東京最後の空襲の夜
長澤 榮美子(ながさわえみこ 一九二〇年生)
終戦の昭和二十年(一九四五)三月十日には東京の下町を襲う、大空襲があり多数の死者と被災者を出しました。そのあおりが山の手にもおよび、五月二十四日夜半から二十五日の未明にかけ、青山・渋谷方面が焼夷弾による大空襲を受けたのです。以下に綴るのは、そのとき遭遇し、九死に一生を得た体験談。肉親の多くはその後亡くなり、体験談を語れるのは私一人になってしまったので此の機会に、筆をとらせてもらった次第です。
当時、敗色濃厚となった日本は日増しに戦局が厳しくなってきました。結婚一年目で、夫と生後三カ月の長男と三人で、明治神宮の表参道に面していた、青山アパートに住んでおりましたが、前日の二十三日、目黒の私の実家が空襲に遭遇、焼け出された両親と弟妹三人が私どものところに避難していました。
二十四日の夜更けに始まった焼夷弾攻撃は大変激しく、表参道の道幅いっぱいに落ちた弾が炎を吹く様子はまるで狐火のように、瞬くうちに辺りを埋め尽くしていたのです。周囲の家の火災で起きた猛烈な熱風で鉄筋コンクリートの家の中にいても蒸し焼きにされそうでした。「危険だ」と判断した父と夫は家族に外に逃げるように命令しました。
アパートの建物の陰には、避難してきた人々がうずくまり、通るのも困難な状態でした。そのなかを踏み越えるようにして夢中で道に飛び出したのです。表参道の恐ろしい光景の中を走っているのは、私共家族、八人ぐらいだったのではないでしょうか。でも、危険はわかっていてもそうするほか、方法がなかったと思います。
赤ん坊を背中に負ぶっていては危ないので、胸に括り付けました。手にはおしめと牛乳ビンだけを持った脱出です。暗い神宮の森を目指して坂道を下ったのでした。熱風に巻かれて道にはさまざまな障害物が飛び交っています。それを避けながら、立ったり、坐ったりの連続でした。妹二人が私の両肘を支えてくれたからこそなんとか走れたのでした。赤ん坊の重みと疲れで、立ちあがって歩くのも困難でしたから……。八人が怪我もなく森へたどり着いたとき、本当に生きているのが不思議なぐらいでした。
後で聞くと、表参道を青山通りのほうへ逃げた方々は、交差点の大灯篭の周りで折り重なるように亡くなられていたとのことです。そのなかには知人の方もおられ、胸の痛む思いでした。
神宮の森がようやく白みかけたころ、今の拝殿の近くにたどり着き、木立の茂みの元に腰を下ろしました。胸に抱いた赤ん坊を寝かせようと降ろしたところ、土だと思ったところが石だったのですね。息子は大声で泣き出したので、ああ生きていてくれたのかと、安堵の胸をなでおろしたのです。
それから間もなく、梢の上のほうでパタパタパタとなにか風になびく音が聞こえたのでした。森の鳥が空襲で羽を痛めたのであろうかと見上げると、白い布のようなものが見えるではありませんか。落下傘の布でした。米軍の、それも少年らしい横顔の兵隊が木から降り、煙草を吸っていたんです。暫くすると五、六人の男の声で「あ、ここだここだ」と駆けつけてきました。警防団の人たちでした。直ぐ捕らえられ、おとなしく連れて行かれましたが、もしピストルで抵抗でもしていたら、私共も危なかったでしょう。
朝日が昇り、省線(今のJR山手線)の原宿駅を通り帰途につきました。途中、落下傘で降下したのであろう、米兵の遺体を三体ほど目撃しました。また表参道には焼死体が累々とした悲惨な光景がありました。
渋谷まで見渡す限りの焼け野ヶ原。幸い私共はコンクリート建てのおかげで焼け出されずに済みました。防空壕生活を考えれば、まさに天国としかいいようがありません。
いま、若者の街として賑わうJR原宿駅前に立つと、五十数年前のあの日のことがまざまざと脳裏に甦って来ます。原宿・渋谷だけではない。日本全国で多くの犠牲者をだしたあの戦争を知らずに、ただ、享楽の世界に打ち興じている若者に、悲惨さを伝えなくていいのでしょうか。息子や孫を再び戦場に送らないで済んだこの五十余年の平和は尊いものです。
空襲の焔に追われ代々木の森へ
胸に抱きし吾子も五十路半ばに