日本財団 図書館


極限までの体力と精神力
居本 光男(おりもとてるお 一九二四年生)
 
 昭和十九年(一九四四)九月末、予備学生の応募に合格した大学、工専の理工科系卒の若者たちが、神奈川県の第二相模野海軍航空隊の門をくぐった。総員六百余名である。
 第九期予備学生は、戦況のひっ迫下にあって通常一ヶ年の教育期間を六ヶ月に短縮されることになった。
 入隊となれば、ある程度の訓練は覚悟はしていたが、人間の能力の極限に迫る特訓が待っていようとは予想出来なかった。
 即戦力として海軍士官を前線に送り出すための、最大な効果と最短な教育方法は、体力気力の限界を体験させ、いかなる困難な状況下にあっても敢然として部下の先頭に立って任務を果すことの出来る人物を育成すること、これが我々学生に課せられた教育の基本方針と決定された。
 入隊翌日から起床は午前四時四十五分、すべての行動は「五分前」準備完了である。
 身体検査や学力テスト、身元調査などが行われる。
 十月四日正式な入隊式が行われた。希望に満ちて胸を張る。この時点で数名の不適格者が出て除隊させられた。
 この日を境にして連日の海軍精神注入の特訓が始まった。
 目からは火花が飛び、顔は腫れ上る。学生舎に帰ると鼻血を出したり口の中を切ったり、正にスサマジイ鉄拳の洗礼を受ける。
 海軍士官に憧れた紺の詰襟服に腰の短剣姿には程遠く、柔道衣で泥まみれになって闘う棒倒しなど、すり傷や打撲は日常茶飯事の猛訓練が続く。
 すべての行事は区分隊の競争で、負け組には罰として徹底的な荒業が待っている。
 課業の激しさで遂に学生の死者が出た。
 七十キロの陸戦夜間行軍、二十キロの早足競走など、よくも教官たちは学生を苦しめる課業を考え出すものだと感心する。
 入隊後まもなく「喫煙禁止令」が出された。愛煙家にとっては耐えられない苦痛である。私もその被害者の一人である。
 聖戦三年目の十二月八日を迎えた。
 軍司令の訓辞に曰く、「予備学生は採用と同時に下士官の上、少尉の下という階級が与えられている。腰の短剣は切腹のためにある」と。
 士官としての自覚を植えつけられる。
 年も越し学科も増え多忙になったが、相変らずの海軍精神注入のしごきは続いた。
 毎日五省の戒を唱和する。
 
 一、至誠に悖るなかりしか。
 一、言行に愧ずるなかりしか。
 一、気力に欠くるなかりしか。
 一、努力に憾みなかりしか。
 一、不精に亘るなかりしか。
 
 士官心得として反省の毎日である。
相模野の冬はきびしい。早朝には氷点下八度ぐらいまで下がることがある。こんな寒い朝に限って総員集合のラッパがひびく。
 集合がおそいという理由で全員腕立伏せとなる。地面はぶ厚い霜柱が立っている。手の平がバリバリと音をたてて霜柱を圧しつぶす。
 教官たちは木刀を持って気合を入れて廻る。
 やっと終って東の空が明るくなる頃、箱根の山並の上には富士の麗峰が朝日に輝やいていた。今でも鮮明に想い出す光景は、相模野の霜柱と富士の姿である。
 教程も半ばを過ぎて、やっと上陸(外出)の許可も出た。学生にとっては一番の楽しみである。思う存分外の空気を吸って解放感を味わい、満腹して帰隊する。
 しかしこの上陸でも帰隊時限に一人でも遅刻したら大変だ。連帯責任で所属隊員は鉄拳の懲罰を受けることになる。
 あっという間に教程の六ヶ月が過ぎ、昭和二十年三月三十一日退隊式が行われた。
 辛かった学生生活も忘れた様に、晴やかな笑顔で互いに握手を交し任地に出発して行った。
 私の任地は高知の浦戸海軍航空隊で、予科練の編成部隊で本土決戦を迎える陣地構築に当った。
 着任して間もなく少尉に任官した。やっと肩章にも桜の花が一つ付いて士官らしくなった。
 任官後すぐ青森の三沢基地に配属となり、特攻部隊に編成され、搭乗員と起居を共にして前線への出動を待った。
 すでに死は覚悟している。しかし私は、何のために死ぬのか、自分の死生観を納得させるためには悩む夜も多かった。
 運命の日がやって来た。終戦の詔勅が発せられ戦争は終った。
 戦中派の私達は青春を国に捧げ、多くの同志を空に海に、はたまた土に失ってしまった。
 年を経て戦争の感慨が次第にうすれゆく今日、戦争を体験した私達は次の世代に、「伝えたいこと」「伝えるべきこと」を正しく残してゆく義務を負っている事を自覚すべきであろう。
 戦争の善悪は別として、私の海軍での体験は、戦後の社会生活に大きな影響を与えた事も否めない。
 極限までの体力と精神力の鍛練は、私の人生のバックボーンとして、色々な場面で励まし力づけてくれた事に感謝を覚えるこの頃である。








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION