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原爆被爆者の地獄の苦しみ
小俣 幸子(こまたゆきこ 一九二二年生)
 
 私は大正十一年(一九二二)に広島県の田舎町に生まれました。女学校を卒業する頃から、日本はアメリカと戦争への道を走り出しました。だんだんと物資が乏しくなり、世の中は暗くなってゆきました。
 父の医院の診察室の窓にある鉄格子がはずされ、家にあるお花器、鉄びんなど、すべて国に供出するよう命ぜられました。物資が乏しいので日本中から集めた鉄で飛行機や船を作るのだと言うことでした。
 青壮年はどんどん召集され、学徒も動員されました。女子は挺身隊が結成され、家にいる婦女子は三原帝人工場、尾道横浜帆布工場でお国の為に働くことを義務づけられました。私も久井町から十人の仲間と横浜帆布工場で帆布を織りました。
 「一億総決起」とか、「欲しがりません、勝つまでは」とか、「ぜいたくは敵」のスローガンがかかげられ、日本の勝利を信じ、ひたすら働きました。半年の期限が終り、家に帰れましたが、戦局はますますきびしくなり、山口県笠戸ドックの事務手伝いに行くことになりました。男子事務員が殆ど召集され、事務所が空席になったからです。
 その頃はもう戦争末期で、造船所は連日敵機にねらわれ、空襲警報が鳴りっぱなし。B29が飛び交い、防空壕に入る日が続きました。軍需工場が破壊され、沖縄に敵が上陸し、特攻隊は次々と南の海に果てて行かれました。
 敗戦の色が濃くなった昭和二十年(一九四五)八月六日の朝、忘れもしません。これまで見たこともない、聞いたこともない、ピカドンが広島に落とされたのです。それは新型原子爆弾と言われ、爆発の瞬間摂氏四千度から五千度の熱線が広島市をおおったのです。鉄がとける温度です。山口県の笠戸ドックにいた私は、不気味な黒い空を見上げ、不安がよぎりました。
 うわさはその日のうちに伝わって来ました。広島はピカドンで焼野原になってしまった。六十年間は草も生えないだろう、とか。みんな裸で幽霊のような格好で、水!!水!!とうめきながら川にとび込んでいる、とか。顔が風船のようにパンパンにふくれ、手足のちぎれた人が道端にころがり、真黒こげの人が山のように積み重なっている、等々の怖しいニュースが入り、しばらくして山口県にも黒い雨が降りました。当時、黒い雨に放射能がいっぱいまざっていることを知ってる人はいるはずがありません。はじめての体験ですから。
 両親から「大変なことにならないうちに帰って来なさい」と電報が届き、私はとりあえず家に帰ることにしました。
 汽車が広島駅に停まった時、私は自分の目をうたがいました。本当にびっくりしました。あの大きな広島が見渡す限り瓦礫の山になっているのです。私の知っている広島県庁も、日赤病院も福屋デパートも、学校も、あとかたもなく消えてなくなっているのです。汽車は超満員で、焼け出された人達でいっぱいです。原爆投下のあと、かろうじて助かった人達、うつろな目をした傷だらけの人、ボロボロに裂けた服、血の流れているはだしの足、ケロイドにただれた顔、顔。昨日から食事もしていないらしい子供の泣く声……。まともな服装をしている私がジロジロ見られ、怖しくなりました。三原駅までの長い長い汽車の旅は、この世の地獄でした。
 やっとの思いで家にたどり着いた時は、日もとっぷり暮れ、両親、弟、姉が飛んで出て、「よく帰って来られたネ。御苦労だったネ」の言葉に、ドッと気がゆるみ、涙が溢れ、口もきけない程の恐怖にさいなまれていました。家に帰って三日後、再び長崎に原爆が落とされました。
 昭和天皇は八月十五日正午、ラジオで「これ以上国民が犠牲になるに忍びない」と終戦のお言葉を下さいました。日本は戦争に敗けたのです。この世の地獄を見た私は「ああ、よかった。今日からもう空襲もない。電気もあかあかとつけられる。」と心の中でホッとしました。口に出すことはまだこわかったのです。
 あとで聞くと、軍隊の中には終戦に反対し、宮城に押しかけて、大変なさわぎがあったそうです。宮城の広場で多くの国民が皇居に向かって土下座をし、泣き伏している様子が伝わって来ました。
 私が笠戸ドックから帰ってしばらくたった頃、父の医院の病室が満員になり、あわただしい雰囲気と共に病室からうめき声が聞こえるようになりました。広島市が壊滅状態になり、地方の医院にツテを求めて、怪我人がタンカに乗せられ運ばれて来たのです。
 包帯に巻かれた人から悪臭がただよい、膿がジクジク吹き出し、蝿がたかっているのです。真夏の暑い日々なのに、我が家の台所は、ガラス戸を閉めきったままにしていなくてはなりませんでした。
 放射能を浴びた人達はみんな、「水を下さい。水!!水!!」とうめきながら死んでゆかれました。包帯も薬もなくなり、配給も止まってしまいましたので、家にあるサラシ布や、ゆかたをほどいて熱湯消毒し、患部にあてました。そうすることしか治療の方法はなく、父は黙々と処置をしておりました。看護婦さんも、母も、私も、みんな布という布をかき集め、来る日も来る日も熱湯消毒をしました。
 父は憔悴しきっていました。寡黙になり、戸を閉め、正座して、座禅をしていたのでしょうか。患者さんを助けることの出来ない、医者としての内面の苦悩を垣間見る思いでした。
 私は戦後、広島原爆資料館へ三度訪れました。その都度、やり場のない悲しみを抱いて帰ります。以下は資料館で見聞きしたこと、原爆を体験した人の話などです。
 爆風を受けた市民は風圧で眼がとび出し、お腹が裂け、腸がはみ出します。ガラスが身体につきささり、手足がちぎれます。熱線があたると、皮膚が水ぶくれになり、歩くと水ぶくれの水が破れます。すると皮膚がダラリとたれて、両手の十本の指で止まります。人々は幽霊のような格好で水を求めて川にとび込んでゆきます。歩けない人は道路や畠にころがります。のどがむしょうにかわき、水!!水!!と叫び、飲むとパタンと倒れ、そのまま死んでしまいます。放射能は目に見えないし、匂いもしません。でも人間の身体の中に入ると、組織を破壊してしまうのです。
 原爆投下のあと、すぐ広まった急性白血病で、無傷の人は助かったのもつかの間、三日ぐらいして目や鼻から血を流して死んでゆかれました。被爆した人は戦後五十有余年経った今も、原爆ブラブラ病という、科学で解明出来ない病気や、白血病、ガン、あるいはそんな病状がいつ出るかという不安と闘っている人が、広島、長崎に何十万人もおられるそうです。
 遺体を焼くと骨がなかった人がおられました。放射能が骨の髄までスカスカにしたのです。何というむごいことを……。何という怖しい兵器を作ったのでしょう。この悪夢は私の心の中にいつまでも残り、毎年夏が来ると、あの病室の、いたましい人達の姿が浮かんで来ます。
 今年も又、八月六日が近づいて参りました。平和公園に参加される家族の方達も老いを重ねられ、戦後五十有余年の長い年月をいかばかり苦しんで来られたか、胸がふさがります。今日本は豊かになり、戦争を知らない世代となりました。聞くところによると国民の九十パーセントが戦争体験のない方だそうです。この平和は多くの人達の尊い犠牲の上に築かれたものです。それを伝える人もだんだん少なくなってゆきます。今伝えなくていつ伝えられるか。そんな思いで重いペンを走らせました。戦争は再びしてはなりません。平和こそ倖せの原点です。
 以上が戦争の時代を生きた私の体験と、いつわらざる気持です。私は戦争で怪我一つしませんでしたが、心に受けた傷は生涯消えることはありません。肝に銘じて若い世代の方にお願いします。戦争はしてはなりません。どうか子に孫に伝えて下さい。








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