻布にある、小児科と産婦人科の病院が附属している研究所に勤めており、栄養の研究と入院患者のための給食の仕事を受け持っていたので、間接にではあるが戦争の影響を受けた。
 その一つは、給食のための食材の不足であった。人工栄養児のビタミンC補給のための果物が手に入らないので、近辺の草木のビタミンを端から調べて、柿の葉に多いことを知り、その葉からビタミンを抽出する方法を工夫したり、山羊を飼って乳を絞ったり、蛹や煮干、鰯粉、きな粉などを離乳期乳児の蛋白質源として使えるかどうかを試したり、裏庭に野菜を栽培したり(肥料には道路に落とされる馬糞などが利用された)、野草を野菜の補いにしたりして、考えられるかぎりの手を打って急場をしのいだ。その一方で空襲警報が発令されれば大事な書類や物品を地下壕に運んだり、近くが爆撃されて火傷や怪我の患者さんで病院の外来や病室が忙しいときは応援に行ったりと結構、多忙な日々を過ごしていた。
 もう一つは小児病棟にお預かりしていた健康乳児を戦災からどう守るかであった。三月十日の東京大空襲の後、この問題は急に現実味を帯びてきた。そこで考えられたのが、乳児の集団疎開であった。一枚の切符さえ手に入れることの難しい時代、空襲警報のたびに汽車は停り、避難退避しなければならない時代、そのような中で、二−三時間おきの授乳、離乳食、おむつ取り替えなどの必要な乳児約二十名とその世話がかりの事務員、医師、看護婦、栄養士計約二十名の集団移動である。このためにやっと都合して頂いた貸切の一車両で昭和二十年(一九四五)三月末、受入先の甲府の遠光寺になんとか辿り着いた。それから滞りがちな食料や燃料の配給はあったものの、七月七日の大空襲による甲府の被災では乳児の集団疎開先が全焼し、残念ながら、また誠に申し訳ないことに乳児一名を失なった。
 そして甲府近郊の円妙寺への全員避難、八月十五日の終戦、と矢継ぎ早に経験して十月半ばに、奇跡的に戦災を免れた東京の本拠に戻るまでの悪夢のような数ヶ月間であった。
 とは言っても、この数ヶ月の間に、遠光寺および円妙寺の方々、またその周辺の方々には言葉に尽くせぬ温かいお心遣いを頂き、平時には経験できないような人の心の襞に触れさせて頂いたことは生涯忘れてはいけない貴重な経験となった。
 平成の今、こうして豊かで穏やかな日々を送り迎えしている中、あまりにしばしば暗い荒んだニュースに接すると、戦後から今まで日本人の生活の仕方とか態度の中に、何か足りないところ、或いはまちがったところがあったのではないかと反省してみる必要があるのではないかと思わせられる。いったいそれは何だろう。








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