青森空襲の一夜
水梨 律子(みずなしりつこ 一九二三年生)
昭和十六年(一九四一)暮に訪ねてきた元新聞記者の従兄が「この戦争は負ける。アメリカの科学技術、軍備力の水準は比較にならない」といい、東京は危険だからと私の上京に反対した。そこで私は、青森県立病院付属助産婦、看護婦養成所を受験し、入所したのが十七年四月である。看護婦は志願しなければ戦地にも行かず、軍需工場への徴用もなかったのである。
軍港の大湊と違い青森は戦争と無関係と言っていた人びとも、十九年になるとB29が現われ、湾内の漁舟が機銃掃射を受け、死者が多数出ると、戦争に関わりのあることを知った。十九年十一月、父が家族と共に北海道から引き揚げて来た。周辺にソビエトの軍艦が頻繁に現われ、どうせ死ぬなら内地でみんなと一緒にと考えてのことだった。
この年の冬は早く、寒さも積雪量も古老の話では何十年ぶりとかいう。平屋は戸口から雪の段々を登って道へ出る。二階家は窓から出入りするほどで、燈下管制で外燈もなく、電線に触れないようにと注意があった。青森の桜は東京よりひと月遅れなのだが、県南の八幡宮の桜が二月の雪の中で咲き、不吉な予感がするとひそひそ話し合われた。そのころから私達は枕元に靴、防空頭巾、炒り米や薬と貴重品を入れた救急袋を置いて寝た。私は野宿を考え短いオーバーも用意した。
そして七月二十七日、あす日曜日に荷物の疎開をするから病院の玄関へ出せといわれた。県内の人は休みに自宅に運んだらしい。私はトランク一杯に詰めて出した。
その夜九時点呼が終り、いつものように着のみ着のままで横になるとサイレンが鳴った。ラジオが「B29、大湊方面に向いつつあり」と言い終らないうちに部屋がぱーっと明るくなった。廊下へ出て空を見上げると、真っ白い光が真昼の太陽のようで「照明弾かしら」とつぶやいたとたん、真っ赤な火の玉が一面に散り降ってきた。「親子焼夷弾だ逃げろ」と誰かの声にみんな外へとび出した。私と田中は三年生になっており、12号室一年生四人の世話もしていた。一年生が逃げたのを見届け部屋を出た。すると寮の出口付近に落ちた焼夷弾が、噴水のように火のしぶきを上げた。二人は浴場にはいりバケツを被ると水がはいっていて頭からずぶ濡れ。また落ちた音に、今度はコンクリートの流しに頭を入れた。頭隠して体は出ている。
やっと調理場を通り外へ出た。草野球のできる広さの運動場に防空壕が幾つかある。行く手は火の海で運動場だけが火の気がない。ふと気がつくと私は炒り豆を固く握っていた。二人は防空壕へ走った。
その時すぐ近くの一病棟から「誰かァ助けてぇ誰かァ」と金切り声がする。義足の人さえ逃げたらしいのに……私は反射的にそちらへ走っていた。田中も後に来ている。私は、万一のためにと支給された三ヶ月分の給料を、助教授に戴いた非売品の芥川龍之介の本にはさみ、戸口の外に置いて中へ走った。手術したばかりで……というその人の奥さんに「毛布毛布」とひったくるようにして毛布を敷き、その上に病人を寝かせた。田中に「確りね」と声をかけ、担架代りの毛布の角を握り部屋を出た。
ところが、入ってきた病棟の入口付近は炎がひどい。中庭に面した廊下に引き戸がある。奥さん開けて!といってもおろおろしている。私は用心しながら右足を上げ蹴飛ばした。二度目に戸がはずれた。建物や木のない所と考えながら必死に走り、病人を防空壕へ運び込んだ。あ!お金、と私は引き返したが熱い炎に近づけなかった。この辺りは海が近いせいか壕には膝下位までの水が溜っていた。腰掛用の三十センチ巾くらいの板に病人を寝かせ、その足の方に奥さんが腰かけているが、田中と私は水の中に立っていた。焼夷弾は海岸からぐるつと市を囲んで落したようだった。
随分長い時間が経ったようで、そっと壕の戸を開けると熱い!ガスバーナーの炎を突きつけられたように熱い。炎のほか何も見えない。懐中電燈で時計を見ると午前一時。まこと灼熱の炎の中に四人だけ生き延びることができようか。二時間ほどしてまたのぞくと、空は一面火の色、運動場の囲りはごうごうと炎が音を立てている。外は地獄の火の海というのに、水に漬り濡れたオーバーを背負って全身冷えてきた。五時ごろまたのぞくと、音は無くなり、ちらちら火が見えるだけで、空の色が煙の合間に見えてほっとした。その時運動場に近い四つ角にある八幡さまがごうっと燃え出した。それまで燃えなかったのが不思議だった。きっと火が衰えるまで四人を守ったのねと、田中と二人で手を合せた。八時ごろ外へ出てみたが、配給の鮫の皮の靴では地面が熱くて歩けない。
昼ごろになり、病人もこのまま置けないから、集合場所の医専校舎に行ってきたいと病人に話し、二人は壕を出た。ところがどうやって大通りに出るか、まだくすぶっている所もあり熱い。直撃されてはじき飛ばされ、土の上に落ちて燃えなかったらしいナナカマドの枝が落ちていた。それを拾い、もしかして食料庫に何か残っていないかと入ってみた。米も豆も炭化して崩れている。味噌樽のたがらしい金輪がある。枝で厚い黒焦を崩していくと、いい香りがして茶色が見えた。指でほじくると熱い味噌だった。焼味噌ねと二人でなめた。
やっとの思いで大通りへ出ると、この世に人の無き如く、音というものがない。のろのろと歩いて行くと、焼け焦げ一つない人が頭を側溝に突っ込んで死んでいる。煙か一酸化炭素でやられたのか幾人も見かけた。また広い地面に大木が黒焦げで立っており、太い柱が家の間取りを語るように黒焦げに立っていた所もある。
やっと校舎に辿りつくと、二人は死んだと思ったとみんな喜んでくれた。卵大の玄米おにぎり二個をもらい、よ一く噛んで食べた。水のおいしさは格別だった。婦長に、病人のいる防空壕番号と西瓜大の味噌の報告をすると、食べたら患者護送といわれた。青森駅まで四キロ位で、行くときはホイホイと急ぐが、空の担架をかついで暑い日盛りを帰るのは足が重い。水道管の破れから細菌混入のおそれがあるから飲むなといわれても、噴き出している水をみるとつい飲んでしまう。
病室になっている校舎で、病人に体温計を渡す前に36度にしておこうと振って、落したら大変と両手の指で持った。トトトと上がっていく、もう一度やり直しても同じなので、片手で握るとスーッと38度、脇の下にはさむと42度。え!とたんに私は力が抜けた。十四時間も水に漬かって風邪でもひいたのかと婦長に話すと「ここでは寝てもいられないから、本籍地か親戚へ帰郷しなさい」といって罹災証明と五円用意してくれた。とろとろと歩いて駅に着くと、高熱と添え書きがあり腰をかけられたが、坐るのも辛かった。こうなると燃やした本と三ヶ月分の給料が惜しかったなどと考えながら、うとうとした。
下車した駅で罹災証明を見ても駅員は無表情だった。家まで四キロの道を三時間かかって辿りついた。家族は泣いて喜んだ。母は「陸軍病院から退院したばかりというのに志郎は、駅で汽車に乗せないなら歩いて探しに行くといって……」と話してくれた。駅員だけでなく私も、三月十日の東京大空襲を靴の外から踵をかく感覚でしか理解していなかったのではないか。兄は戦地で悲惨な状態を見ているから探しに行こうとしたのであろう。どんな理由があろうと殺人は嫌だ。戦争絶対反対。