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終戦前後の日立
高達 秋良(こうだてあきら 一九二四年生)
1 艦砲射撃
 昭和二十年代私は、多賀高等工業学校機械工学科(現茨城大学工学部)の二年生であった。この時代は工業関係の学生は、卒業まで徴兵は延期であったが、二年生から徴用と言って工場で働く事になった。当然ながら一年生時代には朝八時から夕六時まで猛烈な詰め込み教育がなされた。二年生になり日立の機械工場の徴用が決まったが、各科二人は文部省研究員として徴用を免除され、私はそれになり、実際は日立の中央研究所(日立市)に行く事になった。
 学校は一学年六百人の全寮制度であり、徴用の同級生・上級生は徴用先の企業地に移住し、二・三年生の研究員のみ寮に残り一年生を迎える事になり、この年の入学は一月遅れの五月初めになった。いよいよ新入生の入学式があり、当然ながら、その日の夕食は全員広い食堂でささやかな晩餐会が開かれた。私は二寝室一学習室の大部屋方式、一年生十五人の五号室の責任者になった。
 寮の建物は海岸から約一キロのなだらかな斜面にあり、阿武隈山系の麓で遥か南に海が見え、当然ながら夜はカーテンを引いた真っ暗な灯火管制である。その夜は時おり強くなる雨であった。皆と色々駄弁りながら電気を消してカーテンを開き寝床に入った。寝入ったと思った一時頃に突然ピカッと光りドスンとの音に目を覚ます。一瞬雷かと思うが何か違う。咄嗟に艦砲射撃と感じた。それは日頃から潜水艦からの艦砲射撃が警告されていたことと、前日塩釜が米軍連合艦隊に攻撃をされた情報を得ていたからだ。そこで大声で「皆起きろ洋服を着ろ」と叫び自習室に入ると、ドスンと言う音とガラスの砕ける音。もう夢中で「五号室俺についてこい」と叫びながら玄関に向かった。各部屋からどんどん学生が出てくる。時々昼のように明るくなり、ものすごい音と、ガラスが砕ける音。玄関を出て寮の門から海岸方向に走る。遠くの海に光が見え、その直後に弾丸が着地したと思う瞬間に地に伏すが、フィーという厳しい音に破片が身近に飛んで土砂をかぶる。起き上がり走り臥せ「五号室」と叫び、溝状の道陰に沿いながら道から川原の斜面に降り、弾丸がやってくる方向の陰に入る。やや落ち着いてきたので学生の一人ずつに番号を呼ばせる。その川原には町の人も避難している。私に新入生何人かがしがみつき、がたがた震えている。一瞬敵兵が上陸してきたら石を放って抵抗するしかないと考えた。
 砲撃の音は遠のき、近ずき、遠のき、やがて消え、川の流れと雨の音のみの静寂になった。もう大丈夫と思い、もう少し海よりの学校に皆を連れ移動した。皆が続々集まってきた。やがて雨もやみ、東の空から日差しすらさす静かな夜明けとなった。そこで課別にまとまり、列を作って寮に戻る事にした。日立工場寮にいた同僚が応援に来て無事を確認し、一年生を預け、列を離れ、寮の正門に入ってびっくりした。人の手だけとか、足だけとか、バラバラになった人体が泥まみれに散らばっている。それまで恐怖感が不思議なほど全くなかったのが、初めて恐怖感を覚え、がたがた震えた。玄関には負傷した学生が運びこまれ、何人も横たわり、そこに軍医と衛生兵がきて、傷の状況を診察し、直ぐに運びだす人と、残す人をテキパキと区分していった。残された人の中には傷口を押さえ「お母さん」「先生を呼んできてくれ」と叫ぶ者もいたが、治癒が難しい人が残されたようだった。自分の部屋に戻って見ると、掛け布団に砲弾の破片がつきささっていた。
 結局学生十五人、学長一家全員五人の死亡と、五十五人の負傷が伝えられた。学校は新入生を直ちに故郷へ帰し、学友と共に木工工場で応急に作った棺桶に死者を入れ、親族がくるまで玄関に並べ、親族に対面後火葬場に運び、茶毘にふした。部分的に破壊された寮は、三十人の二・三年生と死体の生活が約一週間は続いた。
2 空襲
 艦砲射撃後の混乱もおさまり、同僚と日立の研究所に通い始め、高周波焼入実験を次週からする事になった。休日だったので寮にいたら空襲警報、やがてB29が青空の遥か高く編隊を組み、真上で爆弾を東の日立市の方に落しはじめた。爆弾の空気を切る音と共に、東に見る間に真っ黒く噴煙が上がる、約百機が次々一トン爆弾を実に見事な編隊で落とし東に去っていった。
 飛行機が去り学友と日立の工場に向かった。日立市は中心の丘の上に日立本社と研究所と幾つかの工場、その周辺に沢山の工場、そのまた周辺は町であるが、落とされた五百発の爆弾の内、民家には二・三発、あとは全部工場の敷地内に落ちる正確な爆撃だった。休日でなければ一万人を越す出勤者がいる。だが幸いにも休日出勤者が少なく、後で死者は五百人と伝えられた。しかしそれから約半月は、丘の斜面に掘られた防空壕の中に生き埋めになっている人の掘り出し、救出の日々であった。
 その内に米軍戦闘機も飛来し機関銃射撃が行われ、米軍の上陸も噂されて、町の人はどんどん疎開し、阿武隈山に野宿する人も出た。ある夜、日立市は焼夷弾爆撃を受け、消火できる人は軍隊・警察・学生ぐらいで、大半は焼け野原になってしまった。
 こうした中で学校に戻り、先生から研究所の壊れた実験器具の修理の為の設計方法を学ぶとか、先生方の家族の疎開を手伝う等をした。そうした中で機械科の科長の先生が、家族の疎開先を日立鉱山の山奥の社宅に決められたので、先輩二・三人と荷車に家財を積んで約二里の山道を登った。その日は八月十五日であった。目的地に着いたのは十一時半頃で荷物を降ろし、迎えた鉱山の社員と町の人から、今から天皇の放送があると知らされ、それを人垣の後ろで聞くが、聞き取りにくい。誰言うとなく「戦争は終わった」ということだった。
3 敗戦
 空の荷車を一人で黙々と引き山を下る。やがて先生が向うからやってきて、「君負けたよ」と声をかけられ、どっと涙があふれた。その夜、水戸の軍隊と東京に行く誘いの噂もあり、寮の庭で建物の破材を燃やしながら三十人の学生が大声で軍歌などを歌った。しかし朝になるとすっかり興奮も醒め、とにかく学校に行く。空は明るく、飛行機が全く飛ばず、警戒警報も鳴らず、実に静かに鳥の囀りを聞き「国敗れて山河あり」の言葉を身をもって感じた。
 やがて学生も戻り、とにかく授業が再開し始めた。しかしラジオ放送から「真相はこうだ」を聞き、一体この戦争はなんであったかを考え始めた。国家というものが、とんでもない事に国民・民衆を巻込み、多くの命を失う結果になった意味はなんであったか、それを何も知らない事に気が付き、人間としての自分に目覚め始めた。そしてもう決して国に騙されまいと思い、それからは勉強以外の本を猛烈に読み始めた。その初めの本は、戦争中読書が禁止されていた河合栄次郎の「学生と読書」である。その本では自由の大切さと自分の責任の自覚の大切さを言っている。これを国は読書禁止にしたのだ。
 戦争遂行という名目の不条理の中で、学業寸前に死んだ学友を思うことから、私の昭和二十一年(一九四六)が始まった。








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